人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

GWを満喫する方法

    

            旭日の 光に泳ぐ 金魚達(笑)

 

 

 世はGW真っ盛り。麗しく爽やかな蒼穹を仰いでいると、自ずと笑みが零れます。今程に翼を持つ鳥達を羨ましく思った事はありません。天高く飛翔するヒコーキ雲にも、抱き着きたくなります (*'▽')
 それにしても月日の流れは早いですよね。光陰矢の如しとは言いますが、気がつけば正月。気がつけば五月と。光陰矢の如しとは言いますが、それと同時に己が年齢も増して行く現実には、不遜でお目出度い自己憐憫が隠せません。それとは裏腹に胸に込み上げる、無意識な逸り気の萌芽も、所詮はそんな他愛もない懊悩から抜け出したい反動に因るもので、この連休が持つ、嫋やかで厳粛な才力の表れなのでしょうか。
 気まぐれな衝動で、また久しぶりにブログを更新しようとしている自分の存在にも、不思議な懐疑が湧いて来る所ですが、軽く目を通して頂ければ幸いです^^

GWとは

 抑々GWとは一体何なのか。great waterではありません。golden weekです。単純に和訳すると黄金週間です。きらきらと輝く黄金の一週間なのです ✨ 
 wikiには1948年の国民の祝日に関する法律施行により、4月29日から5月5日までの期間に休日、祝日が集中するようになり、この期間がGW(ゴールデンウィーク)と呼ばれるようになったとあります。
 だから何? と、思わなくもない所ですが、要は偶然の一致に依って出来た、大型連休という事でしょうね。余り深く掘り下げて考える必要はないでしょう。
 ただ、その過ごし方、楽しみ方という点では熟考する価値もありそうです。ここを見誤れば、後々後悔する事にもなりかねません。備えあれば憂いなしです。という事で自分が編み出したgwを満喫する方法を幾つか紹介して行きたいと思います。

その弌 自分自身が黄金になってはいけない

 いくら黄金週間といっても、人が黄金の身体になる事は無理なのです。余りにも不遜な、過ぎた己惚れです。驕慢とは正にこの事でしょう。黄金というものはあくまでも神秘に包まれた、神々しい輝きであり、享受される事はあっても、自らが創り出せる代物ではないのです。聖闘士星矢に於ける黄金聖闘士でも、黄金聖衣を纏う事に因って初めて黄金の光が放てるようになるのです。北斗の拳に於ける元斗皇拳の使い手も同じで、想像を絶する修練を重ねた上で、漸く光輝く手を持つ事が出来るのです。だいたいアニメの話を真に受けてはなりません。あれは虚像の世界観を映じたものなのです。

その弐 幻の自分を具象化する

 とはいってもせかっくの大型連休。腐ってもGWなのですから、夢のない話ばかりしていてもつまらないです。普段とは違った趣向でこの連休を堪能してみたい気持ちになるのが人情というものでしょう。
 そこで出て来た方法が、夢想の裡に姿を現した己が存在を実際に体現してみせるといった、言うなれば正夢を自らの手で創り出すという方法です。
 それを為すにはまず夢を見る事が必要不可欠です。これをしなければ始まりません。そしてこれは実は簡単な話でもあるのです。夜眠っている時は無論、昼間ボケーっとしている時にも、想像や空想に耽る事は往々にあると思います。そこに描かれた物語を、そのまま行動に表せば良いだけの話なのです。
 たとえば海外旅行に行く夢を見た場合は、そのまま旅行に出れば良いだけで、ドライブをしている夢ならば、ドライブをすれば良いという、至って単純な話です。家でごろごろしているだけでも良いのです。犯罪さえ起こさなければ、他者に迷惑さえかけなければ、何をしても良いのです。その夢の内容が、自分の意に反するようなものであったとしても、そうする事で、満足感は得られるのです。人の思いとは行動した後に付いて来るのです。先に結果を求めるような事はナンセンス極まりない、合理主義者の虚構と言えるでしょう。案ずるより産むが易しです。

 

その参 自然と同化する

 ならば夢を見られない時はどうすれば良いのか。或いは既に予定を立てている場合は? それも簡単な話です。あるがままの自分を行動に出せば良いのです。
 どうしても夢を見る事が出来なければ、家でごろごろしていたり、その辺を散歩するだけでも、十分に心は充たされて行きます。抑々何かをしなければならない、と思う念慮こそが、いつの間にか我が身に枷を掛け、その身体を、精神を束縛し、自分を苦しめているのです。大袈裟に言えば、一生仕事もしないで、古の上人や仙人のように、或る意味では放埓の限りを尽くす、そして空虚でもある生涯を遂げてもバチは当たらないと思います。無論それで生きて行く事が出来たらの話でもある訳ですが。
 どちらかというと自分は気まぐれや衝動で動くタイプの人間ですから、予定を立てるという事はあまりしません。でも予定があるからといって、それに縛られる必要もないのです。何故なら、その予定というものも、既にして自らに枷を掛ける力を持っているからです。予定を破る事は人倫の道に反します。でも予定を破る事にも、美なる芸術の一端が存し得るとも思われるのです。これも無論勧めている訳ではありません。そういう道も有るのではと言うだけの話で、あくまでも自分の身勝手な主観で、稚拙な持論に過ぎません。

 

 以上。GWを十二分に満喫する方法。真のgolden weekerになる為の公開オンライン講座でした。go go go ! (*'▽')  
 

 

 

 

 

 

祝 アクセス10000超え

 

 

         如月の 蒼穹(そら)にも泛ぶ 正月よ(憫笑)

 

 

