人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

まったく皺のないTシャツ 二十五章

 一哉は深い海のような夢の世界に誘(いざな)われていた。

 夢には二種類の意味があり、一つは将来実現させたいと思っている希望や願いを指す夢と、もう一つは睡眠中に観る観念や心像が齎(もたら)す幻覚という夢。

 当然彼が今観ている夢は後者なのだが、そこに実際に知りうる人達が出て来るという事はやはり一哉本人の心の奥底に抱く自分でも理解し難い観念や心像の露(あら)われなのか。亦仏教的な観点から見ると、人間が寝ても覚めても自己に執着していると言われる唯識論でいう所の第七識、末那識に依るものなのか。

 何れにしろ今回観た夢は一哉が観るべくして観た。と言っても過言じゃないほど現実味を帯びていた事は確かだろう。

 その内容は家族は無論、沙也加に沙希、同級生達に学校の先生、そして今付き合おうとしている奈美子まで、実に多種多彩な顔ぶれが次から次に一哉と共演するといった複雑怪奇な芝居のようなものであった。

 そこで一哉が執着すべきはやはりこれからの人生を描くであろう奈美子との恋路なのだが、流石にいくら夢であっても先々の事までは観させてはくれない。ただ現時点では仲良くしているだけでその具体的なストーリーさえ示してはくれない。苛立った一哉は沙也加や沙希の時と同様、本当に自分の事が好きなのか? そして自分自身も本当に奈美子の事が好きなのか? という現実と瓜二つな葛藤をし続け奈美子に問いかける。

 しかし彼女はその問いにだけは絶体に答えてはくれない。そしていよいよ光輝く未来に向けて二人が羽ばたいて行こうとする時、夢から覚めた一哉は重々しくその瞼を開ける。

 奇妙な夢に戦慄を覚えた一哉はすぐさまキーホルダーを手に取り自分を癒やした。窓に近づき外の景色を眺める。もうすっかり雨も上がった地上には雀の

「チューチュー」

 と可愛くも元気な鳴き声がこだまする。その鳴き声を聴きやっとこさ我に還った一哉は今日の一歩を踏み出すのであった。

 

 この日もスケジュールは劇団での稽古に始まり次なるドラマの打ち合わせ、台本の熟読と実に多忙を極めていた。次に控えていたドラマも勿論脇役ではあったが主役を張る俳優はまた林であった。一哉はどうもこの林という男が好きになれない。だが仕事は仕事で、まだ好き嫌いなど言える立場でもない一哉は当たり前のように芝居に打ち込もうとハリキっていた。

 そして撮影初日、皆と挨拶を交わした一哉は林の下へ行き握手を求める。林もそれを受けてはくれたがその表情は愛想もクソもないといった面持ちで、ただ儀礼で握手をしただけという感じだった。

 一哉の出番はみるみる増えて行き、今では主役との絡みも結構多い。一哉は意気揚々と演技に精を出す。最初の主役とのやり取りはこうであった。

 街で久しぶりに会った二人の同級生はその旧交を温めるべく喫茶店に入り談笑を始める。そこで懐かしい思いを表現しなくてはと思った一哉は台本にあった『変わらないな~』という台詞に少し味を付け

「お前も変わらないよな~」

 と言ったのだった。するとたったこれだけの台詞の違いを見逃さなかった林は激怒し

「お前、何台詞変えてんだよ! 何様だよコラ!」

 などと一哉に対し罵倒の数々を浴びせて来たのだ。

 一哉は真っ先に謝り監督も二人の間に入る。この時林という役者はやはり自分の事を嫌いだったのだと一哉を確信させた。

 袖で休憩している時、或る先輩俳優がこう言ってくれた。

「一哉君、あいつの事なんか気にするな、俺はさっきの演技は良かったと思うよ、気持ちもこもっていたし、だいいち監督は何も言わなかっただろう、それは監督自身も良かったと思ってるからなんだよ、もし次もまだあんな事言って来るようなら俺が出て行ってやるから、お前は何も心配せず思う通りの演技をしろよ!」

