まったく皺のないTシャツ 二十章
あらゆる樹々の梢がそれぞれの新芽の色で朧に彩られる春の一日、人々が新生活をスタートさせると共に一哉の新しい人生も始まる。
もはや大学も辞めた一哉には、それは今までのような学生生活ではなく一端の社会人としての人生の幕開けでもあったのだ。
入所式を終えた一哉は溌剌とした面持ちで早速養成所の稽古に勤しむ。それは想像以上の厳しい世界でみんなは必死の形相で演技の稽古に励んでいた。
この中に試験の時会った人が数人いたのだが、特にその内の一人には見覚えがある。自分が一芝居した後必要以上に拍手をしてくれていた人だった。一哉はその椎名という人に挨拶をし、にこやかな顔で話かける。すると彼も朗らかな表情を泛べ
「宜しく」
と言ってくれた。
在り来たりなやり取りにも見えるが、今までは自ら他人に対して積極的に歩み寄る姿などほとんど見せた事のない一哉にとっては自分でも想定外であった。だがこれが功を奏し、劇団の中で一哉は取り合えず愛想の良い人という目で見られるようになったのだった。
稽古場に凄まじくも烈しい声が鳴り響く。それは初めて訊く一哉にとっては実に鬼気迫るもので、その演技には迫力は勿論、何か面白く笑いを誘う光景でもあった。
舞台の袖で見ていた一哉のそんな顔を見た先輩座員が言う。
「お前新入りだな」
「はい、宜しくお願いします!」
「おう、今笑ってたよな、何か面白いか?」
「いや、余りの迫力で少し気後れしたような感じになってしまったのです
「ふん、次はお前の番だぞ」
「はい、頑張ります」
台本に書かれてきた一哉の台詞はたったの一言『ちょっと待てよ!』それだけであった。その一言を如何に感情を込めて言うかに掛かっている。そう思った一哉は必要以上に力み、心臓の鼓動が高まるのが分かる。いよいよ出番が来た。
「ちょっと待てよ」
一哉はやったと思った。自分らしく少し哀愁を込めて言ったつもりだったのだ。しかし事は想定外の方向へ向かう。
「ダメダメ、お前は何やってんの? ここはそういうシーンじゃないだろう! もっと愕いた感じで言わなきゃダメだよ! はいやり直し!」
一哉は台本を全て読んでいなかったのだった。愛し合う男女が急に別れる事になる。確かにこんなシーンで哀愁もクソもない、もと愕かなければならない。そう思った一哉は改めて演技に赴く。
「ちょっと待てよー!」
これで良い筈だ。一哉はそう確信した。
「まあいいだろ」
この座長の言い方には少し物足りなさも感じたが取り合えずはほっとした。
舞台から引いて来た一哉にさっきの先輩が言う。
「お前恵まれてるよ」
「何故ですか?」
「普通は稽古初日から芝居なんてさせてくれないんだ、お前試験の時、結構いい芝居してみんなに受けたんだってな、多分その影響だろうな~」
その日の稽古を終えた一哉はさっき言った先輩の言葉が分かった。確かに今日は新入りで芝居をしたのは俺一人だけだった。他はただ見ているだけだった。この日新入りのした事と言えば挨拶の練習に発生練習、ちょっとした筋力トレーニングにストレッチ、そして一哉は一人だけ芝居が出来たと。
帰りの路で考えていた。自分は今まで人間の喜怒哀楽の内、怒と哀の経験が圧倒的に多い。確かにそれも演技力にはなるだろう。でも今日した愕くという芝居はどちらかと言うと『怒』に当たるのではないか? だがそれだけでもないような気もする。喜怒哀楽、この四つの感情全てが備わって初めてその一つ一つが発揮で出来るのだ。そこで名案を思い付く。またあの二人に助けて貰えば良いのだ。
そう思うと足取りは軽くなり家に帰った一哉は早々に沙希に電話した。
「またその話? 別にいいけどさ」
「じゃあまた頼むよ!」
「ちょっと待ってよ!」
「それだよ沙希! その言葉が聴きたかったんだよ!」
「何?」
「いいから、じゃあ明日な!」
一哉は嬉しくなり沙希に電話した事は間違いじゃなかったと自分自身に言い含めたのだった。
あくる日は稽古は休みだったので落ち着いて沙希と会う事が出来た。勿論待ち合わせ場所は例の公園だった。沙希は時刻通りに来てくれた。その姿は相変わらず可愛く公園を囲む桜に実に美しく映える。その桜を見ながら沙希は言う。
「何、ここで花見でもしようと言うの?」
「それもいいかもな」
「沙也加ちゃんは?」
「あいつには連絡してない、でもひょっとするとまた現れるんじゃないかな~とか思ってここで待ってたんだよ」
「甘いわ、あの子もう二度とあなたとは会わないよ」
「何でそんあ事が分かるんだよ?」
「当たり前じゃない、あなた何様よ、二人の女と恋するつもりなの?」
「・・・」
「そんな甘い考えかたしてるとどっちからも愛想つかされるわよ」
「そうだな」
一哉はこの一言によって舞い上がった自分の頭を覚まし足元を見る事が出来た。
その後二人はまた一哉の家に行く。ここでまた稽古の稽古が始まるのであった。
もはや母に気遣う必要もない、寧ろ下手に姑息な立ち回りをすれば母に怪しまれるだけだ。一哉は沙希を伴い堂々と玄関から自分の部屋に入った。
部屋に置いてあった劇団のパンフレットを見た沙希はこう言う。
「ふ~ん、これが養成所なの、結構いい感じに見えるけど」
「そうだろ、雑誌で見て応募したんだけどさ」
「で、今度は愕き方だっけ?」
「そうなんだよ」
「それこそ劇団で勉強したらいいと思うけど」
確かにその通りだ。でも一哉の神経質で人一倍高いプライドがそれすら許さない、一哉は何としてもいち早く俳優に成りたかったのだった。
「そうね~、じゃあ私が分かれると言ったらどう?」
「それか~」
確かにその手もあった。だが沙希が今直ぐ俺と別れる筈もないという気持ちが先走り現実味に欠ける。そんな訝し気な一哉の表情を慮った沙希は次にこう言う。
「じゃあ沙也加ちゃんと永遠の別れが来たとしたら?」
この時一哉の顔は明らかに変化した。勿論沙希もその変化を見逃さない。
「あなたまだあの子好きなのね」
「そうじゃないよ!」
咄嗟に繕った一哉の表情は輪をかけて変化し引き攣っている。そんな一哉に対し沙希は至って平静を保ってはいるがたとえ少しでも動揺した面持ちを見せる。
そして沙希は改めて言った。
「私、あなたと別れるわ!」
「ちょっと待てよ!」
「それよそれ! 出来たじゃん!」
「・・・」
これは沙希のかけた罠なのか? それともあくまでも自然の理なのか? それは二人にも分からない。ただ一哉は『愕く』という演技は立派に熟したのだった。
この日沙希は一哉の家に泊まった。窓を開けると街燈と月あかりに照らされた夜桜が美しいラベンダー色に染まる。その色は妖艶さを漂わせ沙希の身体に憑依する。
一哉はそんな絶景の中でこの勿体ないほど美しく、芳醇な沙希の身体に触れて行くのであった。
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