 まだまだ寒い日が続きますが、皆様如何お過ごしでしょうか。暖冬なのか寒冬なのかはっきりしない天候に、精神までもが翻弄されているような気がします。

 補正され美化された、都合の好いノスタルジア追想)に浸る癖がある自分としては、毎年のように、一瞬にして過ぎ去ってしまう正月(年末年始)の、早々と厳粛を懐かしむ余り、未だしてその心は冬眠したような状態です(笑) この為体、正に汗顔の至りですね 😓

 

祝 10000超え

 

 

 ブログを始めて約二年での成果です。平均で見ても少ない部類だとは思いますが、この10000アクセスという数字自体には、素直に喜びを感じます。これも偏に皆様のお陰です。有難う御座います^^

 今にして思えば、ブログなるものに目覚めた当初は、自分はまだ右も左も判らぬ新卒同然の、おぼこい青年でした(何でやねん)
 それがいざ書き始めると、この凡庸極まりない感性が故知らず、理屈抜きに刺激を覚えたのか、子供がおもちゃ箱を開ける時や、長い鬱蒼とした洞窟のゴールたる光暉を目にした時の昂揚にも似た、歓喜に充ちた、己が感覚を超越したかのような情動(エモーション)に駆られ、衝動のままに筆を走らせる有り様でした。
 その時に生じた直感が、自らの人生を体系的に捉え、体系の中に根差す、自力ではひねり出す事が難しい程に疲弊しかけていた意識的感覚を昇華させたいと、静かにか細くも、冷冽で堅強な蝋燭の炎を以て躍動しました。

 黎明の啓示を享受したと言えば余りに大仰で、羞恥を禁じ得ない所ではありますが、受動的で堕落した人生を彷徨していた自分にとっては、それは正に透徹した暁色に輝く草花の笑顔を想起するもので、心に沈殿する数々の悲哀は、忽ちにして自然の無限に依って鎧袖一触されました。
 しかしながら、それだけで全てが解決される程、甘い人生でなければ世の中でもありません。元々怠惰であった自分は、三日坊主の名に恥じぬ見侭で超然とした日々を送り、自他共に生起される遍く事象に冷笑で応え、己惚れた、不遜な厭世主義を貫いて来ました。

 やはり先天的な性格までは変えられないように思われます。でもそこに在るのは惰性で象られる諦念ではなく、その拭われない瑕疵を一生引き連れて行こうとする、潔い覚悟だと、また尊大な自負を抱く所でもあります 😓

 

 という事で、またまた久しぶりのブログ更新となった訳ですが、この心の冬眠に、一条の光を照らしてくれた、アクセス10000超えという細やかな祝いには、改めて謝意を申し上げたいです。そして更に美しい、壮麗な梅の開花を夢見て、これからも自分なりに精進して行こうと思います。

 では皆様、ごきげんよう 😉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ないもの強請り

 

 

            秋雨は 天の涙か 冷笑か

 

 

 いやいや、皆さんお久しぶりです。最近は何かとバタバタしていて、ついブログ政策を疎かにしてしまいました。汗顔の至りです。(本当は暇なくせに 😅)

 しかし氷室京介はカッコいいですね(いきなり何の話やねん!) 昔から好きだたtのですが、今になってまた嵌っています。曲は勿論、歌い方、声、ルックス、表情、性格(分かりませんが素晴らしいと思います)、とにかく全てに、時代を超越したカッコ良さを感じます。自分もあういう男に成りたいと、憧れてしまいますね。高望みし過ぎでしょうけど(笑)

 という事で(どういう事やねん!?)、今日はないもの強請りというテーマで話して行きたいと思っているのですが、結論から言いますと天気、それも雨についてです。

 何故雨なのかと申しますと、自分の地元神戸は雨量が極めて少ないのです。一見良い事では? とお思いでしょうが、実はそこにこそ一言では言い尽くせぬ、万感の思いを含めた物語が存在するのですねぇ~。(大袈裟なんやー言うねん(笑))

 

暑い

 基本夏は暑いものですが、今年の夏にも例年以上の暑さを感じました。嫌になってましたね。エアコン代も莫迦になりませんでした。

 元々汗掻きな方なのですが、それが年の所為かより汗掻きになってしまい、嫌になって来ます。熱いものや辛いものを食べた時や風呂上りなどはその典型例で、病気を怖れるほどです。

 でも心配は要りません。解決法は既に心得ております。それはやはり精神統一という話ですね。心身一如とは言ったもので、病は気からとも言いますし、無心に勤めていれさえすれば自ずと汗は引いて行きます。いくら暑いとはいえ、汗を掻いている時点で、少なからず、気は乱れているのです。だからこそ深呼吸でもして気を落ち着かせるのです。さすれば如何な有事の際にも慌てる事なく、毅然とした態度で行動する事が出来るのです。😒

 ま、言うは易し行うは難しで、そう簡単に出来る事でもありませんが、そう自身に言い聞かせながら生活している状態ですかね。

 

晴耕雨読

 これも今更ですが、昔の人は本当に晴れては耕し、雨の日は読書ばかりをしていたのでしょうか? 一概には言えないまでも見習いたい所ではあります。

 

grading.jpn.org

 

 この統計から見る限りでは、兵庫県の年間降水量は何と43位。下から数えた方が早いぐらいに雨量は少ないのです。

 そら降れへん筈やと思いましたね。今年は特に雨が少なかったです。たとえ降っても気休め、冷やかし程度の微々たるもので、断続的に降る事はまずなかったと記憶しています。

 週間天気予報でも、雨だった筈がいつの間にか曇りに変わり、更には晴れマークに化け、笑顔の太陽が光輝いている始末と。これでは何か雨が可哀そうにも思えて来ます。

 晴れて文句を言うのは如何にも贅沢で、天為(てんい)に対し弓引くも同然とも思われますが、そのバランスが崩れているという観点からは、単なる文句でもないような気もするのですが、どうでしょうか。

