まったく皺のないTシャツ　一章

　　一章　　

　一哉は部屋の壁をボケーっと眺めていた。

「何で壁はこんなにも平らで皺一つないんだろう？　本当に綺麗だ、それに引き換え人間はどうだ、心身ともに皺だらけではないか、ほんとに醜い生き物だよ、勿論俺もだけど」悲嘆に暮れながらそう呟いていると奈美子は何時ものように人を小馬鹿にしたような顔つきで

「ま～た独り言言ってんの？　私いい加減あなたのような男とは別れたいんだけど？」と言って煙草の煙を一哉が眺めている壁に向かって吐きかける。

「そんな冷たい事ばかり言うなよ、俺にはお前しかいないんだよ、分かってるだろ、死にたくなるような事言わないでくれよ」

「じゃあ死んだら？」

冬の寒空の中、エアコンをつけていないこの部屋では口から吐く煙草の煙が実に白く映え、壁と同体化したその色は肉眼では捉える事が出来ない。

同棲し出して数十年が経った今、二人が交わす言葉といえばこんな淋しいものばかりで愛情などというものはとうの昔に消え失せ二人は単なる同居人となっていたのだ。

無理もない、もはや一哉は自分の仕事などほとんど無いに等しく奈美子の運転手をしているだけの言わばヒモ同然の生活をしていたのだった。

だがそんな一哉も嘗ては誰もが認める売れっ子俳優で芸能界で華々しく活躍する一哉が奈美子のような風俗嬢と付き合う事になるとは自分自身でも想定外であったが、その頃の奈美子はまだ田舎から出て来たばかりの純粋無垢な少女といった風采で、そんな奈美子の一途な愛に絆された一哉は徐々に奈美子の事が好きになり何時しか二人は恋に堕ちて行く。

今にして思えばそれは十代の頃の穢れの無い恋物語のようにも思える。一哉は未だにそんな淡い思い出に浸り感傷的になる事が多かった。

その思い出は遙か昔、一哉が幼少の頃まで遡る。

天地が若々しく冴え冴えしい初夏、二匹の燕は光芒が差し込む雲の切れ間に向かって天高く舞い上がる。そして人々は額の汗をタオルで拭いながら日々の生活を営んでいた。

一哉は元々几帳面な性格で子供の頃から何でも綺麗に片付けないと気が済まない、親に言われるまでもなく部屋の掃除をするような利口な子供であった。そんな一哉は保育園でもいじめられっ子で「やーい、一哉、お前何でそんなに綺麗好きなんだよ～、たまには暴れたりしろよ～」などと茶化されっぱなしで何一つ言い返す事もない。一哉の様子を見ていた先生達もその行く末を心配するぐらいの実に大人しい子供であった。

怒る手間がないと言えば聞こえは良いが本来子供というのはもっと活発に振る舞うのが世間一般では当たり前なのかまでは分からないが少なくともこの一哉にはそういった片鱗すら無かったのである。だが母親はそんな一哉が大好きで仕方がない、やんちゃな弟の昌哉とは大違いで皿洗いに掃除に洗濯、アイロンがけまでしてくれる母思いの子供だった。

だが或る日アイロンがけをしていた一哉は必要以上にシャツの表面を掌で叩き、端を伸ばして形を整えようとしている。それを訝った母は「一ちゃんもういいから、箪笥に入れておくれ」と言うのだが一哉は一向にそれを止めない。母が強引に一哉から服を取り上げようとすると「何するんだよ、まだ皺が取れてないんだよ！」と言って今度は両手で綺麗に皺を伸ばし始める。それでも強引に取り上げると一哉はとうとう泣き出す始末であった。

「一ちゃん、物事には限度というものがあるのよ、何時までも同じ事ばかりしていたら先に進まないし、みんなからも変な目で見られるでしょ、だいたいでいいのよ」と言って一哉の頭を優しく撫でる。一哉は泣く泣く母に従った。

保育園では相変わらずのいじめられっ子だった一哉だが或る日曜日に同級生の男の子が休みの保育園に忍び込んで玩具を盗もうと言って来た。一哉は正義感も強くその子の腹を無言で殴ってその企みはあっさり頓挫する。それからというもの一哉は虐められる事もなくなったのであった。子供の考える事は単純明快である。

一哉はそれでも保育園ではみんなと一緒に遊ぶ事は少なく一人でいる事が多かった。女の子が誘っても連れない素振りを見せる。そんな一哉を心配した先生は一哉の母と話をしたがこれといって良い案は出て来ない、結局成るようにしか成らないと思い先生も母も一哉を見守るしか術はなかったのであった。

一哉の住んでいる辺りは海と山しかない坂道の多い少し危ない地形で大人が歩くのもしんどい、保育園までの毎日の道のりも疲れるぐらいで子供を車で送り迎えする親御さんもいる。でもそんな坂道は子供にとっては絶好の遊び場で道端では走ったり、寝転がったりして色んな遊びをしていた。一哉は保育園が終わった後、公園で走って遊んでいた同級生の沙也加が足を躓いてこけている姿を発見した。一哉は一目散に坂を駆け下りて助けに行く。沙也加は既に泣いていたが足に着いた土を掃って優しく撫でた一哉に「ありがとう」と涙を拭きながら礼を言った。一哉は軽く笑って沙也加の家の近くまで送ってやると「じゃあまた明日ね～」と言って別れた。沙也加はその晩一哉の事が忘れられず一哉も沙也加の事を考えていた。

翌日保育園に行くと沙也加が「一緒に遊ぼ」と誘って来る。一哉は今まで誰の誘いも受けなかったのにこの時初めて快く誘いを受けたのだった。一哉は何をして遊んだらいいのか分からなかったが沙也加は「ママゴトしよ」と言い、やり方まで丁寧に教えてくれる。地面の上に坐り二人はママゴト遊びをし出したのだ。プラスチックの容器に土を入れて「はい、ご飯」と言って一哉に勧めると一哉は照れながらそれを受け取って食べる素振りをすると沙也加は「どう？美味しかった？」と訊いて来る。