人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十二話

 

 

      三章

 

 

 風が吹き付ける。そして当たり前のように流れ去って行く。川水も、海の潮汐も、人も動物も時も、森羅万象全てが一時たりとも留まる事なく常に変化しながら生滅を繰り返し世の無常を物語っている。

 不変性を夢見る者の心情に己惚れがあろうとも、そうありたいと願う心意気に偽りはなく、天為に準じ幾多の試練に立ち向かいながら己が信条を貫こうとする健気な姿にも美を感じなくはない。

  歳月人を待たず。二十代に別れを告げもはや35になる年を迎えた英和は、その月日の流れる速さに戸惑い、亦儚むようにして良く言えば仙人、悪く言えば世捨て人のような情調で万感の思いを胸に秘めながら日々を過ごしていたのだった。

 こんな風に物事を客観的に捉え始めたのも30を超えたぐらいからだろうか。それとも幼い頃からか。何れにしても彼に主体性が欠けていた事は事実で、何時も眼前の光景、そして自分の存在でさえも遠くから眺めているような節はあった。

 でもそれは物事を静観、傍観する無気ながらも狡猾な態度を示すものでもなく、あくまでも己が意思に依って生きて行きたいという本心に由来するもので、自分の意を介さないような事象にはたとえ仕事であっても気が乗らないといった些か我儘で主観的な考えであったのかもしれない。

 この事柄は如何にも相反し矛盾を来しているように見えるが、感覚的意識というものが本来人間に備わったものだと考えると何とか解釈の余地があるようにも思える。

 清らかな川の流れを止める事は出来ないし止める必要もない。海も風も人も時同じく。美しい流れにこそ美しい心、美しい物語がある事は言うに及ばず、それを見る者の感性にも美が要求されるだろう。

 無論それは醜い事から目を逸らすだけで手に入るような簡単な性能でもなく、否応なしにそちら側に目を向けざるを得ない時もある。そんな時にまで逃げるような所業は正に短絡的でしかも狡猾な、軽率極まりない愚行で、謂わば反対意見には一切耳を貸さない独裁者の如く稚拙で狭量な姿を体現しているようにも思える。

 とはいえ自分と対極に位置するような者を寛容な目で見る事は誰にでも出来る簡単なものでもなく、それこそ神仏や仙人にでもならない限りは至難の業だろう。か

 英和の優柔不断な性格はこういう所に起因していたのかもしれない。それが災いして別れる事になってしまったかまでは分からないまでも、直子に告げられた最期の言葉には優しくも厳しい哀切な響きがあった。

「あんたの考えとう事分からん訳でもないけど、今の私には無理があるかも、でもあんたの事は今でも好きやで、だからあんまり深く考えんともうちょっと肩の力抜いて生きて行って欲しいねん、私も独りになって生きて行くつもりやから.......。」

 こんな風に思われているであろう事は英和にも理解出来ていた。それなのに何時まで経っても逡巡と戯れ率直な行動が取れない自分自身に嫌気が差していたのも事実で、それを優しく見守っていてくれたのが直子だった。

 俺は何をそこまで悩み続けるのか、何が不満なのだ、どうしたいんだ。そんな自問自答が何年も繰り返される。その問いに答えはあるのか、出口はあるのか。それさえ分からない。分かっていればもっと早くに自分の道を発見出来ていただろう。

 迷いながら生きて行くしかない人間社会といえども、それを好んでいるように思える彼の人生にあるものとは一体何なのか。ただでさえ女性に対し奥手でもてない彼のような小心者に、直子のような美しい女性と別れる事は実に勿体なく思える。

 でも別れた今でもそこまでの悔恨はなく、頭が真っ白に、無機質な状態にさせてくれた直子には感謝している英和でもあった。

 彼は親方が亡くなってからも康明と共に仕事に精を出していたのだが、如何せんこの両者は営業力に乏しく、ついには会社が立ち行かなくなってしまい、英和は現場で知り合った大工の棟梁に雇ってもらい大工職人として、康明は定職には就かずにアルバイトなどをして生計を立てていたのだった。

 元々手先が器用であった英和には少々の大工の経験もあり、直ぐに仕事を覚え、他の職人達とも対等に渡り合うほどに習熟を深めていた。

 性格が不器用でありながら手先だけは器用というのも何とも滑稽で皮肉に感じる所だが、それで生きて行けるのなら僻むにも値しないだろう。

 しかし問題は人間関係で、いくら技術があっても所詮は中途採用で、中には遊び半分で弄って来る先輩もいたのだった。

「お前、ほんまは塗装屋の方が良かったんちゃうんかい? 毎日シンナー吸えるしな」

 英和は必死に堪えていた。そんな光景を眺めていた親方も英和の様子をしっかりと窺っていたのだった。

 いくら英和が惰弱な男であってもこんな先輩の一人ぐらい打ちのめす自信は十分あった。でもそうしなかったのは親方や先輩に対する非礼を考慮するだけではなく、あ亦年甲斐もなく暴れる事を恥じたり、その先輩を蔑む訳でもなく、ただひたすらに親孝行がしたいと念じる正直な心根から来るものだった。

 とはいえ先輩に対する恨みが完全に消えた訳でもなく、何とか今日一日をやり過ごした彼は依然としてやり切れない想いのまま帰途に就くのであった。

 

 家で夕食を済ませた頃、久しく会っていなかった義久から連絡が入る。また金の無心かと警戒する英和にもこの連絡には何故か気が逸り、無視する事は出来なかった。それは義久に対する哀れみなどではなく、旧知の仲が表す腐れ縁という事に他ならなかったのかもしれない。

 英和が一日の中で一番好きな時間帯であった夕暮れ時に、少し項垂れた様子で義久は現れる。相変わらずの何も考えていないようなその顔つきにも、悩み事をしているような感はあり、それを訝る英和はそれとなくこう切り出した。

「おう、久しぶりやんけ、何や、元気なさそうやけど何かあったんか?」

 義久は安心させる為か作り笑いをしながら答えるのだった。

「実はな.....」

  英和は途中で遮る。

「ちょっと待てや、また金の話か? それやったら無いからな」

 義久は溜め息をつきながらも慌てる事なく言葉を続けた。

「ちゃうねん、訊いてくれって、実は俺会社馘になってん」

「何でや?」

 その理由はらしいと言えば如何にも義久らしい実に浅はかで稚拙で滑稽な話で、同情にも値しない彼の勤務態度には笑わずにはいられないコント染みた物語があった。

 義久が言うそのコント劇とはこうだった。

 彼は生粋のパチンコ好きで入社当初から遅刻早退欠勤を繰り返し、前借りばかりをしていた為一ヶ月分の給料をまるまる貰った事は少ないぐらいだったという。そうなれば当然ボーナスなども無いに等しく、社内での人事評定も著しく低かったに相違ない。

 同期の者達がみるみる出世して行く姿を見て気が萎えたのか或いは初めからそのつもりだったのか、仕事も全く手につかず、あろう事か最近では出勤したあと、中抜けをしてまでパチンコに興じていたというのだ。

 外回りの営業職でもあるまいしそんな事をしてバレない訳はなく、最初は注意されるだけで済まされたものの、二度三度と繰り返すうちについには執行部に呼び出され退職勧告をされたとの事だった。

 それを訊いた英和は言う。

「お前、ダボやろ? そんな事ばっかりしとったら馘になるに決まっとうやろ、バカボンのパパやありまいし、何や、最初から辞めるつもりやったんかい? え?」

 義久は少し怪訝そうな表情を泛べたが、抗う素振りは見せずに淡々と語り続ける。

「でもな英、お前も何回かは経験あるやろ? 途中で仕事場から抜け出す時の昂揚感はたまらんでな、そこまで悪い事か? 犯罪でもないやろ?」

 ただ呆れる英和だった。でも経験がないまでもその気持ちは分からないでもなかった。その理由は国民の義務になっているとはいえ、勤労こそを美徳とするような日本の情勢に何処か疑いを感じるもので、真面目に働く者に対する礼賛とは裏腹に覚える客観的見地からの憂い心であった。

 とはいえ義久のよな短絡的な衝動を肯定するつもりなどは一切なかった。そしてそんな時にだけ姿を現す彼の温(ぬる)い性格にも憤りを感じる。でも今の英和は義久を咎める気にはなれなかった。

 彼といると何故か心が安らいで来る。自分でも不思議な事なのだが、強いて言うとすればこれだけの情けない話をいくら旧知の仲とはいえ何の躊躇いもなく、包み隠さずに打ち明けてしまうその余りの素直さに感服するといった所だろうか。