 自分は雨が降れば落ち着く方で、雨が雑音や雑念全てを流してくれるような感慨に浸る事が出来るのです。だから雨の日は読書も進みますし、執筆活動も捗ります。これも偏に年の影響か、或いは自分がネガティブ過ぎるのでしょうか。元々外の仕事をしていた為、学生時分の警報が出た時に覚えた昂揚感と同じで、単に怠け者なだけかもしれません。

 

隠された芸術性

 嵐、竜巻、台風、大地震、大災害、天変地異。

 これを望んでしまえば、それこそ不謹慎極まりない話で、万死に値する賊の烙印を押されてしまう事でしょう。

 いつか書いた記憶があるのですが、自分も昔阪神大震災で被災し、それなりの苦しい思いをした経験があります。その経験を踏まえた上でも世の混沌、非日常を願わずにはいられないのです。刺激と一言に片づけるのも早計でしょうが、何か張り合いがないような、物足りないような気がしてなりません。雨が少ないから尚更そう思ってしまうのかもしれません。

 そこで、自然という天候に見る美醜清濁を、快晴と雨や嵐に喩えるなら、美観は晴天に、醜や濁は雨に一応当てはめて考える事が出来るとも思われます。

 でも真の芸術がそんな単純に二元論で表せられる訳もなく、曲でもあるように、雨をテーマにしたものが多い事は言うまでもありません。これも所詮はバランス感覚という理論で、要は様々な事象があってこその美であり芸術であり、花鳥風月なのだと思います。

 それにしても幼子でもあるまいし、天にまでものを強請ってしまうこの精神性は情けない限りです。部屋の窓から見る空模様も曇ってはいますが、決して雨は降っていません。昨日の雨も大した事はありませんでした。これから回復に向かって行くのでしょう。それなのにまだ荒天を願っている自分が居ます。それならいっそ雨量が多い所で住めば良いのかもしれませんが、その勇気や根性も当然ながら持ち合わせてはいません。本当に情けない、不平不満を口にしているだけの有り様です 😢

 

 という事で、相変わらず自分語りをしただけの記事でした。こんなおもろい話しとう場合じゃないですね(何処がやねん!?)

 以上、久しぶりの投稿でした。では皆様、ごきげんよう 😉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

孤独の必要性と作り方 ~人付き合いとの関係性、その割合

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           冷風に  そよぐ桜の  美しさ(笑)

 

 三寒四温とは言いますが、四月になっても肌寒い日が続きますね。暑さ寒さなんかに負けて男が勤まるんかい、という古い考え方を持った自分も居ますが、年の所為か、寒さが堪えるようになりました。情けない限りです 😴
 という事で(どういう事やねんと)、今日は孤独という言葉についての持論を語ってみたいと思います。孤独を愛し、孤独を憎む。なかなか難しい話です。

 気楽に、でも少し真面目に行ってみましょう^^

 

そもそも孤独とは

 精神的なよりどころとなる人や、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。 「自分がひとりである」と感じている心理状態を孤独感(loneliness)という。

 たとえば、物理的には大勢の人々に囲まれていても、自分の心情が周囲の人から理解されていない、と感じているならば、それは孤独である。当人が、周囲の人たちとは心が通じ合っていないということに気付いていれば孤独である。たとえ周囲の人々の側が、その人と交流があると勝手に思っていても、当人が、実際には自分が全然理解されていないと気付いていれば孤独である。

 とありますね。要するに独りぼっち、淋しいとかいう意味合いであると思います。

 ただこの文中にあるように孤独というのもは成るものではなく、感じるものだとも思えて来ます。つまりは、たとえ集団で居ても孤独は何時襲って来るか分からない、自分で予想も出来ない、言うなれば自然現象に近い存在、事象という定義付けが出来るような気がします。
 

輪の中で感じる孤独

 自分はこの『人の輪』というワードが大嫌いなのですが、そこにも一応の主観的な理由はあります。
 過去にも何度か綴ってみた事がありますが、まず輪とは何なのかという話で、それは真の『団結力』や『絆』などとは程遠い、単なる見せかけだけの極薄い部分での『協調性』や『迎合』に過ぎないと思います。

 現代人自体が本物を求めていない、欲していないという可能性もあります。ただ気楽にそれなりに生きて行ければそれで良いみたいな、全てがライトな感覚で捉えられる時代なのかもしれません。

 でもどのような時代にあってもやはり不変の原理性から成り立っているであろう、人間生命の髄という事に焦点を当てた場合、どうしてもこういった硬い話を素通り出来ない自分が居ます。無論これぐらいの事を考えている人は沢山居るとは思いますが。

 元来、日本は『和』の国だと言われています。読んで字の如く和むという意味合いですよね。上辺だけの、他者を、その場の空気感などという、はっきり言って自分にはクソ下らないと思われるものを必死に読んで、自分一人だけでもハブられないよう努める事に何の意味、価値があるのかと不思議で仕方ありません。
 そうして作られた『輪』などは『和』とは似て非なるものどころか、全くの別物で下位互換にも成り得ていないと言わねばなりません。

 然るにそういった輪を意識し過ぎるが故に、その中で感じ得た孤独に必要以上に恐怖し、そこから一刻も早く逃れたい一心で精神が掻き回され、乱れ、暗鬱、陰鬱な状態を強いられてしまうようになるのではないでしょうか。

