まったく皺のないTシャツ 十四章
その後も二人は良い関係を保ったまま3年生になった。
紅葉の花が実に色鮮やかに咲き乱れるこの秋という季節は一哉が一番好きな季節であり、読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋、そして恋愛の秋と。
夏の総体を有終の美で終える事が出来た一哉であったが、それからも水泳部の活動にはたまに参加し、沙希と二人で仲良く泳いでいたのだった。
沙希の足はもはや完治でしていたが精神的なものまで治り切ったとは言えず一哉はひらすら沙希に寄り添う日々が続く。しかしただ寄り添っているだけでは治る筈もなく一哉も正直これ以上の回復は見込めないのかと諦めかけていた時もあった。
そんな矢先友人の一人が思いがけない事を口にした。
「お前、沙希を根っこから回復させてやりたいんだろ?」
「そうだけど?」
「だったらやっちまいなよ、それしかねーだろ」
「何だってコラ!」
一哉はその友人をぶん殴った。
「いきなり何するんだよ!」
何も言わずに立ち去る一哉。この繊細な少年はこんな汚らわしい不純な事が大嫌いだった。第一仮にそんな事をした所で沙希の心が充たされる訳もない。もと他に何か良い手がある筈だ。そう思いながらあくまでも純潔な関係も保ちつつ沙希と付き合っていたのだった。
読書の秋という事で一哉は2年生の頃読んでいた小説を改めて沙希に読んで貰おうとした。あれから1年間も封印していたこの本の内容を知る事は怖いとも思ったが、逆にここから学ぶ点もあるのではというのが一哉の考え方であった。
ところが昼休みに図書室へ行くとその本は貸出中で何時まで経っても戻って来ない。次の日もその次の日も。苛立った一哉は図書委員に訊いてみたが分からないというだけであった。
すると或る日沙希がこう言うのだった。
「一哉君、本の続き読んであげるわよ」
「何で読めるんだ? まだ貸出中だろ?」
「買って来たのよ」
「何だって!?」
沙希は確かにその本を持っていたのだ。それなら仕方ないと思い読んで貰う事にする。しかしこんな古い本が書店に置いてあるとは考え難い。とすれば古本屋を片っ端から当たって見つけたのか? 色々逡巡している内に沙希はその本を読み出す。一哉は腹を括って聴いていた。
恋に堕ちた二人の男女はそれまでのメロドラマのような甘ったるい情景から一変し、実にダークな惨憺たる悲劇へと向かう。そのストーリーは聴いているだけでも怖いぐらいの暗鬱とした内容で凄惨な描写が次々に出て来る。一哉はバッドエンドで終わる事が分かり
「もういい、それ以上は聴きたくないよ」
などと言い出した。
「ダメよ、ちゃんと最後まで聴かないと」
そう言った沙希の表情は至って冷静でまるでこの物語の結末を知っているような感じさえする。
「沙希、もしかしてその本最後まで読んだのか?」
「読んだわよ」
「それはズルいだろ! 何で自分だけ先に読んだんだよ?」
そう言った一哉はその本の表紙をよくよく眺める。すると見覚えのある傷が付いていた事に気付く。
「まさか沙希、お前その本学校で借りていたのか?」
「そうよ」
「何でだよ、俺まで騙したのか?」
「ただ読みたくなったから、先に読んだだけよ」
「お前という奴は・・・」
そもまま読み続ける。ラストはやはり一哉の想像していた通りの結末で二人は心中してしまうのであった。
読み終えた沙希は軽く溜め息をつく。一哉はただ途方に暮れている。二人は暫く何も言わずにただ遠くを眺めていた。
そしてようやく沙希が口を開く。
「どう面白かったでしょ?」
「何処が面白いんだよ」
「私はこういうの結構好きだけどね」
「・・・」
結局その本から何も得られなかった一哉は悲嘆に暮れているだけだった。
家に帰った一哉はまたキーホルダーを手に取り物思いにふけっていた。あの小説の作者は何故あんな結末を描いたのか? 確かに順風満帆過ぎても面白くも何ともない、だが最後がハッピーエンドでも良いだろう。あんな本に手を着けてしまった事を今更悔恨の念に駆られる一哉だった。
年は明け1月。辺りは寒く吐く息は白い。この身も心も寒く凍りついてしまうような冬も一哉は結構好きではあったが、傾斜のキツいこの道が凍ってしまえば転ぶ人も多い。実際車でも滑っているくらいで危ない道だ。一哉はこの坂道を歩きながら沙也加の事を思い出すのであった。
しかし今更沙也加に会った所で仕方ない。それにもうあいつには会わないと決めたんだ、男らしくもない。一哉はたとえ一瞬でもそんな甘い考え方をしていた自分に嫌気が差し一人で市民プールへ向かう。そこで憂さを晴らすべくひたすら一生懸命にがむしゃらに泳ぐ。今の一哉にはこんな事しか思いつかない。でも泳いでいる時は少なくとも邪心は捨てられる。1kmをあっという間に泳ぎ切った一哉はプールサイドで休憩していた。すると例の高齢の親父さんが近寄って来る。
「おう一哉君、今日も良く泳いでいたね、あっぱれだよ」
「あ、こんにちわ」
一哉の顔を見たその親父さんは、少し間を置いた後目を合わさずにこう言い出した。
「君、今悩んでるね」
「え?」
「泳ぎ方を見ていて分かったよ」
「確かに悩んでいます」
「若い内は大いに悩む事だよ」
「でもいい答えが出て来ないんです」
「何故いい答えを求めるのかな? 別に悪い方へ向かってもいいのでは?」
「・・・」
「どの道成るようにしか成らんよ、でも悩む事はいい事だ、それさえ失くしてしまったらもはや人間ではないからね~」
一哉はこの親父さんの言う事は半信半疑で訊いていたが決して分からないでもないといった感じで別にそれ以上は言い返そうとも思わなかった。
家に帰る途中一哉は公園に立ち寄った。別に沙也加に会いたかった訳ではない。ただこの無意識に公園に立ち寄り休憩したかっただけなのだ。
一哉が保育園時代から通い慣れた公園、ここで遊びここで沙也加と語らい、色んな思いでがついさっきの事のように頭を過る。夕方にはまだ遊んでいる子供達もいて、一人の子供の投げたボールが一哉の足元に転がって来る。一哉はそのボールを拾って軽く投げて返してやった。子供は
「ありがとう」
とだけ言ってまた仲間の元に戻る。そんな光景を少し笑みを泛べながら見ているとその子供と擦れ違うように一人の女の子がこっちに歩いて来る。それは間違いなく沙也加だった。
数年振りに見る沙也加の姿は以前とは違い何か大人びた、けばけばしい漂いすら感じる。近寄って来た沙也加は何と煙草に火を着けて一哉に声を掛けて来たのだった。
「あら、一哉君、久しぶりね、どう、元気してたの?」
一哉は苛立ってその煙草を掴み取り投げ捨てた。
「あなたはそうすると思ってたわ」
と慌てる素振りも見せずにまた煙草を咥える沙也加。
「お前、何時からそんなもん」
「ついこの前からよ」
「一哉君もこんな所で何してたの? 何か憂鬱そうに見えたけど」
「ただ立ち寄っただけさ」
「ふ~ん」
辺りは次第に仄暗くなり冷たい風が涙腺を刺激するこの寒空の中、二人は暫くの間語らい続けるのであった。
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