 それは上下二元論で論じるのも憚られはするが、自分よりも下に位置するであろう者と一緒にいる時に感じる生産性のない単なる気楽さのようなもので、何一つ飾る事なくありのままの剥き出しの心で話が出来るという空間の中には他者を思いやるという常識やモラル以前に、人間が持って生まれた正直な感覚的意思が無意識の裡に発揮されるのである。

 そこにある言葉は言葉ではなく情愛や情義、情念であり、表情や所作などは取るに足りない演出に過ぎない。だからこそ英和も義久を快く迎え、義久も深く考える事なく会いに来たのだろう。

 それにしてもこの両者の恋愛と仕事に纏わる失敗談はどちらが勿体ない話だろうか。何れも憂い憐れむに足るものとも思えるが、それを先に告げた義久の方に曲がりながらにも一分の理があるようにも思える。そういう意味合いでは義久にも或る種の度量の深さを感じなくもない。

 やがて日は暮れ、海は満ちて行く。遙かに聳える水平線を眺めながら二人は軽く笑って立ち去って行くのだった。

 

 

 

 

 

 

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今週のお題  ~私が三島由紀夫にハる10の理由

はてなブログ10周年特別お題「私が◯◯にハマる10の理由

 

 

 

           風吹けば  靡く心の  潔さ(憫笑)

 

 

 晩秋の候、皆様方におかれましては益々御健勝のこととお慶び申し上げます。

 今日は久しぶりにお題に挑戦してみたいと思います。アホの一つ覚えで小説ばかり書いていても肩がこりますしね。ま、楽に書く事が出来ていない時点で自分もまだまだ未熟だという話なんですよね。肩の力を抜いて行きましょう 😒

 とはいえまた少々硬い話になる可能性は否定出来きないので悪しからず。

 テーマは自分が尊敬してやまない三島由紀夫大先生についてですね。ハマる理由と言われてもはっきり言って理屈抜きな感性に依るものだと思う訳なのですが、せっかくなので10個の理由をひねり出して行きたいと思います。

 という事で(どういう事やねん!?)はりきって行きましょう^0^

 

理由その一 ~語彙力、文章力

 これはかなり大きな理由ですね。大先生の語彙力、文章力はとにかく凄いです。いくら頭が良いとはいえいくら東大法学部出身とはいえ何故そんな言葉、そんな文章が書けるのっていう感じですね。正に文豪、天賦の才の表れだと思います。

 その最たるは地の文ですよね。侮る訳ではありませんが、はっきり言って会話文なんて誰でも書けるんですよね。情景描写にしても心理描写にしても計算高く緻密に考察された文章が如何にも自然的でかつ美しく描かれています。まずここに並外れた才能を感じるのですが、己惚れた言い方をすると嫉妬してしまうぐらいです(笑)

 例を挙げると仮面の告白に「私の自省力は、あの細長い紙片を一トひねりして両端を貼り合わせて出来る輪のような端倪(たんげい)すべからざる構造をもっていた」という一節があるのですが、如何にも純文学風な文章であるとはいえそうそう書けるものでもないと思います。

 ま、自分なんかには一生掛かっても無理でしょうね 😒 勿論これだけではありません。他にもいくらでもある訳なのですが、その一つ一つがとても人間業とは思えないような凄さで、謂わば全てが詩なんですよね。

 一見硬そうに見える文体でも、美しい詩の連続で出来上がった文章という感じに見えます。だから読んでいても肩がこらないどころか目を見張るものがあり、刮目に値する、崇高な美を感じるんですよね。

 とにかく凄いの一言です。

 

理由その二 ~感受性

 ものを作る人にとってこれは必要不可欠ですよね。これが礎となって一つのものが出来上がって来る事は言うまでもありません。逆に言えばこれがなければどれだけ文章力があっても心に響くものはないと思います。

 語彙力、文章力などは頑張れば上達するかもしれませんが、感受性はどうやって鍛錬すれば良いのでしょうか。それこそ持って生まれた感性に依る所が大きいとも思いますが、如何にしてその心を砕き、自然に同化する、亦他者を思いやるかがポイントになって来るような気がします。

 これこそが感覚的意思、感覚的意識なのだと思いますね。人間に備わった感覚、つまりは五感、そして仏教唯識論で言う所の六識、七識、更には八識にまで到達出来るかという神仏の優しくも厳しい試練という意味合いに感じられなくもない所です。

 

理由その三 ~前向きさ 

 これも重要ですよね。これがなければ話にもなりません。自分のような悲観的な者としてはこういう精神力は何処から来るのかと不思議で仕方ありません。これも持って生まれた性なのでしょうか。そう簡単に割り切ってはいけませんよね。

 自分が一番好きな三島作品の「憂国」この憂うという言葉と悲観するという言葉は似て非なるもので、三島大先生は今の日本を憂いてはいても決して悲観はしていなかったと思うのです。だからこそ精力的に執筆活動を続け、次々に名作を生みだしたのだと思います。

 でもこれもなかなか出来るものでもないですよね。強靭な精神力など持ち合わせている人は少ないと思いますし、自信があり過ぎ、充たされ過ぎていても逆に足を引っ張る事にもなりかねません。その微妙なバランス感覚の中で育まれるものにこそ真の力があるのだと思います。

 

理由その四 ~恥を曝け出す

 仮面の告白にあるように同性愛に目覚めていた自分を曝け出す勇気ですね。もしかしたら羞恥心にも及ばないごく浅い部分での自分の悪習を物語っただけなのかもしれませんが、ほぼ自叙伝であると言われている作品だけに満更でもなかったのでしょう。

 これも同じでいくらヒットする可能性があったとしても自分ならこんな事書けないと思います。だから今まで書いて来たものにもここまで露骨に表現した試しはありません。自伝的なものも書きましたけど、嘘はないまでも脚色しまくっていますね(笑)

それもカッコつけてです 😅 逆に大先生の場合はその素晴らしい才能に依って恥が恥ではなくなってしまっているんですよね。これも凄い話です。

 

理由その五 ~媚びないところ

 こんな事は今更言うまでもない事なのですが、時代に、世の中に、人に媚びていないですよね。正に唯我独尊、我が道を行くという感じですよね。

 これも凡人には出来ない事と思いますが、いくら時代背景が今とは全然違うとはいえ、当時でも三島さんみたいな狷介な人物は或る意味では反感を買う事も多かったのではとも思います。それでも毅然とした態度で生き抜いて行くその様は見ていて惚れ惚れしますね(実際に見た訳ではありませんけど) 自分も見習いたいものです。

 

理由その六 ~ユーモアもある

 これだけの偉人であっても決して堅物ではなかったとも思います。例の東全共闘との討論でも「現代ゴリラ」などと揶揄されても一言反論はしていましたが、その後「自分は現代ゴリラに成りたい」とかいう冗談で逆に学生達を笑わせているんですよね。このセンスも大したものだと思います。

 だから実際には柔らかい性格の人であったような気もしますね。

 

理由その七 ~怯まない

 これも全共闘での話なのですが、あれだけの学生を相手に全く怯んでいないですよね。討論に挑むに当たって一切の恐怖も感じなかったのでしょうか。念の為に短刀を用意していたらしいのですが、もしそういう事態に陥ったなら本当に使うつもりだったのでしょうか。それはそれで面白そうなのですが。

 あの討論は本当に面白かったですね。

 

youtube.com

 

理由その九 ~優れた話術

 これも全共闘での話なのですが、学生に負けていないどころか完全に打ち負かしていますよね。亦学生達は相手にすらなっていません。

 それは三島さんの話術をも超える常人離れした知性、知識に誰もついていけないといったもので、それを知らなかった学生達は逆に不憫に思えてしまうぐらいです。

 でも決して己が才能をひけらかす訳でもなく、あくまでもフランクな感じで接するその態度にも度量の大きさを感じます。

 そしてこの討論は決して相手を論破する事を目的としたものでもないんですよね。あくまでも歩み寄りであって、腹の探り合いではない心の共鳴を図ったものだと思います。

 それに引き換え今の是が非でも相手を論破したいみたいな風潮には品性の無さ、浅ましさが感じられ、論破などしてもいないのに勝ち誇っているような目出度い態度を示している姿を見ていると滑稽にも思えて来ます。

 やはり自分は悲観的な性格ですね 😢

 

理由その十 ~潔さ

 これについてははっきり言って触れたくはなかったのですが、三島大先生を語る上では触れずに通る訳にも行きません。

 最期の自決の話です。

 憲法改正には自分も賛成ですが、今の状況でやって欲しくはありません。それは今の日本という国家に本当にアメリカから独立してその自尊心を取り戻したいという志が感じられないからです。