 ここにも個人差、精神性の強弱は存在するとは思います。自分のような極めて人脈の薄い人間でさえ仕事場でも私生活でも、幾度となく孤独を感じ、それと戦って来た経験はあります。

 いい年をして恥ずかしい話ですが、時にはそれが為に茫然自失、自暴自棄に陥った事もあります。実際に完全に病んでしまい、自分の前から姿を消した数少ない中の友人も居ます。
 でもその友人は言っていました。

「お前何でそんなに強いねん? 連れおらんかったら淋しくないか? 怖くないんか? 俺やったら持たへんわ」 

 と。

 確かに交友関係が広い者ならそう思うかもしれませんね。何となく理解出来るような気がします。

 でもそれを何故そこまで苦にするのかと疑いたくなる自分の方が明らかに勝っていて、それぐらいでクヨクヨしていたその友人に対し、カマシを入れた事もありました。

 特にネットが普及し尽くした現代社会では上辺だけの他者との繋がりを重視している人が増えたように思われます。自分は未だにガラホなのですが、昔から電話や頻繁なメール、そして現在のsnsと。

 それらは形は変われど、近所付き合いや人付き合いと全く同じ意味を為していて、姿の見えない相手に対しての意見であっても、発信者である本人の意思という点ではやはり同一の意味を為していると思います。

 自分も複数人で居る時に感じる孤独感には恐怖を覚える事はあります。自分一人が浮いているのではないか、嫌われてしまったのか。などとその場から消えてしまいたくなる時もあります。

 でも少なくともそれが故に病む事まではまずありません。それは自分が強い訳ではなく、嫌われる事を苦にしていないからなのです。一見何をカッコつけているんだ。と思われるかもしれない言い方です。自分とて好き好んで他者に嫌われようとは思いません。でも、他者との軋轢なくして真の情感、情愛は生まれて来ないという尤もらしい言説には一理はあると痛感しています。
 つまりは争いとまでは行かないまでも、少々の諍いすら非とするならば、まずこの世の中自体が存在し得ないとも思われ、もし、百歩譲ってそれで成り立つ世の中であれば、生きる価値すら無いと断言したい自分も居るのです。

 何が言いたいのかと言えば、たまにぐらいは嫌われても良い。嫌われる事自体を甘んじて受け入れるという思考を持つ事も大切なのでは、それは決して自分を厳しく律するという意味での所作ではなく、寧ろ自分を甘やかすという意味合いで受け取り、嫌われてなんぼや、という諦めや投げやりな態度ではなく、『潔い自我の捨て方』だと考える所でもあります。

 

孤独の割合と必要性

 まずは自分の個人的な孤独の割合ですが、技術職に就いている影響か、職場でも一人でいる時間は結構長く、独りが好きな自分としては好都合なぐらいです。

 でも勿論皆と一緒に力を合わせて仕事をしないといけない事もあり、そういう時は実に面倒臭く煩わしく感じます。

 しかし、いざ皆で協力して仕事をしていると、自ずと目には見得ない仲間意識のような感覚が湧き上がり、その中にあるであろう美学のようなものにも気付く瞬間があります。それはそれで良い事であるに相違ありません。言までもない事です。

 しなしながら、やはりどちらかというと独りでいる方が気は楽ですし、それが自分の先天的な性分だとも思います。

 ま、自分の事などうでも良いのですが、良くスポーツで言われる『個の力』、この個の対義語を団体や全体とするならば、その関係性や割合といった話は、本来取るに足りない稀薄な議論に過ぎない感じもして来ます。 

 それはどういう事か。要するに全体主義に支配されているであろう現代日本社会の悲哀。その憂わざるを得ない社会構造も然る事ながら、『個』と『全体』とは元を同じくする、謂わば同じ芽から出た樹々の葉っぱ、或は草花であると仮定出来る事象であり、亦、仏教で言う所の『自他不二』の教義にもあるように、分けて考察する事にこそ、それこそ脆弱で歪んだ雑念、邪念が内在されてあり、素直にその大元である『根』、そして天の陽射しや水といった自然に感謝し、それを受け入れさえすれば自ずとそれら衆生は自然の裡に融合し得る、正に自然の中にあって何の差異もない一つの事象同士が育む営みとなって来る訳なのです。

 要約すると個人差はあれども、孤独の割合などを考察し、論じ、気にし、臆する事などは皆無といっても過言ではないと思われるのです。

 それを踏まえた上でも孤独が好きな自分は、相変わらず全くウケていないであろう小説執筆に邁進している訳なのですが、小説を書く時の孤独の必要性は高いと思われます。気が散った状態では一文字も書けません。

 という事でその孤独の作り方に進んでみましょう^^

 

孤独の作り方

 引っ越してからのウォーキングは運不足解消にも孤独を作るのにも、大いに役立っていますね。何故もっと早くにしなかったのか、情けない次第であります 😴

 それともう一つ発見した事がありました。それは自分が愛してやまない銭湯で、サウナです。

 昔から知っていて、何度か訪れた経験があったその銭湯。そこは言っては悪いかもしれませんが、少し暇そうな銭湯で、客は少ないです。何時行っても悠々と風呂に浸かる事が出来ます。

 そこでサウナの話です。そのサウナも勿論空いていて、だいたい一人で入れる時が多いのです。しかも狭く小さく、言うなればホームサウナの少し大き目といった所でしょうか。詰めれば三人は入れますが、普通に入れば二人までですね。

 そのサウナにはテレビも置いていません。完全性はないまでも、ほぼ完全といても良いぐらいの孤独に浸れる訳です。

 音も殆ど聴こえて来ないその空間にあるものとは淋しさを介さない孤独なのです。そして温度も低めなので、岩盤浴みたいな感じで長く入っていられます。10分経ったぐらいから、じわ~っと出て来る汗が快感を呼びます。