 先輩が言ってくれたこの言葉は一哉にとっては烈しいほど嬉しいものであった。こんな事ぐらいで一々躓いてはいられない、先輩の威を借りる訳ではないが今度何か文句を付けて来たら自分が言い返そうとも思っていたのだった。

 

 忙しかったスケジュールを終えた一哉は久しぶりに体力作りも兼ねてプールに行く。このプールにも結構思い出があり、数年間という時間にはまだ若い一哉にさえ懐かしい気持ちを沸き立たせる。胸を張ってプールサイドに立ち体操をし始める。そして入水する。この間も声を掛けてくれたスタッフや客、それは一哉にとっても勿論有難い事でもあったが次に目に入った人はそれをも上回る親父さんの姿であった。

 この親父さんは過去に一哉が道に迷っていた時、その心情を察しアドバイスをくれた優しくも眼力のある人生経験豊富な親父さんであった。当然一哉はその親父さんに声を掛け挨拶をする。向こうも一哉の事は覚えてくれていたらしく相変わらずの愛想の良い、気さくな顔つきでこう言って来た。

「おう、久しぶりだな、あん時の坊主だろ、観てるよドラマ、いい俳優になったな~」

「有り難う御座います、自分などはまだまだひよっこですけど」

「いやいや、お前さんは絶体成功するよ、わしが言うんだから間違いないよ」

 その言葉はさっきの先輩俳優から言われた事よりも嬉しく陶酔感で心が充たされる。だがその刹那察しの良い親父さんは次なる言葉も放つ。

「でもお前さん油断していてはダメだよ」

「それは心得ています」

「そうかい、それならいいんだけど、ただわしにはお前さんが以前のように少し悩んでいる風にも見えたんだが、思い過ごしだったかな」

 それは決して親父さんの杞憂などでは無かった。神経質な一哉には何時如何なる時も常に何らかの問題が壁となり障害になるのだ。差し当たって今抱えている問題といえば今日あった芝居の事と奈美子の事であった。その一つ一つを順番に片付けないと気が済まない一哉はまずは奈美子の事が気になり水泳を終えるとまた奈美子の店に赴く。

 その姿は傍から見れば実に素直で率直な小学生のような行動であるかもしれない。今更そんな事を省みない一哉は急いでタクシーに乗り店に行く。

 そして奈美子と会う事が出来た。奈美子は言う。

「だから、何で電話してくれなかったのよ!?」

 確かにそうであった。番号まで教えて貰っておきながら一哉は何故電話しなかったのか? いくら多忙であるとはいえ電話する暇ぐらいはあった筈だ。だがそんな事を今更後悔していても仕方ない。そう思った一哉は思い切り奈美子の身体を貪り始める。奈美子も以前にも増して一哉の身体に寄り添い恍惚感に充たされたような面持ちを表す。

 事が終わった二人にはまた沈黙の時間が待っていた。そこで初めて奈美子が口にした事は

「一哉、私はもう貴方の女なんだからね、何の遠慮もいらないのよ、もう店に来なくてもいいから、そのかわり電話はしてね」

 と、それは愛らしくも切なさを泛べた表情であった。

 そんな奈美子の思いに呼応するべく一哉も

「分かった、お前はもう俺の女だ」

 などと些か笑えるような、寒気がするような台詞を真顔で口にするのだった。でも奈美子は少しも笑みを見せないどころか潤んだ目つきをして

「ありがとう」

 とだけの台詞を発した。

 

 秋の夜長、憂愁に充ちた紅葉の葉は一哉の心に何を訴えようとするのか、その答えは分からないまでも、この美しい一片の葉は枯れても尚、一哉に味方するような漂いを感じさせる。

 一哉は昨夜観た夢の続きを演じるべく、その人生に挑むのであった。

 

 

 

 

 

こちらも応援宜しくお願いします^^

 

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

 

 

kakuyomu.jp