 寧ろ今以上にアメリカに追従して行くが為に改正しようとしているのではと思ってしまうぐらいです。何の為に憲法改正するのかはっきりと示してくれない限りは賛同しかねますね。

 という意味では三島さんは正に日本を真に愛していたからこそ憲法改正を訴えていたのだと思います。だから訴えるだけで別に死ぬ必要などは無かったと思う所なのですが、その真意は分からずとも潔く自刃してしまった事については自分は素直にカッコいいと思ってしまいます。

 それこそ時代錯誤な侍の精神から来るものかもしれませんが、一言に潔いといても、ただ世の流れに潔く靡くのではなく、潔く自分の本懐を遂げる。こんなカッコいい話はないとも思いますね。

 何故なら自分を欺いてはいないからです。決して自己欺瞞にはなっていないのです。普通に考えれば命を無駄にしたと言える事なのですが、単に自殺といっても今の世の中に自刃など出来る人がいるでしょうか。無論それをしたからといって褒められるものでもない訳ですが、少なくとも他の自殺方法よりはカッコいいと思います。

 この時点で稚拙な感情と笑われるかもしれません。でも本当にそう思います。余程の覚悟がなければ出来るものではありません。

 時世に靡くのではなく、己が本音に靡く。自分のような凡人が言った所で何の信憑性もないのですけど、男として惚れ込んでしまいますね。

 

 という事で何とか10個ひねり出せました。褒めてばかりで落とし所は見つかりませんでしたね(笑) でも勿論ベンチャラなどではありません。

 また土曜日恒例の銭湯にでも行ってサウナせ汗をかいて来ます。

 では皆様ごきげんよう 😉

 

 

 

 

 

 

 

 

汐の情景  二十一話

 

 

 英和としてはひとり酒に浸りたい気分だった。家ではなく店で。それは駅やパチンコ店などで感じる群衆の中の孤独感みたいなものだろうか。それを良質なもので提供してくれる場所も今では少なく感じる。  

 だがそれは裏を返せば自分の世界を見出し、確立する事が出来ない己が非才を反証するようなもので、予期しなかった直子の到来はそんな悲観的思考を緩和してくれる。

 彼女はシャンパンカクテルなる洒落た飲み物を注文していた。その黄金色に輝く液体は正にシャンパンゴールドといった高貴な煌きを放ち、浮かび上がる無数の泡沫には化学的にも自然な浪漫が感じられる。

 英和はこの炭酸の音を聴くのが好きだった。グラスに耳を当てるとハイボールと同じくカラカラカラという小さな可愛らしい音が聴こえて来る。この微粒子が溶けて行くような繊細な音が何故か心を癒やしてくれる。

 そんな英和を笑いながら見ていた直子は言う。

「あんたってほんまに変わっとうな、それやったらあんたも一緒の頼んだらええのに」

 でも英和は決して頼まなかったし、たとえ一口でも飲もうともしなかった。それはカクテルなどは女が飲むものだという筋の通らない、それこそ時代錯誤な偏見とも言える拘りを持っていたからだった。その事は直子も理解していた。だからこそ笑っていたのだろう。

 耳を離した英和は自分の水割りを少し多めに飲む。そして隣に坐っている直子をほったらかしにしてまた自分の世界に埋没しようと試みる。直子も何も言わずに洒落た雰囲気に独り酔いしれていた。

 英和の物思いに耽る習慣は今に始まった事でもなかったが、この場に於いてもまだ熟考しないといけない重大事項でもあるのだろうか。差し当たっての問題はない。でも考えないと気が済まない。自ずと出来上がっしまった精神構造は今更変えられる訳もなく、それを先天的疾患と捉えてしまう自分にも嫌気が差していたのだった。

 その具体的な内容はやはり己が人生と人間社会、社会構造を鑑みるような、下世話にも慢心のある考察で、生まれたばかりの赤子の頃はいざ知らず、物心がつき始めた小学生中学年ぐらいから今日までの経験談を覚えている限り振り返るといった実に面倒くさい作業であった。

 その中にあった様々な喜怒哀楽、それらは当然ながら全てが連結されていて何か一つだけを取って勘案する事は無意味にも思える。そうなるとあの時こうしとけば良かったなどという短絡的な悔恨などは生じる筈もなく、何故こうなってしまったんだ、もっと言えば何故自分は生まれて来たんだ、何故生きているのか、何故この世の中があるんだという宇宙創造の秘話にも及ぶような余りにも飛躍した考察が成り立ち、そこに立ち向かわない訳にはいかないという強引な義務観念に襲われる。

 神仏でも答える事が出来ないであろうこのような難題に、彼のような凡人がいくら挑んだ所で結果は虚しいものに終わるだろう。でも一つの生命が生まれる神秘という観点から考えれば無から有が誕生するという経緯に類似し、規模は違えど元は同じで共通する問題であるような気もする。

 何れにせよ、こんな小難しい事ばかり考えている時点で煩悩に苛まれている事には違いなく、愚かにも自己憐憫に陥る英和を見ていられなかった直子は優しく語り掛けてくれる。

「考え事終わった? あんまり深く考えん方がええんちゃうの? 早死にするで」

 英和は軽く微笑みながら答える。

「そうやな、ありがとう、ところであの樹に辿り着いたん?」

「だから何の話よ、あんたの夢物語までは分からんわ」

「さよか~」

「さようです」

 英和は自分の前にあるグラスを見て思った。あれだけ考え事をしていたにも関わらず、既に飲み干しているではないか。何時の間にこんなに飲んでしまったんだと。

 これは物思いに耽っていながらも感覚的意識だけはきっちり働いていた事を裏付ける明確な証拠で、謂わば人間が寝ても覚めてもその身体に纏わりついて離れないという唯識論の第七識、末那識が作用していたのではあるまいか。

 ただあくまでも起きた状態で見た夢、そして自我に執着していた時点では六識である意識に留まるのかもしれないが、その自我に依って見られるとも言われている夢の世界に埋没していながら尚も酒を飲み続けていたという事はやはり末那識が作用していたと認識せざるを得なく、直子までもがその異世界に入り込んで来たとすれば、大袈裟な話彼女にも恋愛以外の側面から英和に近付いて来たという意図が感じられる。

 それこそが以心伝心であると言えばそれまでなのだが、未だ悩み事の一つも口にしない彼女の真意も興味深い所であった。

 自分が陥っていた世界が決して幻でも幻覚でも錯覚でもないと信ずる英和は徐にこう切り出した。

「直子、お前何で俺の世界に入って来れたん? やっぱり同じ夢見とったん、いや考えとったんか? それと悩み事なんかあるんか? 一回も訊いた事ないけど」

 彼女は微笑を絶やさないままに答える。

「ふっ、さ~ね、どんな世界におったんかは知らんけどあんたの考えとう事はだいたい理解出来るわ、それと悩み事なんかなんぼでもあるに決まっとうやん」

 英和は敢えて深く詮索しなかった。それは彼女に嫌われる事を懸念した訳でもなく、寧ろ自分が今以上に神経質になる事を怖れたからであった。

 

 春眠、暁を覚えず。確かに春の夜は寝心地が良いものだ。でもまた訳の分からない夢、それも明け方にそんな夢を見たくないと思っていた英和は柄にもなく少々早起きをして家の近所を散歩していた。

 すっかり和らいだ寒さは冬などどこ吹く風と言わんばかりに人を現金な、調子のいい気分にさせる。公園に咲く桜は春を象徴するかのように威風堂々と聳え立ち、草花の周りを可憐に舞う蝶は歓喜に充溢する心情を謳い上げるようにその羽を烈しくはためかせている。

 燦然と照り輝く陽射しは地上を暖かく包み込み、清々しくそよぐ柔らかい風は触れるものの気持ちを優しく浄化してくれる。

 自分の表情が多少なりとも緩んだと思うのはその所為だろうか。厳しい冬を乗り超えて来たものにとって春の到来ほど嬉しいものもなく、季節、自然から受け得る恩恵には謝意の示しようもない。

 目を移すと雀の可愛らしい鳴き声が聴こえ、一羽の鳥が勇ましく飛翔する姿が見られる。この鳥は何処へ向かって飛び立ったのだろうか。行き着く先に栄光を求めているのだろうか。それとも飛び回る事自体に純粋な喜びを感じているのだろうか。

 英和としては後者である事を願いたかった。それは目的を持ったと同時に訪れる不安を感じたくない相変わらずの己が小心を嫌う為である事は言うに及ばず、何か目的がなければ生きていてはいけない、生きる価値もないみたいな世の風潮を徹底して嫌う一見温(ぬる)い意見に捉えられがちながらも実はその限りでもない、一貫した思想から来るものであった。