 家で独りで寝ている時よりも孤独、自分だけの時間を手にた気持ちになります。その中で考える事といえば、やはり小説の事や、実生活の事、そして自惚れを含めた世相への意見など。結構様々な事が脳裏を過る訳ですが、何を考えても決して卑屈にならず、寧ろ心地よい精神性を保った状態で時を過ごす事が出来るのです。

 団体、集団行動が好きな方は、これを独り上手などと言って揶揄するかもしれません。それでも自分は一向に構わないのですが、この孤独感は本当に心身共に良い効果があるように思えて仕方ありません。

 自分のような準脈の薄い人間でも他者と交わる、いや交わらないといけない事は多々あり、それが人間社会の常っであり、性(さが)であるとも思える訳ですが、やはり、どう考えても一定数の孤独を味わう時間は精神的な意味だけではなく、医学的にも物理的にも必要性を表していて、それなくして人間という生命は生きて行けないような気もします。

 皆さんも時にはこの『孤独』というものと真剣に向き合ってはどうでしょうか。決して悪いものでも無いような気がします。

 

 という事で以上、アホ丸出しな自分の孤独についての持論、論評でした。主観だけでなく、客観性を以て語って来たつもりですが、結局は自分語りをして来ただけのような気もしないではありません。主観と客観の関係性も所詮は自意識から生じた自我に執着する思いに過ぎないのでしょうか。自分としてはその限りでもないと信じたい所なのですが、その辺の哲学的な話はもっと勉強する必要がありそうですね。

 このままでは万年ワナビーで終わってしまいそうなサッカツ。いやそんな弱気ではダメですね。確実に進歩、成長している筈だと思って精進して行かねばなりません(笑)

 では皆様ごきげんよう。また会える日まで 😉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晴れやかで趣のあるウォーキング ~放浪人or冒険家

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          春うらら  鳴かぬ鶯  可愛けり(笑)  



 御無沙汰しております。やっとこさすばる文學賞への応募が終わりましたので、またブログ生活に舞い戻って参りました。
 はてなブログこそ我が人生? saga見参 ! アホかという話ですわ(笑)

 それだけこのブログに対する思い入れが強いという話ですかね^^

 それにしても月日の経ちよう、時間の経過というものは早い限りですね。年を取る毎にそういった、自身に対する憂いが込み上げて来ます。

 今年に入って早や二(ふた)月が過ぎ、3月も半ばに差し掛かりましたと。この間にも世間では色んな事がありました。その詳細は忘れましたが 😴 あった事には相違ありません。

 そんな中、自分は引っ越しをしました。一世一代の覚悟も以て。とまでは言いませんが、私生活でも色んな事に苛まれ続けておりましたので、心機一転を図るべく、自分なりの判断を下したという所ですかね。

 引っ越しは良いものですね。以前住んでいた所がよほど悪かったのか、まるで異世界に誘(いざな)われたかのような気がしないでもありません。

 淋しがりやの癖に、どちらかと言えば孤独を愛する自分としては、この静かな環境が贅沢なぐらいに思えます。何か西方浄土、或はこの世の天国にでも生きたまま足を踏み入れたような。無論日中はそこそこの騒音もありますが、夜などは正に静寂。怖いぐらいに静まり返っています。

 同じ区内でここまでの差異があろうとは思いもしませんでした。此処も元は実家があった、生まれ育った地元なのですが、約10年離れていた所為か、すっかり様変わりしたように思えます。

 下町にありがちな、昔ながらの古い長屋やアパート、雑居ビル。今ではそういった建物が殆ど見受けられません。何時の間に建ったのだ、というような真新しい、小洒落た建物が反射する陽の光が不自然なほどに眩しく感じます。

 ま、こう思ってしまうのも拘りの強い保守的な自分の、憂慮すべき欠点かもしれませんね。前向きに生きて行かねばなりません^^

 という事で(どういう事やねんと)、前向きと言えば身体を動かす事。といえば運動不足解消と気分転換から浮かんだウォーキング。これをしない手はありません。身体を動かしたいのに、これまでは大した事をして来ないまま時間だけが過ぎて行きました。それは取りも直さず己が不徳の致す所でもある訳ですが、街中でそれをする事に躊躇していた自分も情けないと思います。

 そこで、有無を言わさず始めたこのウォーキング。まだ始めて二週間ほどしか経っていないのですが、その効果は我ながら凄いと思います。

 まずは運動不足解消。水泳と比べるとその消費カロリーもたかだか知れているとは思います。でも歩く場所に依っては距離が稼げるんですよね。

 自分が大好きな海。これこそが憧れであり、癒やしと快感を覚える真骨頂。港町神戸とはいえ、ただ見ると訊くだけでは大した雰囲気は感じられません。ネットでググった画像なども勿論。

 1万歩を目指して歩く事、約20分。須磨海岸の真ん中ぐらいの位置にある赤灯台。当初はここを目標にするつもりでした。ところが携帯(自分は未だにガラホ)で歩数を確かめると3000歩でした。流石にこれでは物足りないと思い、そのまま西へとひた歩きます。すると眼前に姿を現した須磨駅。その近くに公衆トイレがあったので、そこで用を足し、歩数を見ると5000歩足らず。ここでUターンして引き返せば1万歩にはなるのですが、まだその先があるんですねぇ~。

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須磨駅前の海岸


 ここで一旦休憩をして西方面に目を向けていました。この写真にある左側が水産会社になっていて、中へ入って行くと漁師さんが網を弄っていました。これ以上海岸線を西に進む事は出来ないのかと尋ねてみると、行けない事はないが、岩場があるので難しいかも、という返事をしてくれました。

