釈迦の一生 <第一部>
─少年期─
その男は銭湯で風呂場のドアを開けるなり
「俺の人生所詮釈迦の一生、俺なんかどうせ釈迦の一生や」
と独り言をそこそこの声量で呟きながら入って来た。
年の頃は50代くらいか、正樹にはその人の言ってる意味が分からず「この人は何を言ってるんだ」と思いながらも何か気になるものがあり釈然としなかった。
釈迦の生涯といえば壮絶なもので偉大なる仏教の開祖である事は言うまでもない。
中学生である正樹もそれぐらいの事は知っていたがその人は一体どういう意味で言ったのだろうか、自分は釈迦、或いは仏陀の生まれ変わりとでも言いたいのか。いやそうではない、寧ろその表情は憂いに満ちていて喋り方や仕種からも悲観的で卑屈になっているようにも感じる。取り合えずこんな訳の分からない人と関ってはいけないと思い素早く身体を洗って風呂を出た。
正樹は元々神経質な性格で家に帰って来てからもまださっきの事が気になっていて母に話す。すると母は「おかしな事を言う人もいるものね、そんな事気にする必要ないわよ」と軽く言ってのけた。
中学三年生で進路を決める時期が来ていた。正樹は学校での成績は中の上くらいで大して目立たない平凡な存在の生徒だった。取り合えず高校に進学する事に決めたんだがそんな矢先お婆ちゃんが老衰で亡くなった。
お婆ちゃんは昔気質な気性で自分には無論正樹にも厳しく子供の頃から結構怒られていた記憶がある。でも正樹はそんなお婆ちゃんが大好きで部屋に入って話をしたり一緒に海を歩いたりした幼い頃の思い出がたくさんある。だから亡くなった時はめちゃくちゃ哀しかった。
余り考え過ぎて胃に軽い穴も空けた。その事で正樹は小中学校を通して初めて学校を休んだのだが担任の先生からは「お前考え過ぎや、もっと楽に生きて行けよ」と言われた。確かに神経質な所はあるけどそんな言い方もないだろうと思った。
高校の入学試験は無事合格して中学の卒業証書と高校の入学証書を共に仏壇に添え、「お婆ちゃん何とか無事に高校進学決まったよ、ありがとう」と泣きながら実際に声に出して礼を言った。
高校に進学して正樹は空手部に入部した。
小学生の頃空手をちょっとかじってはいたので躊躇いはなかったのだがやはり高校生ともなれば話は全然違う。入部していきなり先輩達にボコボコにやられた。
先輩からは「お前ようそんなんで入って来たな、頭おかしいんちゃうか、早よ辞めや」
とか言われながら殴られ蹴られる。そんな日が何週間も続く。
一応空手部という事で先生もこれといって何も言わない。そんななか二年生の女のマネージャーがみんなに言ってくれた「あんたらええ加減せんとあかんで、こんなもんただのイジメやん、これ以上やるんやったら私が相手になるで」
そう言われた先輩達は何故か一言も言い返さない。正樹はただただ驚いた。
その女性は軽く笑って道場を出て行った。
次の日曜日に県の高校生空手大会が行われた。
正樹は勿論見るだけだったが型競技にはマネージャーの女性が出ている。何でだと思った。でもその人の正拳突きといい廻し蹴りといい貫き手といい、その素早さ、その華麗さ、その美しさはどれをとっても非の打ちどころがない。みんなは「流石やな~あいつの型は、何時見ても惚れ惚れするな~」と言い合っている。
確かにその通りだった。まるで蝶が舞っているかのような華麗さであったがしっかりとした重みもあって女ながらにも貫禄がある。正樹も見とれていた。
競技を終えたその女性は道場を立ち去る時正樹の方を見て軽く笑っていた。遠くてはっきりとは見えなかったが確かに正樹にはそう見えた。
それからの部活動ではイジメられる事もなくなったが相変わらずの弱さで先輩達も愛想を尽かしたいるのが自分にもはっきりと分かった。そしてマネージャーの女先輩が入って来て正樹に稽古をつけてくれると言うのだ。すると先輩達は「ゆみさんわざわざいいですよ~こんな奴の為に」と言う。「いいから下がってて」
正樹はただやられる一方だった。「早くかかって来なさい、セイセイ! セイセイ!」と力強い声が響き渡る。正樹は取り合えず正拳突きを放った。勿論全然効いていない事は自分自身が一番よく分かっている。
「そうよ、ほらもっと、その調子、セイセイ! 、はい次蹴り!」
めちゃくちゃしんどくて倒れそうになったが何故かその時は最後まで頑張れた。
するとゆみさんは「やれば出来るやん」と言ってくれた。
それからというもの正樹の空手の腕は日に日に上達して行く。しかし何故三年生の先輩までもが「ゆみさん」と敬語で喋っているのかが解せず思い切って聞いた所彼女は某有名空手会館の館長の一人娘さんらしいのだ。
そう聞くと正樹は益々驚く一方であったが先輩達からも「お前も大分巧くなって来たな」と言って貰えて嬉しかった。
そうして正樹の高校生活は始まった訳であるが或る日ゆみさんが「今度うちの道場に来ない? もっと本格的な事が出来るわよ」と誘ってくれた。どうするか迷ったが取り合えずお言葉に甘えて行く事にした。
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