 一つの現場が終わった事で今日は仕事が休みだった。平日に休みが取れるのも現場作業に従事している者の特権であり、所詮は日給月給の給与形態を強いられている同情にも及ばない憐れな性でもあった。

 散歩を終えて家に戻ると部屋に置いてあった電話に何度も着信履歴があった。康明からだった。英和は急に仕事が入ったのかと嫌気が差しながらも一応連絡を折り返す。しかし康明に告げられた事と、その只ならぬ気配に驚愕する英和は今話している内容こそ夢であって欲しいと願わずにはいられなかった。

「親父が死んでもたわ......」

 英和は矢も楯もならず病院に急行する。その道中で咲き誇る桜がこのうえなく鬱陶しく思える。やはり自分と桜は相性が悪いんだ。気持ちの乱れは自ずと表情に表れ、こんな顔で親方には会えないという想いと重なり合って更なる歪んだ表情を作り出す。

 早朝の病院は静まり返っていた。不謹慎な言い方だが早くも親方を弔っているような雰囲気だ。駆け付けた部屋には真っ白な顔をした親方とそのベッドを取り囲む一家の姿があった。親方の奥方は泣き続けている。康明は親御さんほどではないが涙を溢し、何も言わずに呆然と立ち尽くしていた。

 英和は何も言う気にも、何をする気にもなれなかった。約20年前の記憶が蘇って来る。あの悲惨な光景が。彼は知っていた。人の死というものが如何に哀しいか、苦しいか、辛いかを。こんな状況で掛ける言葉など無いし掛けたくもない。しかし康明母子の悲嘆に暮れる様子には想像を絶する沈痛な響きがあり、つい声を掛けてしまうのも人情でなかろうか。でも何と言って良いやら見当もつかない。

 結局英和は何も言わないままに自らも零す涙で哀悼の意を表していた。だが現時点では哀しさよりも悔しさの方が10倍勝っている。自分の親同然に付き合いをして来た彼は口には出せぬ、

「親父ぃぃぃーーー!」

 という言葉を心で叫び続けた。魂の叫びが通じたのか親方の口元が一瞬動いたように思われた。錯覚幻覚であろうともそれは英和の心を慰める。

 それにしても何と綺麗な死に顔だろうか。悔いのない生涯であった人の死に顔は安らかで澄んでいると言われているが、それを象徴するような顔だ。自分の父親もそうだったが、果たして自分はこんな顔をして死ねるものだろうか。

 人前では決して愚痴や謗言を口にしなかった親方。彼は本当に他者や世相について何も思っていなかったのか、腹を見せなかっただけなのか。そんな事を詮索する事も憚られはしたが、その辺の事も一度じっくり腹を据えて話したかったものだ。

 でも親方から無言の裡に感じ取っていた厳しくも温厚な生き様は英和の胸にもしっかりと刻まれており、俄かに芽生えた悔いすら愚かしく思えて来る。

 康明の母御から訊いた話では心臓病の方は回復の兆しを見せていたらしいが、高齢という由もあり肺炎をこじらせて亡くなったとの事だった。

 青天の霹靂とはこの事か。それも春に色づくこんな時期に。

 親方の意志を受け継がなければならない英和と康明両者の姿は見るからに惰弱で、頼りなく見える。

 窓外に映る春の陽気はそんな二人を見守るように明るく、そして優しい光を投げ掛けてくれるのであった。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  二十話

 

 

 無気力無関心な為人でありながら正月が大好きであった英和にとって、昨今の日本の正月感の稀薄さは憂うるに足る空虚な淋しさを投げ掛けているように感じられた。

 自分が幼い頃は駒回しに凧あげ、歌留多に百人一首に羽根つき、餅つき、そして年末年始恒例の大型時代劇やかくし芸等々、如何にも正月と言わんばかりの風物詩が目白押しで一年を通しても一番気が逸る時でもあった。

 それが今ではしめ縄すら余り見かけない。しめ縄を付けている車などは皆無といって良いだろう。勿論初日の出を拝む人達や初詣、雑煮、おせちなどは今でも遺ってはいるものの何処か物足りなさを感じてしまう。こんな風に昔を懐かしんでいる時点で彼も所詮は時代錯誤でネガティブ思考な人間なのだろうか。

 今年の正月もそんな淋しい舞台を演じると足早に去ってしまった。贅沢な話だが大晦日と元日だけにしか正月の真髄を見出せない英和は、例年の事ながら残る正月休みも呆然自失といった様子で大して何もしないままに時を過ごす。

 十日戎や成人式、厄神祭などにも全く関心がなかった英和は寒さに耐えながらも普段通りに仕事をし、ただ淡々と静寂の裡に日々を送っていた。

 そして何時の間にか迎えた二月。節分にもやはり興味はない。でも街路に謙虚に佇む梅にだけは何故か惹かれるものがあり、足を止め一時それを眺めやっていた。

 か細い幹と枝、そこで可憐な白紅に染まる梅の花は一見すると桜や桃と何ら変わりない美しさを称えているが、桜や桃よりもこの梅を好む彼の根柢にはどんな心理が働いているのだろうか。

 1枚が人差し指の爪ほどの花びらが繊細に重なり輪を成した5枚からなる梅の花は、その小さくも優美な姿を寒空の下に気丈に現し、見る者の目を優しく保養してくれる。

 上品、高潔、忍耐、忠実という花言葉はその家紋のような美しい形姿から明瞭に感じられるものの、あくまでも慎ましく咲き続けようとする清楚な佇まいには淑女のような純然たる恥じらいが漂っている。

 手を加えれば折れてしまいそうな細い枝も、偉大なる自然美のオーラが一切の警戒心を持たないままに邪念を振り払ってしまう。

 梅に鶯、松に鶴。素晴らしい四季が織りなす花鳥風月は決して永続性を好まず、一瞬一瞬の見る者の感受性に依って齎されるもののように思える。だとすればその感受性を磨いてくれるのも自然であり、謂わば心の鏡の役割を担ってくれている自然に対し濁った目で向かい合っても得られるものは少ないだろう。

 となれば尚更今英和が持ち合わせている感受性などは取るに足りない児戯に等しいもので、梅が好きという心情も正直ではあっても、単に自然美、自然の力に準じたいだけの詩人を気取るような虚栄心に依って象られている気もしないではない。

 意志的な性格がそうさせる可能性は否定出来ないまでも、感覚的に芽生えた思想というものは既に彼自身に深く内在されており、それをも滅してしまう事は生きている限りは不可能なのではなかろうか。

 自らにそれを問いかけんとする彼は少し離れた位置から改めてこの光景を眺めてみた。そこで呟いた言葉は、

「綺麗」

 この一言だけであった。たったこの一言を口にする為だけに今までじっと眺めていたのかと思うと恥ずかしくもなって来るが、羞恥心をも覆すほどの自然美は今俄かに成長を夢見んとして前向きになったであろう彼の気勢に加勢するかような優雅な風を拭き起こす。揺らめく枝葉は鷹揚にも屈強な精神でたじろぐ事なく天を仰いでいる。

 目を閉じ風を全身で感じていた英和は今一度梅に一瞥してから立ち去る。舞う寒風は彼の後ろから追い風となってその背中を攻め立てるのだった。

 

 地元の商店街を歩いていると前方に見慣れた男が一人颯爽と自転車をこいでいる姿が見える。義久は相変わらずの能面のような顔つきながらも少し焦燥に駆られたような様子で近付いて来る。

 落ち着きがあるようでない、ないようであるみたいな彼の雰囲気は依然としてその真意を見せようとはしなかったが、それを挙動不審と言い切ってしまうのも早計に思われる。英和は素知らぬ顔で通り過ぎようとしたが、やはり声を掛けられたのだった。

「英、久しぶりやんけ!」

「......おう、お前かいや」

 相手にしたくなかった英和は愛想の無い態度を取った。それでも動じない義久の様子は羨ましい限りで神経が通っているのかすら分からないぐらいであったが、そうは成りたくないと思う英和でもあった。

 義久は僅かな表情の変化だけを以て言葉を続ける。

「ちょっと金貸しとってくれへんか? 頼むわ!」

 また始まったと思った。もはやこれが口癖なのだろうか。そうならば酷い悪習だ。それもこの前あれだけの口論になったというのにまだこんな事を言い出すとは呆れてものも言えない。理解に苦しむ英和も流石に今回は貸そうとはしなかった。これ以上甘やかしてしまえばまた要らぬ災いを呼び起こす事になるだろう。

「お前ええ加減えんとあかんでな、本気で言うとんか?」 

 義久は間髪容れずに答える。

「誰がモンキーやねん!」

 英和には戦慄が走った。康明となら笑っていたであろうこんな古いギャグもこの現状にあっては寒気がするぐらいだった。それは当然義久の無神経な態度に対する憤りで、断る事こそが彼の為でもあると信じて疑わなかった。