 致し方なく諦め、引き返して行こうとすると、如何にも買い物帰りといった綺麗なおばさんが歩いていたので、同じ事を訊いてみました。やっぱり漁師と同じ答えが返って来ました。

 でもそのおばさんは、そのまま海岸線を、写真にある右側沿いに進んで行くのでした。考え過ぎかもしれませんが、この先に抜け道があるのでは? 地元民しか知らない隠し通路があるのではないか? という不純な猜疑心が自然裡に自分の心を覆ってしまいました。

 でもやはり疑うのは悪い。と思い結局は引き換えしました。

 これがウォーキング初日の出来事です。

 

 次いで二回目。同じ道程で歩き須磨駅まで辿り着きました。往復すれば1万歩。歩き過ぎても逆効果という意見を等閑にする訳ではないのですが、たとえ後もう少しでも、と思い、西への道を探しだそうと躍起になっていました。

 右側にある海にして山道のような雑草が生い茂る砂道を歩いて行くと、その果てには素晴らしい絶景が待ち受けていました。

 

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須磨一の谷付近の海岸線

 

 この景色を見た自分は感動しました。少々大袈裟な言い方ですが正直な気持ちです。ここから先はビーチにありがちな人工的なアスファルトやコンクリートで塗り固められた道が無いのです。見渡す限りの砂浜。そこにある風景というものは、正に自然の理(ことわり)を表しており、神経質な自分の性格をそのまま掻っ攫ってくれました。

 漁師やおばさんが教えてくれた岩場というのは更にこの先にありました。何れはそこへも行ってみたいと考えています。

 

 運動不足解消を思ってし始めたウォーキングですが、自分のように色んな事を考えながら歩いている人など居るのでしょうか。他者の事を干渉、詮索するつもりは一切ないまでも、何故か人様が歩いたり走ったりしている様を見ると、実に爽快に感じます。

 嘗て僧が言っていました。

「道(人生)に迷った時は歩くようにしています」

 と。

 如何に坊さんとはいえ、この言には感動を覚えた自分です。

 この年を晒して、未だ人生に放浪しながらも、探求心も一応は持していると。我儘な話かもしれませんね^^

 温かい春を待ちわびる為だけの、不遜とも思える心情に、鶯の可愛い鳴き声は聴こえて来ません。

 歌を忘れたカナリアとは言いますが、鳴く事を忘れた鶯など居るのでしょうか。それは今の自分の心を表しているような気がします。

 

 という事で(どういう事やねん!?)、以上、彷徨いながらも冒険を試みる者の、前向きなウォーキング日記でした(笑)

 皆様、良い週末を 😉

 







 

阪神大震災27年 「神戸の壁」 ~テレビ初出演

 

 

          麗らかな  自然美さえも  無常かな  

 

 

 1.17。地元神戸民としては実に感慨深いものがあり、毎年この日が訪れるとどうしても胸が痛くなります。

 震災について語り出せば何時間あっても足りないぐらい色んな思い出がありますが、今となっては遠い昔の話で、懐かしくさえ感じます。

 一言にノスタルジックと言っても、そこには当然失われたものへ対する万感の思いがあり、憂愁に包まれる心の中に光を当てる事は容易ではないでしょう。

 震災自体は勿論、今日はその辺の人の心情といったものを中心に語って行きたいと思います。

 

地震に依る衝撃

 当時自分は18歳で、高校三年生でした。年が明けてもはや卒業を待つばかりのその時期は学校も殆ど休みだったのですが、1995年(平成7年)の1月17日は三連休明けで、登校する予定があったと記憶しています。

 それがこの日の早朝5時46分。地震は起こりました。新聞配達のアルバイトをしていた自分は5時過ぎには配達を終え自宅に帰り、それから約1時間の仮眠をとってから登校していました。

 ただ横たわっているだけの浅い眠りの中に、はっきりと感じた地震の揺れ。その揺れはそれまでに経験した単なる地震ではなく、凄まじいまでの強大な烈しい揺れで、怪しく禍々しい気配が伝わって来るのを感じました。

 はじめの揺れは単なる何時もの地震といった感じで、

「あ、揺れてるな」

 と何気ない漠然とした感覚しかありませんでした。

 しかしその横揺れは数十秒と実に長く続き、違和感を覚えた瞬間、

「ガーン!」

 という感じの強烈な縦揺れが襲って来ました。

 そんな揺れを感じたのは生まれて初めての事で、一瞬身体が宙に浮いたような感覚に見舞われた自分には戦慄が走りました。

 これは只事ではない、本格的な地震だ。小さな部屋に置いてあった家具類が寝ている自分の身体に覆い被さり、自力では起こせない状況に陥りました。幸い真冬という事もあって分厚い掛け布団を被っていたので怪我などはありませんでした。

 弟に助けて貰い何とか身を起こし外に出てみると、そこには昨日までとは違う、大袈裟に言えばまるで異世界、世紀末のような悲惨な光景が広がっていました。

 自宅の損壊状況はそれほどでも無かったのですが、周りには全壊した人家も多数あり、地震の強さをまざまざと感じました。

 いくら大地震とはいえこんな簡単に建物が潰れて良いものかと思いましたね。いくら自然が好きな自分でも、この時ばかりは自然の力を恨みました。 

 近くの商店街では大火災も起こり、紅蓮の焔に包まれ、みしみしと嫌な音を立てて崩れ去る家屋。或る人は泣き喚き、或る人は目を潤ませながらも必死に涙を堪え、歯を喰いしばって拳を強く握り締め、そして亦或る人はただ呆然自失とした表情で立ち尽くしている。

