人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

まったく皺のないTシャツ 八章

 翌日学校へ行くと先輩達は早速謝って来る。

「俺達が悪かったよ、許してくれよ」

「分かって下さったら、それでいいので」

 よっぽど上からヤキを入れられたのだろう。だがそんな事は一哉には余り関心のない事であった。

 今日も夏真っ盛りな晴天で陽射しは強く立っているだけでも汗が滲み出て来る。だが若い一哉は紫外線など気にする事などなく、その顔も身体も見事な小麦色に日焼けしている。もはや蝉の鳴き声も苦にはならない。勇ましいその鳴き声は寧ろ一哉を一段と活気付かせ来たるべく水泳大会に向けて意気揚々と練習に打ち込むのであった。

 

 やがて8月も終盤になり待ちに待った水泳大会に臨む。みんなはヤル気満々で日頃の練習の成果を全て出し切って全力で泳ぎ切る。その事だけを念頭に置いていた。

 部員の一人一人が精一杯泳ぎ切り、一哉はみんなを拍手して迎える。その姿は今までの人生において一番輝かしいものであったかもしれない。一哉は自分の番に備えて屈伸やストレッチ等のアップをし始めた。

 いよいよ一哉の番が来た。1フリ(100mフリー)が専門であった一哉は自信に充ち溢れた表情を浮かべながらスタート地点まで歩いて行く。みんなからは当然期待されていたので下手を打つ訳にはいかない。一哉はスタートの位置で深呼吸をして精神を集中させ鋭い角度で勇ましく飛び込んだ。

 水面には烈しい水飛沫が上がり選手達は無心で前へ突き進む。先頭付近を泳いでいた一哉には他の選手の泳跡の抵抗を受ける事もなく力を十分に発揮して泳ぎ切った。結果は1分5秒と中学生にしては上々のタイムで順位も2位だった。チームの元に帰るとみんなが拍手しながら笑顔で迎えてくれる。先生も

「良くやった」

 と健闘を讃えてくれて一哉も十分満足していた。

 残る種目もそこそこの結果で終える事が出来、一行は晴れやかな顔で競技場を後にした。帰りの電車の中ではみんなが今日の健闘振りに称賛を送り合い快活に語らっている。流石の一哉もこんな日は明るく振る舞っていたのだが車窓から見える物悲しい風景は決して一哉を有頂天にはさせない。相変わらずの神経質な性格だけはどうしようもなかったのである。

 

家に帰った一哉から今日の結果を訊いた母は大いに喜び御馳走を振る舞ってくれた。水泳で疲れていた一哉は出された料理を夢中で頬張り、その姿を見た母は一層嬉しくなり息子の清々しい表情に安堵し、その将来に夢を観る。気が大きくなった母は

「沙也加ちゃんにも報告したら?」

 と言った。

「俺もそれを考えていやんだけどあいつ、居るかな?」

「居るわよ」

早速電話をして沙也加に会おうとしたのでが、沙也加の母は

「今日はいないのでまた言っておくわ」

 と電話を切った。

一哉は何故いないのか? もういい時間なのにと少し訝ったが大して気にする事もなく部屋に帰った。

 だがいざ部屋で一人きりになるとやはり沙也加の事が気になる。しかし居ないものは仕方ない、でも沙也加のお母さんの何時にない不愛想な喋り方にも引っ掛かる。一哉はまたキーホルダーを手に取り自分の心を癒やすのだった。

 

 三年生になった一哉はそれまでと同様、水泳に勉学と充実した日々を送っていた。春夏秋冬と、それぞれの季節を経験する度に人は成長して行く。今、街路に見事に咲き誇っている桜を見る一哉の目もそうだ。一年生の頃に見た桜とは何かが違う、というよりそれを眺めている一哉の心持が違う。この桜をただ綺麗だといった見方は寧ろナンセンスにさえ感じる。それはやはり一哉の感受性が強いだけなのか、こればかりはまだ若い一哉には分からず、相変わらずの自分の繊細過ぎる気質に嫌気が差すぐらいであった。

 或る日、休み時間に同級生の英明が思いも寄らぬ事を告げて来た。

「一哉、沙也加は今、誰かと付き合ってるらしいいぞ」

それを訊いた一哉の胸は一気に高鳴り、心臓が烈しく鼓動し始める。

「変な冗談言うなよ、面白くないぞ」

「冗談じゃないさ」

「証拠でもあるのかよ?」

「それは・・・」

激昂した一哉は英明を殴った。

「落ち着けよ一哉!」

「下らない冗談なんか言うからだよ」

「じゃあ言うよ、実際に俺達が見たんだよ、誰か知らない男だったけど一緒に仲良い感じで歩いていたんだよ」

「それだけじゃ付き合ってるとは限らないだろ」

「確かにな、でもそういう感じはしたけどな」

「・・・」

一哉はそんな筈はないと信じていたがどうしても気になる。それからの午後の授業は全く手に着かず水泳の練習もしないで家に帰った。

 家に帰った一哉は真っ先に電話を掛けようとしたが、母がそれを制止するのであった。

「一哉、誰に電話するの?」

「誰だっていいじゃん」

「沙也加ちゃんでしょ」

「・・・」

「ダメよ」

「何で?」

「この前出なかったんでしょ? あの子は学校も違うし色々あるのよ、もうしつこく付き纏うような事は止めなさい」

「別にしつこくなんかないよ、ただ確かめたいだけさ、直接会って話したいだけなんだよ」

「それがしつこいのよ、あなたは女心というものが全然分かってないわ」

「じゃあ俺の気持ちはどうなるんだよ」

「成るようにしか成らないって事よ」

 一哉は一応は母の言う事に従って部屋で大人しくしていた。しかし今日に限ってはキーホルダーでさえ葛藤し続ける自分の気持ちを癒やしてはくれない。やはりこのキーホルダーは沙也加にあげれば良かったんだ、何故つまらない意地を張ったんだ? 一哉は今更ながら悔恨の念にかられやりきれない、暗鬱とした不安に襲われる。このまま眠る事など出来ない、だが母が言うようにしつこくするのも確かに悪い。一体どうすればいいのか分からない。結局その日一哉は一睡もする事が出来ずに朝を迎えた。

 その朝は小雨が降っていて風もある。傘を差したり合羽を着ている人々の姿が目に映る。雨の中、一生懸命目的地を目指す人、嫌々ながら歩いている人、そんな光景に一々干渉する訳でもないが一哉の心は未だに揺らめいていた。

 意を決した一哉は何時もより早く家を出て回り道をして沙也加の家に立ち寄る事にしたのだ。そう決めた一哉にはもはや雨など眼中にはない。傘も差さずこの傾斜の酷い坂道をただひたすら、無心に歩くだけだった。

 そして沙也加の家に辿り着いた頃、一哉はずぶ濡れになっていた。

 

 

 

 

 

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