「そうか、しゃーないな、じゃあまたな」

 ところが義久は全く卑屈になる事なくまた颯爽と自転車を走らせ姿を消すのだった。彼は本当に何も考えていないのだろうか。それとも他にあてでもあるのだろうか。

 怪訝そうな面持ちで立ち尽くす英和は今起きたたった数分の出来事に戸惑いを隠せなかった。皮肉ではなく本当に羨ましい。彼は悩んだり落ち込んだりした経験があるのだろうか。何故そこまで楽観的な、自己中心的な生き方が出来るのだろうか。これも先天的なものなのだろうか。もしそうなら親の顔が見てみたい。でも彼の親御さんとは何度も会っていてその為人も大方は知っている。確かに似ているようではあるが、ここまで酷くもない筈。

 取り合えず街中で喧嘩沙汰にならなかっただけマシと思った英和は思案もそこそこにして店へと向かう。

 まだ夕方のバーには客も少なく、店主は一人物静かにグラスを磨いていた。英和は一番端の席に坐ってウィスキーの水割りを頼んだ。恐らくは天然であろうその大きな氷の削り割られた断面は、まるで烈しい波に依って打ち砕かれた岩肌のような険しくも繊細な表情を現し、重厚感のある輝きをグラスの外にまで放っている。

 注ぎ込まれたウィスキーの原液と清らかな水は氷の角を優しく溶かすようにして円滑に浸透して行く。それを慣れた手つきで二三回かき混ぜる店主は、氷と酒、水の心を汲み取るかのような優しくも鋭い眼差しをこちらに気取られぬように向けていた。

「はい」

 少し低い声でカウンターテーブルの上に出された水割りにはウィスキー独特の渋い芳醇な香りが立ち込めていた。一口つけた時に感じるアルコール度の高さと喉を通る時の鮮明な刺激はビールとはまた違った昂揚感を与えてくれ、大人びた雰囲気を醸し出す店内の様子と相乗した味わいの良さは血管を媒介して生命の安らぎを感じさせてくれる。

 元々ひとり酒が好きであった英和はそんな環境を贅沢に感じながら自分の世界へと埋没して行く。そこに夢想の裡に現れる御伽噺のような恋物語には何時も或る綺麗な女性がいて、こちらを遠目で見つめている光景があった。何故彼女はこっちに来ないのだろう。亦自分も彼女の方に行かないのだろうか。

 まだ会って話もしていないのに芽生えてしまった恋路はどういう経路を辿り何処へ向かうというのか。それを確かめる為の恋であり、人生でもある筈。それなのにこの二人は何時まで経っても足を運ぼうとはしない。怖いのだろうか。結末を見たくないだけか、それとも嫌いなだけか。

 こんな状態で以心伝心に通じ合う両者の心情は正に御伽噺ならではで、切なくも儚い情景にある嬉しさや淋しさは幼子が感じ得る単純な感情に相違なく、裏を読まない純粋な気持ちは先々を憂慮する事を知らなかった。

 遙か彼方に一本の樹が立っていた。よし、そこを目指して進んで行けば自然と彼女に会えるのではないか。そうひらめいた英和はただひたすらその樹に向かって駆けて行く。だがいくら走っても一向に近付いて来ない樹は、逆に遠のいて行くようにさえ感じられる。流石は夢の世界だ。見ているから遠ざかってしまうのだ。ならばと思い目を瞑って進む英和。

 少々疲れたのか休憩していると後ろから誰かが声を掛けて来た。

「何愕いとん?」

 直子は英和の肩をそっとっ叩いて隣に腰掛ける。まだ酔ってもいないうちからこんな夢の世界に誘われてしまった英和はその目を擦って酒を飲み、直子の顔を見つめる。

「あの樹に行こうとしとったんやろ? なかなか辿り着けんかったけど」 

 直子は微笑を浮かべながら酒を注文し、徐に口を開き始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  十九話

 

 

 数日後の或る朝、英和は仕事現場へ向かう道中に車を運転していた康明の様子を訝らずにはいられなかった。

 口笛を吹きながら運転する彼のテンションは必要以上に高く感じられる。車中に流れる音楽のボリュームも何時もより大きい。違和感を覚えた英和は素直に問う。

「何や、えらい上機嫌やんけ、何かええ事でもあったんかいや?」

「ま~な」

 康明はそれだけを答え軽快な捌きで車を走らせる。他人を干渉するのが嫌いな英和であってもこの耳を劈くような烈しい音楽を朝から聴かされるのは少々堪える。以前なら直ぐにでも文をつけていたであろう彼にも、親方が倒れてからは何処となく慎重な様子が窺える。

 結局は何も言わなかったし言えなかった。でもそれは康明に対する哀れみに依って育まれた寛容さとは思いたくない、謂わば幼子が無理をしてまで己が非を認めようとはしない健気にも純粋で頑なな一時的な心情に類似していたのかもしれない。

 現場に着いた二人は親方の分まで頑張ろうという意気込みを胸に仕事に邁進する。既に家の外壁塗装は終えており、残るはテラスにある大工が造ったウッドテーブルの塗装だけであった。

 杉の無垢材が現す幾重にも重なった模様のような木目には、切られても尚息吹きを上げようとする大自然の心意気が漂っている。たとえ耐久性を増す為の塗装とはいえ美しい姿に手を加える事をナンセンスと判断してしまう英和の稚拙な感性は、親方が訊くとどう思うだろうか。

 仕事であってもなかなか手が進まない英和の様子に苛立ちを覚えた康明は、あろう事かそのテーブルに色の付いた塗料を塗ろうとするのだった。

「おい、何しとんどいや! これはオイルステン塗るだけやぞ!」

「施主さんも俺らに任せる言うとったやろ、何でもええねん」

 言う事を訊かない康明の手を強引に止めた英和の表情は真剣だった。その気迫に圧された康明はやむを得ず手を止める。彼は何故こんな暴挙に出たのだろうか。一体何があったのか。親方の容体を慮るが故の衝動からなのか。でも昨日までは至って平然と仕事を熟していた。それが今日になって何故。

 テーブルは二台あった。二人はそれぞれが一つのテーブルを担当し塗装を施して行く。まだ油断がおけないと思う英和は常に康明の行動を監視しながら仕事をしていた。

 一度塗ってから乾くまでの間に休憩する二人。英和が車へ向かうとそこには無秩序に並べられた塗料の容器が蓋を開けた状態で置かれてあった。彼は全ての容器の蓋をしてから康明の下に戻り、改めて叱りつける。

「お前マジで何しとんどいや? 何やあれ? 使えへんもんばっかりようけ出して何がしたいねん? 遊びに来とんか? どないしたんや?」

 康明は怪訝そうな面持ちのまま貧乏ゆすりをしながら黙って訊いていた。だがよく見るとその顔つきは泣いているようで笑っている、怒っているようで喜んでいるような形容し難い、訳の分からない感情を象っていた。

 気でも触れたのか。虚ろな目つきはまるで何も見えていないような、英和の姿を映し出すだけの鏡の役割しか果たしていない感じがする。その鏡でさえも曇ってはっきりとは見えない。

 輝きを失った鏡ほど虚しいものもなく、彼の目には英和の姿も濁り澱んで見える事だろう。こんな状態では仕事どころかまともな話すら出来ない。そう思った英和は情愛の籠った一撃を康明に喰らわすのだった。

 大した力を入れていないにも関わらず康明は地面にひれ伏し、殴られた頬に手を当てながら顔を上げる。殴った英和の心は傷付いていた。康明もそうに違いない。でも彼の口元は不敵な笑みを泛べていた。

「お前、何でそんなに真剣やねん? もっと気楽に生きたらんかいや」

 意味が分からなかった。この状況で何を言い出すのだ。てっきりやり返して来ると期待していた英和の思惑はいとも簡単に座礁してしまった。確かに長年の付き合いの中でも康明と実際の喧嘩をした事などは一度もなかった。平和主義者であった彼は喧嘩自体した経験もないだろう。

 そんな彼に手を上げてしまった英和の傷心し切った剥き出しの心に康明の無抵抗ほど恐ろしく鋭い刃の切れ味を感じる時はなく、行も退くもならない状況の中で苦しみ藻掻く英和という男が乗る舟は難破して岸に打ち上げられ、そのうえ誰の目に留まる事もなく労しくも無残な姿で切なく佇んでいた。

 康明の心の変容は親方の事よりももっと奥深い所で根差しているのではなかろうか。それを一瞬にして見抜くのは不可能に近いだろうし訊いた所で答える筈もない。だからといってこのまま放置しておくのも心苦しい。