 天はここまでの試練を与えたのでしょうか。悲嘆に暮れる人達の姿はとてもじゃありませんが、直視する事が出来ませんでした。

 喜怒哀楽。この四つの感情の中の怒と哀は未だ消える事なく、その人の心に燃え続けていると思います。

 

復興

 良く言われる復旧と復興の違い。これをどう捉えるかは人それぞれの価値観に依る所が大きいとは思います。ですが、物事に順番というものがあるのなら、まずは復旧をしなければならないのではないでしょうか。

 震災後の普及状況には目覚ましいものがありました。当初は何処から手を付けて行くのかと不思議なくらいに感じていましたが、倒壊した建物は次々に解体され、空き地が荒野のように広がる地元の街は、もはや街ではなく、ただの土地、ただの地面、ただの学校のグランドみたいな風にも見え、そこには果てしない虚無感だけしかありませんでした。

 それを一日も早く復旧したいという想いは自然的ではあります。でも街をそこまで早く立て直す事自体に無理があり、不自然性があるような感じもします。

 

 震災後僅か数年間で街は見違えるほどに復興しました。知人にも、

「あの辺えらい綺麗になったなぁ~、え、凄いでな」

 などと言われた事が何度かあります。確かにその通りです。震災当初にここまで復興するとは誰が予想していえたでしょう。道路は綺麗に舗装され直し、高層建物が表す街の近代化は、以前の光景を忘れしまうほどに見事なものでした。

 神戸の長田という街は恐らくは全国でも有数の下町で、その情緒、義理人情、景観には他所には無い素晴らしい文化が内在されていると思います。

 それを復旧という名の復興が全てを無に還してしまったのです。綺麗な街には成りました。便利にも成りました。しかし、以前のような賑わいは無いに等しく、もはや下町の景観などは消え去ってしまったと言っても過言ではないでしょう。

 その事で運動をしていた地元の有志達もいましたが、今ではその力も弱くなり、結局は時代に流されるしかないといった現状です。

 最近になって伯父に言われた事があります。

「今の時代に下町の義理人情なんか言うとったら笑われるだけやで」

 と。そんな時代になった事は自分でも理解しています。でもそこまで露骨に口にする必要があるのでしょうか。余りにも無慈悲なのではないでしょうか。そこまで自分が保守的で、狷介で、古い型の人間なのでしょうか。

 愚痴を言っても始まりませんが、自分はたとえ万人に否定されようとも、こういった考え方だけは変えるつもりはありません。それが災いして失った友人も居ます。でもカッコをつける訳でもなく、後悔はしていません。

 はっきり言って今の世の中に足りないものは都会でもなければ田舎でもない、下町の存在だと確信しています。こればかりはそういう地域に生まれ育った者にしか分からない事かもしれませんが、下町文化というものの素晴らしさはなにものにも代えがたい、正に自然と同じ、人類の花鳥風月でもあるのです。

 この地域には震災の有無に関わらず、以前から再開発の計画があったと訊いています。何故お上は近代化ばかりを優先させるのでしょうか。何故古き良き文化を滅ぼそうとするのでしょうか。莫迦正直な自分はその疑いを葬り去る事が出来ません。

 でもテレビなどでは頻りに、

「震災を風化させてはいけない」

 とか相反性のある、尤もらしい事を言い続けています。これこそが社会の不条理で、言うなれば世の常なのでしょうか。

 そう簡単には割り切れない自分がいます。

 

テレビ初出演 

 

www.nhk.or.jp

 

 この番組にある「神戸の壁」これは自分も知りませんでした。情けない話です (;^_^

 ただこのギャラリーには結構足を運ぶ事があって、一週間ほど前にそこを訪れた時、たまたま撮影をしていたという事です。

 

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 ポケットに手を入れるな! という話ですよね(笑) 

 このニュース動画の5分17秒から23秒辺りでしょうかね。自分のような名もない凡人が数秒間も映る事が出来たのは嬉しく有難い限りです^^

 このギャラリーの直ぐ近くにパチンコ店があるのですが、馬鹿々々しくてとっくに足を洗った自分はそこに用事があったのではなく、他の用事を済ませた後、たまたまそこを訪れた時に、カメラに収まっていたようです。

 何か撮影をしているなとは思っていましたが、邪魔にならないよう端の方で写真を眺めていました。後にして思えばそのスタッフ達と二三話をすれば良かったなとも思いますね。

 様々なメディアがある今の時代にちょっとテレビに映ったぐらいでは何の自慢にもならないでしょうが、初めての経験だったので、これを知人に知らされた時はつい愕き、喜んでしまいました。

 この神戸の壁というのは本当に素晴らしいと思います。こういうものは未来永劫語り継いで行って欲しいですね。それこそが震災を風化させない志だと思います。

 

 世は人に連れ、人は世に連れ。去る者は日々に疎し。何れは忘れ去られてしまうであろう事を何時までも覚えておく事は確かに難しいかもしれません。

 でも忘れて良い事、寧ろ忘れるべき事と、忘れてはならない事は絶体にあると思います。人間にはそれを感覚的意識の中に蔵(しま)い込んでおく、優れた能力が備わっている筈です。それさえ放棄してしまえば人間という生命の存在価値自体がなくなってしまうような気もします。

 美しい樹々や草花でさえもその姿を変化させ、何れは枯れ果てて行きます。でも季節が来ればまた見事に咲き誇り、晴れやかな情景を齎してくれます。

 自分も自然のように前向きに、心身共に美しくありたいと願うばかりであります 😉

 そして被災された方、亡くなられた方々には改めて追悼を捧げたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通りゃんせ(宇江佐真理)を読み終えて

 

 

           足早に  通り過ぎゆく  正月よ(笑)

 

 

 新年の御慶目出度く申し納め候。旧年中は格別の御厚情を賜わり忝く存じ奉り候。

 本年も宜しくお願い致したく御座候。

 

 遅ればせながら新年のご挨拶とさせて頂きます。

 

 いやいや、それにしても例年同様、正月というものは呆気なく去って行きますね。早過ぎますわ。正に疾きこと風の如しです。

 今にして思えば年末が懐かしいぐらいなのですが、そんな悲観的な事ばかり言っていてはいけません。いい加減前向きになりましょう (;^_^

 また久しぶりの投稿になるのですが、ご無沙汰しておりました。皆様方におかれましては益々御健勝の事とお慶び申し上げます。

 という事で(どういう事やねんと)、今日は読書感想ですね。今回は我が尊敬してやまない三島由紀夫大先生以外の小説です。三島作品以外の小説を読んだのも久しぶりでしたが、結構面白かったです。

 

あらすじ 

 25歳のサラリーマン・大森連は小仏峠の滝で気を失い、天明6年の武蔵国青畑村にタイムスリップ。驚きつつも懸命に生き抜こうとする連と村人たちを飢饉が襲い……時代を超えた感動の歴史長編!

 要するに現代日本人の若者が何の因果か、図らずも江戸時代へとワープし、その時代で活躍する物語ですね。

 初めは元の現実世界に戻りたい一心で、その糸口を見出そうと必死になっていたのですが、時は過ぎるばかりで、だらだらと暮しているうちに何時しかその生活に慣れ、次々に襲い掛かる天災や事件に巻き込まれ悪戦苦闘しながらも、諦めずに何とか頑張って生き抜いて行くといった感じですかね。

 

見どころ 

 主人公の連(連吉)の為人を一言で言い表すなら硬骨漢だと思います。滝で行き倒れになった所で江戸時代へとタイムスリップし、目を開ければ時次郎、さなの兄妹が住まう人家に横たわっていました。

 この兄妹に助けられた恩から、元の世界に戻ると共に、律儀にも恩返しをしようと試みます。まずはここですね。この心掛けは本当に立派だと思います。あくまでも物語な訳ですから一見当たり前のように感じなくもないのですが、こう考える事自体が素晴らしく、人間らしい行いで、今の時代には珍しいとも思ってしまいます。

 一宿一飯の恩義とは言いますが、それどころか一年以上も江戸時代に居続けます。勿論元の世界に帰る術が見つからなかった事もありますが、川の氾濫に農作物の不作、飢饉、それらが起因する村人同士の諍い、更には凄惨な事件という人災までもが次々に巻き起こり、戻るに戻れないという事態に陥って行きます。

 それでも連は自己憐憫などせず、村の為にと前向きに必死に頑張り、それなりの成果を出します。

 この彼の所業ですよね。決して開き直る事なく、亦悲観する事もなく、とにかく村の為を思い躍進するのです。無論自分の為でもありますが、先に来るのは村の方です。この物事を客観的、総体的に捉える彼の思考は本当に素晴らしいと思います。歴史小説とはいえ、現代社会と比べた場合、その思考の余りの違いが手に取るよう分かります。
 元々歴史が好きな自分は感動しました。

 助けてくれた時次郎、さな兄妹もたいへん優しい、融通の利く人でした。初めは連の事を疑ってもいましたが、その働きぶり、誠実な為人に心打たれ、連と三人兄弟のように仲良く暮らす事になります。

 そして何時しか連とさなは恋心を抱くようになって来るのですが、時代が邪魔をします。二人は共に相思相愛だった筈です。でもそれ成し遂げられない事も事実で、連もさなもやり切れない想いであったでしょう。

 時次郎に頼まれ、連はこの村の知行主であるお屋形様に逼迫した状況を訴え、助力を仰ぐべく青畑村から江戸へと旅立ちます。

 江戸でも色んな事が起こりますが、連は無事役目を果たし村へと帰還します。彼は元々聡明な男だったのでしょうね。現代社会の知恵を使えば怪しまれますので敢えてそれはせず、でも自分が知り得た歴史や文化をヒントにしながら突破口を見出し、見事に困難を潜り抜け、更にはお屋形様からの信頼も得ています。

 つまりはこの主人公そのものの活躍、それが見どころなのです。物語に於いては当たり前とも思える事ながらも実はその限りでもなく、連は諦めないという在り来たりな思考を精妙に、自然的に教えてくれているような気がします。

 

最後に

 この物語はジャンル的にはファンタジーになるのでしょうか。とはいっても今主流になりつつあるライトノベルのような軟派な異世界ファンタジーのようなものでは決してなく、あくまでも純文学に類する作品だと思います。

 ただ三島作品や他の純文学と比べると明らかに読み易いです。枚数は結構多いのですが、すらすら読めましたね。

 話は変わりますが、タイムスリップに影響すると言われているワームホール。これさえあれば本当に時空を行き来する事が出来るのでしょうか。もし出来るのなら毎年三回ぐらいは年末年始を繰り返したいと願う自分が居ます(笑)

 もっと昔に戻って人生をやり直したいとも思いますが、たとえ戻った所で、その人生に大した変化は無いのでしょうねぇ~。そんな気もします。

 歴史小説とはいえ、ファンタジーのような物語を純文学風に書ける著者の力量も凄いと思います。作家を目指す自分としてはまだまだ学ぶ点が多そうです。

 

 という事で以上、「通りゃんせ」のレビューでした。

 まだまだ寒い日が続きますが、ご自愛くださいますようお祈り申し上げます^^