 康明の手を取り優しく微笑む英和はここでまた戦慄する。何だこの異様な匂いは。これはシンナーか。ラッカーシンナーが多数積まれてaる車中では全く気付かなかったが、今康明から放たれるこの匂いは明らかにシンナーの匂いである。塗装工というものは常にシンナー臭いと言われもはや英和も慣れてはいたものの、彼から発せられる強烈な匂いはその範疇を遙かに超えていた。

「お前、今更ラリっとんかいや? 何でや?」

 康明は間髪容れずに答える。

「お前かって何時か現場でラリっとったやろ? 人の事言えるんかいや」 

「あれはたまたま仕事中に吸い過ぎただけやんけ、一緒にすなよ」

 英和もこれ以上は何も言う気になれなかった。テーブルの塗装の乾燥具合を確かめに行く彼の後ろ姿を見つめる康明の顔から笑みは消えていたのだった。

 

 仕事を終えた康明は親方の見舞いにも行かず彩花と会っていた。口紅で覆われた彼女の唇はこの寒さの中でも少し重たげな芳醇な甘さを表現し、その可憐にも自然な厳つさが内在された男勝りな風格は付き合っている康明でさえも畏怖させる。

 彼の唇には皹が入りかさかさとした鬱陶しい感触が表情を強張らせ、吐く息の白さがそれを助長するかのように二人の間に峻烈な感覚的情動を孕ませる。

 何時もながらにドライブをしながら車の中で語り合う二人の様子は、恋仲というよりは男同士の友人の関係にしか映らない。気弱になっていた康明はこんな状態を訝り、彩花のような女性には本来英和のような男の方が合っているのではないかという悲観的な考察に誘惑されるのだった。

 隣で堂々と煙草を吸う彩花の少々尊大な態度は康明の憂慮を吹っ飛ばすような寛大な威厳を放ち、見るまでもなく感じられる彼女のオーラは康明をしても窄む事を知らなかった。

 その衰弱した精神から合理的見地に立たざるを得なくなっていた康明であろうとも、真に彩花の事を愛していたかまでは自分でも分からない。それは彩花にも言える事で二人の関係にある僅かな光は今にも消えてしまいそうなほど非力にも見える。

 康明は舞子浜で車を停め、何度も坐った事のあるベンチに腰掛ける。ここに来るのが初めてであった彩花は景色を遠くに眺めながら、らしくもない実に女らしい声音で呟く。

「こんな綺麗な場所あってんな、地元の海とはえらい違いやでな、でも何で今までここに連れて来んかったん? まさかモトカノとの思い出の地とか言うんちゃうやろな?」 

 康明はその方がよっぽどマシだと独り心の中で呟いた。勿論現実は違う。英和も康明も異性と交際するのは彼女達が初めてで、その情けないと思ってしまう気持ちは言うに及ばず、この現状にある蟠りこそが胸を絞めつける最大の要因であった。

 明石大橋の主塔やケーブルに明滅する鮮やかな色調は自ずと見る者に心地よい刺激を与え、切なくも儚い、優美な眺めは恋心を擽る。

 緩やかに差し伸べられた彩花の手は康明の手と重なり、冷たい冬の中にあっては露骨な体温の上昇を齎す。今更照れ合う両者の表情は滑稽極まりなかったが、遙かに聳える月の姿はシリアスな雰囲気を惜しむ事なく二人に授ける。

 思わず抱きしめ合う二人に立ち込める情愛は意思の伝達という余計な工程を通り抜け、周りを憚らない清純な無羞恥はその性格を変えてしまうほどの強靭な意志を以てけたたましい海風を靡かせる。

「ハックション!」 

 こんな時にまでくしゃみをする情緒感のない康明は敢えて笑いを誘おうとでもしたのだろうか。そんな筈はない。しかし冷える事を懸念する彩花は優しい面持ちで車に戻ろうとする。付き従う康明はここで言い残した想いを告げられずに悔いていた。

 そして車に入った二人は改めて愛撫を交わす。だがここに来て彩花は初めて感じた康明の臭気に愕くのだった。

「ちょっと待って、あんたその匂い何なん? まさかチャンソリ(シンナー)ちゃうの?」

 康明は返事に窮した。あれだけ英和に言われていたのに何故今日に限って彩花に会ったんだ。俺は本当にどうかしているのか。凄まじい悔恨はその額に汗を滲み出させる。「ほんまにチャンソリなんか? 私は何回も吸った事あるから分かるんやけど、これはラッカーの匂いやな、でもトルエンしてないだけまだマシかもな」

 康明の父親は塗装だけではなく建築作業を広範囲で熟していた為、家には水道管の接着剤に使われる水のりと言われる溶剤が置いてあった。これに含まれるメチルエチルケトンという有機化合物にはトルエン並みの芳香性があり、その中毒性、依存性は周知の事実ながらも人を覚醒させる効用が甚だしく大きく、専門業者や顔見知りでないと売ってくれない店もあるぐらいだった。

「そっかぁ~、そんなもん今更吸とったんか、でも私も久しぶりに吸いたくなって来たな、ちょっと分けてくれへん?」

 この一言が康明を激情させ、自省の念を駆り立てる。何故俺はこんな女と今まで付き合っていたのだ。どう考えても不釣り合いだ。住んでいる世界が違う。温度差があり過ぎる。軽率な言葉を浴びせる彼の表情は親に反抗する幼児のような怯え顔だった。

「彩花、お前俺みたいなヘタレと何で付き合っとん? もっとお前に似合う男知っとうで、紹介しよか?」

 それを訊いた彩花は烈火の如く怒り狂い康明の頬を引っ叩く。女性の攻撃とはいえそれは余りにも抒情的で強烈な一撃だった。

 今日一日だけで二人の者から顔を殴られた康明は自我を忘れただ心の中で泣き叫んでいた。その悲痛な魂の叫びは貫禄のある彩花を前にしても留まる所を知らない。英和とは違って論理的思考を嫌う彼はあくまでも今の感情の中にある正直な答えを欲していた。それは或る種の理性を超えた人間が持って生まれた感覚的意識に由来するのかもしれない。だがそれを引き出す事さえ困難な状況は障壁という名の試練しか表さない。

 それをも超えて行く力が今の彼にあるのだろうか。車の窓を開けると強い寒風が事務的な態度で吹き荒んでいる。それでも臆する事なくドアを開け外に疾駆する康明は受洗を求めて彷徨っていた。

 そんな姿を憐れんだ彩花は優しい表情で康明に寄り添うようにして、一緒になって走り狂うのだった。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  十八話

 

 

 まだ日も昇らない外の仄暗い景色はその寒さと共に英和の純粋な焦燥を煽って来る。夢から覚めたばかりの彼には未だに現実との区別がはっきりつかないのか、まるで夢の続きを演じさせられているような思いで康明から訊いていた病院に急行する雰囲気が感じられる。

 折よく降って来た粉雪は夢で見たそれとは全く違う憂愁感だけを漂わせ、黒い地面と立ち並ぶ家々は当たり前の実社会を淡々と顕現させていた。

 何の情緒も表さないこの雪を鬱陶しく感じた英和は無心に勤めながらひた走り、病院に辿り着く。近所でそこそこ有名なこの総合病院は規模は小さいながらも親切な対応に定評があり、時間外で更に面識のない英和に対してもその只ならぬ様子を察して、

「大庭さんの見舞いですか?」

 などと声掛けをしてくれるのだった。教えて貰った部屋に駆け付けると親方のベッドの前で項垂れている康明がいた。

 彼は何も言わずに英和の顔を見つめる。英和も何も口にしないまま康明の肩にそっと手を当て、親方の安否を気遣っていた。

 前の件からも本来なら康明に対して何か文句を言いたい英和ではあったが、夢想の裡に翻った決心はたとえ見せかけだけの深慮を有する彼をしても立ち戻る所を知らず、亦己が経験からもとてもじゃないが今の康明に厳しい言葉を投げ掛けるような真似は出来なかった。

 それは父親に対する息子の心情を慮るというよりは、康明に対して一つでも悲しい経験をさせてやりたいといった己惚れた優しさから来るもので、そんな自分を恥じながらも康明から感じられる切ない想いは多少なりとも私情を充たしてくれる。

 二人の焦燥は共鳴し、親方の心へと点火される。親方は一時的にも人工呼吸器を外しこう告げる。

「悪いな、現場は二人だけで出来るやろ、頼みます」

 この期に及んで子方である二人に一言だけとはいえ敬語などを使う親方の優しさ、その真摯な姿勢には応えようがなかった。

「分かりました、心配しないでゆっくり休んで下さい」

 英和が放った言葉は康明を感動させた。零れぬ涙は彼の心中に大切に蔵(しま)われ、出さぬ言葉は親方の僅かな憂慮を解消させる。

 また呼吸器をはめ直し目を瞑る親方を見守る二人は沈黙の裡に心を一つにしていた。

 この時英和には過去という憂いが胸に込み上げて来るのが確かめられた。それは自分がまだ小学生低学年の頃、父親と死別した余りにも哀しい、悔恨が残る痛ましくも悄然たる思い出だった。

 過ぎた事にあれこれ言った所で何も始まらない。でもそれを自らが体験した場合に受け得る沈痛な思いには凄まじいまでの隔世の感があり、世の無常を悲観するつもりはなかろうとも明らかに芽生えた激情を抑える術は無いに等しいと思われる。

 そこにある喜怒哀楽のうちの怒と哀は他の喜や楽を以てしても緩和される脆弱な感情ではなく、それを願うものでもない。その悲痛な感情が保られる時間にも個人差はあろうともいち早い復旧を目指さんとする無情の精神には賛同しかねる。

 部屋に入って来た先生は言う。

「命には全く別状はありませんが、だいぶ心臓が弱ってるみたいですから仕事をするのは無理でしょうね、取り合えず入院して貰って様子を見ましょう」   

 親方の心臓病は今に始まった事でもなかった。常にペースメーカーを付けながら仕事に従事していた事は二人にとっても頭の下がる思いで、そのうえ愚痴一つ零さず明るく振る舞う紳士的な為人には無言の裡に感じる矜持が生き様となって表れていた。

 それを知るからこそ英和はこの親方を実の父として接して来たのだった。親方も多くは語らなかったが、英和の事を息子と思ってくれていたのではなかろうか。

 今にして思えば昔警察に捕まった時もそうだった。親方は叱るどころか何も言わずに二人の目をじっと見つめていた。無論それは大目に見るといった温(ぬる)い優しさではなく、これからの人生に於いて罪を贖って行けと言わんばかりの厳しさを訴える鋭い眼光であった。

 もしそれを露骨に言葉に表していたとすればそれこそ英和のような繊細な人間は逆に反抗の意思を確立させていたかもしれない。それも無論ただ思春期の若者が表しがちな稚拙な反抗ではなく、言うまでもない事を言われた事に対する他者を侮るような健気にも愚かな抗いに過ぎなかった。

 そんな性格だからこそ親方も康明も英和を敬遠していた節はあった。でもその蟠りが不幸にも親方の病に依って解消されたのである。そういう意味ではやはり経験しない事には成長しないというのが人間社会の常なのだろうか。それをも憂いてしまう英和の精神構造は既に歪んでいるのだろうか。

 決して上から見るつもりもなく他者を馬鹿にするつもりもない彼の頑なな心根は何を求め、何処に向かうというのか。

 窓外に見られる粉雪は複雑に入り混じった心情を解きほぐすように優しく降り続いていたのだった。

 

 一応認めていた英和の書き置きは母の足を急がせる。病院に行ったあと親方の奥方と話をする母の表情は神妙だった。 

「親方には何時もお世話になっています、回復してくれたらいいのですけど」

 奥方はそんな母の心配性を軽く宥めえる。

「私より心配しとうな、あんたも苦労性やでな、大丈夫やからあんまり心配せんとって、こっちまで辛くなって来るわ」

「すいません、有難う御座います」

 息子と似て非なる母のこの苦労性も英和にとって煩わしい限りだった。何かにつけて直ぐ謝る。平身低頭と思えばそれまでなのだが、何処か他者に媚びているような気がしてならなかった。

 例えば新聞の営業マンに対してもそうだった。しつこい売り込みに対して母は何時も頭を下げながらこう言っていた。

「すいません、うちは結構ですから」

 何故一々謝る必要があるのか英和には全く理解出来なかった。自分ならその営業マンにカマシを入れて追い返すだろう。たとえ喧嘩になってとしても。

 それが文句を言うどころか逆にすいませんとかいう言葉を表す母の神経には憤りまでもが込み上げて来る。だがそれが母の良い所だと感じていた英和は敢えてその事を口にはしなかった。

 今回もそうだ。何故親方の奥方に対し謝る必要があるのか。社交辞令とはいえ今このに英和が居れば理解に苦しむに違いない。そんな母の性格を知っていた親方と奥方も僅かな訝りは感じていただろう。

 でもそれを踏まえた上でもあくまでも優しく接してくれる態度には敬服する。自分よりも年が上だった奥方に甘えるような母の気持ちは理解出来る。

「ところでうちの子、ちょっと神経質みたいやけどどう思います?」

 奥方は少し間を置いてから答えてくれた。

「確かにあの子にはそんな所があるわな、うちの康明とは似ても似つかん性格かもしれんけど、でも大丈夫やで、何も暗い事もないし理屈抜きに二人は合とうみたいやし」

「そうですか、それやったらいいんですけど」

「ま、どっちも偉いわ、親孝行しようと頑張ってくれとうねんから、可愛いもんやで」

 この親にしてこの子とでも言おうか。康明も旧知の仲であるに関わらず英和の前では何一つ卑屈な様子を見せた事がなかった。それに引き換え何時も物思いに耽る英和は小難しい人間と思われていただろう。

 そのうえで付き合ってくれていた康明にはそれこそ頭が下がる。それでも人は人、自分は自分と割り切っていた英和の性格には他者を思いやる優しさよりも自尊心が先走っていた感はあった。問題はそれを如何にして良い方向へと向かわせるかといった心のベクトルであって、もし道を誤れば取返しのつかない事態に陥る可能性もある。

 十代の頃ならいざ知らず、二十代半ばにもなった彼にはその事が重荷になりつつあった。でも逃げる訳には行かない、自分を欺く事は出来ない。その一貫性だけは今の状況をして更に高まって行くのだった。

 話を終え帰途に就く母の姿は何処となく淋しく感じられる。奥方の言は単に慰めに過ぎなかったのだろうか。それともまだ言い足りない事でもあったのか。

 何をしても何を訊いても充たされぬ人の心とは本当に厄介なものだ。完全性はないまでも人が発する言葉や意図する思いにはそれなりの力が感じられる。それをどう受け止める事にこそ人間としての度量が試されているだろうか。ならば言葉などは無用ではないのかといった浅慮が湧き上がるのも自然の理ではあるまいか。

 母はそんな逡巡を息子に自己投影するかのように哀れみ、悲観していた。どうしてこの年になってまで迷い続けてなければいけないのか、何時になれば真の倖せがやって来るのかと。

 外には何時の間にか積もった雪が透明感のある風流な白を漂わせていた。数年ぶりに現れた都会の雪景色は英和と母、康明の家族、この五人の気持ちを溶かすようにして冷たくも清美に佇んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

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汐の情景  十七話

 

 

「はぁ~......」

 道中で先程から何度となく耳にする義久の溜め息。英和には単にパチンコに負けた悲嘆だけを表しているようには思えなかった。

 人が時として覚える嫌な予感とは当たり易いものなのだろうか。逆に良い予感などは当たらないどころか、した事すら殆ど記憶にない。

 それは取りも直さず英和という男の小心で悲観的な人物像が窺い知れる自明の理で、哀れむに足る苦労性など廃棄した方が良いというのが皮肉を込めた世間の一般論かもしれない。さりとて本能や理性、偶然必然を問わずそれを感じる事が出来る、元来人間に備わった性能というものも実に侮り難いもので、その性能無くしては備えあれば憂いなしという故事なども成り立たないのではあるまいか。

 夜風が必要以上の冷たさで頬を突き刺し余所余所しく通り過ぎる。肉感的な刺激は精神にも影響し、一抹の不安を投げ掛けて来る。

「おい義久よ、お前落ち着かへんな~、何や? 焦っとんか?」 

 つい言葉に表してしまった英和の本意は義久を苛立たせる。

「あ~、先になんぼ奢ってくれるんか教えてくれへんか?」

 意味不明、理解不能。彼は一体何が言いたいのだろうか。いくら奢ってくれるなどという言葉は訊いた試しもない。

 義久の性格を熟知していた英和であってもこれだけは見当もつかない。いくらとは読んで字の如く金額を指しているのか。もしそうなら飲み食いしてみない事には分からないし、遠慮しているのなら水臭いとも思える。

 だが義久の表情から遠慮などという思惑は些かも感じられない。ならば何なのか。答えに窮する英和の様子を訝る義久はまた同じ事を訊いて来るのだった。

「だから、なんぼ奢ってくれるんやって? はっきり言うてくれや!」

 その無駄に強気な義久の態度に反感を覚えた英和は売り言葉に買い言葉といった感じでカマシを入れる。

「何どいや? 何怒っとんどいや? せっかく奢ったる言うとんのに、お前まさか金が欲しいんか? 現金かいや?」

 それでも義久は何ら悪びれる様子もなく至って平然とした面持ちで答える。

「そら金しかないやろ? 他に何があんねん?」

「......はぁ~」

 今度は英和が溜め息を零す。こいつは何を言ってるんだ、何故そんなに賤しいんだ。これが長年の付き合いである親友ともいえる者の言う事なのか。

 返って自分が情けなく思えてしまうこのやりとりは一瞬にして場を凍り付かせ、優柔不断な英和をさえ呆れさせるに十分だった。

「お前な、普通奢る言うたら飲み食いの事を言うやろ? ちゃうか? 誰が現金奢ったらんとあかんねん! そんなんやったら止めとこか、行く気失くしたわ、アホくさ......」

 義久は尚も食い下がる。

「それはあかんで、奢る言うてんから奢って貰わんと困るでな」

「われダボちゃうんかい眠たいんちゃうんかい! 誰も金あげるとは言うてへんでな、それとも何や、契約書でも交わしたんか? 冗談は顔だけにしとけや」 

 流石の義久もここまで言われて黙ってはいなかった。

「舐めとんか? おー?」 

 英和は必死に堪えていた。これ以上は何を言っても同じだろう。ならばいっそ叩きのめしてやるか。いくらなんでも義久如きの負けるとは思えなかったが、本当に手を上げてしまえば弱い者虐めになってしまう。

 それは己惚れではなくせめてもの慈悲、そして幼馴染であるが故の腐れ縁から来る哀れみを加味した人情。貧しい家庭に生まれ育った両者の本音は必ずしも金の貸し借りを否定するものでもなかったが、ここまで露骨に言われてしまえばどうしても憤りが込み上げて来る。

 飲みに行き、酒を酌み交わしながらならたとえ少額でも貸してやらない事もなかったのに何故彼はここまでの短慮に失するのだろうか。一応大学も出ていて学歴も上、勤め先もそこそこの企業で英和のような塗装工よりは収入も多いだろう。それなのに何故こんな不甲斐ない姿を躊躇する事なく露見しようとするのか。

 無駄な論議を好まなかった英和は人情に負けて何も口にしないままに3000円という金だけを渡す。受け取った義久は物足りないと言わんばかりの顔つきで、謝意の欠片も感じられない軽い礼だけをして背を向ける。

 やはり康明が言っていたように義久などとは縁を切った方が良かったのだろうか。今となっては悔いても及ばぬ事だが、その康明とも仲違いしてしまった英和は改めて孤独を感じる。

 この孤独も自らが欲したもので所詮は自業自得なのかもしれない。しかし全く非がないとは言わないまでもそこまで卑屈になる必要もないだろう。

 狷介な者に鷹揚過ぎる者、楽観的過ぎる者。この三者は何れも極端な性格で絆を深める事には無理があるのだろうか。だがそんな三人だからこそ釣り合いが取れるような気もする。

 一筋縄でいかない人生だからこそ面白いという者もいる。それは漫画やアニメ、ドラマや映画といった物語に代表されるように起承転結、紆余曲折。色んな出来事があってこそ成り立つストーリーであろうとも、とにかくシンプル好きな英和としてはその色んな事自体が鬱陶しく思えてならなかった。

 だからといって順風満帆過ぎるのも好きではない。ならばどうすれば良いというのか。自分が思い描くストーリーでなければならないのか。それこそ不可能だろう。

 何れにしても儲けた事で少々舞い上がっていたとはいえその好意が仇になろうとは。ここ最近の内省は逆に自壊を欲し、酔う事でそれを充たそうとした英和は純然たる面持ちで独り酒屋へと向かうのだった。

 

 いつの間にか訪れていた冬という季節は人に何を告げようというのだろうか。ただ寒さだけを漂わす冬に見る夢とは。

 酔い潰れて帰って来た英和はそのままの状態で眠りに就いた。毎晩のように夢の世界に誘われる眠りが浅い彼にとって酒はどう影響して来るのだろうか。

 目の前は見渡す限りの雪景色。その白の情景は寒さという現象を除くと春や秋にも勝る優美な見晴らしで、白一色で塗り潰された光景には全てを無に還すような愛憐に充ちた神々の意思が感じられる。

 降る雪は緩やかな風に舞いながら蛍の光のように明滅している。それは見方を変えると夥しい霊魂の欠片のように、亦無数の星屑のようにも映る。

 積もった雪道は歩くのに多少困難ではあったが、まるでホットケーキの表面のようなふっくらとした形は美味しそうにも見え、行く先にあるであろう何か得体の知れぬ存在には幻の中にある壮大な威厳を放ちながら待っているような漂いが感じられる。

 後方から差し込む陽射しに依って作られた全面にある自分の影を踏みながら歩いていると、今現在の自分を踏みにじり、打ち砕き、潰しているような錯覚を覚える。でもそれは英和自身が望んでいた事かもしれなく、内なる咆哮を躊躇う事なく外界に向けて発射出来るこの空間は有難い限りだった。

 蛍の光と星屑はその艶めかしい姿を保ったまま彼の案内役に勤めてくれていた。分かれ道すらないこの空間でまで迷う彼でもなかったが、妖精のような可憐な笑みを浮かべながら案内してくれる姿は何処か面妖な雰囲気もあった。

 こういうシチュエーションでありがちな少しでも後ろを振り向けば忽ちにしてこの世界が消えてしまう、そして自分の存在さえも抹殺されてしまうといったストーリーは英和の欲する所でもあったが、今回だけは敢えて振り向かない事に徹していた。

 それは当然の事ながらこの夢物語の結末を見たいという好奇心と、いっそこの世界に未来永劫浸っていたいという現実逃避な思慮に依るものだった。

 もうそこそこの距離を歩いたに違いない。でも心身共に全く疲れてはいない。これこそが幻の世界に与えられた特権であるのだろうか。音すら聴こえないこの状況はシンプル好きな彼にとってもまたとない絶好の機会で、遙か彼方に聳えている筈の水平線すら見えない一面の白の情景は来る者の心を浄化し、喜怒哀楽全ての感情から解放するほどの力を顕現している。

 もしかするとこの中にあってまだ感情に苛まれているようであれば、彼は永遠に人間としての性能を失ってしまうのではなかろうか。その不安すら災いするのだろうか。いや、ならばこの世界に誘われた意味そのものが無いという事になってしまう。

 ならば何も感じず、何も見ないようにして進んで行くしかないのか。英和はそんな訳の変わらぬ問答を繰り返しながらもひとまず目を瞑って歩く事にした。

 何もない空間の中にも風を受け、雪道を踏みしめる感触だけは辛うじて伝わって来る。風を受ける頬は少し痛く、足音は鈍い金属音のように聞こえる。音にも敏感だった彼は一旦休もうとした。すると何処からか鳴り響く声に気付く。

「何休んでるんだ、早く来いよ、間に合わないぞ」

 その声に一瞬怯みはしたものの、何処か崇高で神秘的で透き通るような美しい声には人を癒やす優しい心根が窺える。それは夢とはいえ何処かで訊いた声のようにも思える。だがどうしても思い出せない。

 とにかく歩き続けるしかない。疲れを知らないこの世界で歩き続ける事だけは至って簡単だった。もはや妖精の案内すら要らないこの道は英和の心理状況をそのまま画にしたようなものであった。

 ようやく辿り着いたであろうその場所には雪さえもない、何もない情景が待っていた。これが無なのだろうか。無というものを人間が感じる事など出来るのだろうか。これ以上は進めない。かといって戻る事も叶わない。

 そこでまたもや先程の声が聴こえて来る。

「やっと来たか、ここがゴールではないぞ、分かってるな、問題はこれからだ、言うまでもないが決して戻ってはいけない、立ち止まってもいけない、どうするかはお前次第だ、いいな.......」

 行も退くも出来ないこの状況に於いて彼はどういう道を辿るのだろうか。徐に開けた目で見たものは部屋の天井だった。これは何の夢だったのか。いくら夢であるとはいえ自分でも説明のつかないこのストーリーは何を訴えようというのか。あの声は神の、天の声だったのか。

 目が覚めた英和が確かめたのは十数回にも及ぶ康明からの着信だった。こんな時間に何をしているのだ。致し方なく電話してみる。康明は一方的に言葉を放つ。

「おい、親父が倒れたんや!」

 その言葉は英和を戦慄させた。時刻は早朝5時過ぎ。彼は直ぐ様作業服に着替え家を飛び出して行くのだった。

 

 

 

 

 

 

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