人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

まったく皺のないTシャツ 二十七章

 年末年始に十分休暇が取れた一哉は今年も更なる飛躍を目指し仕事に勤しむ。その姿はもはや嘗ての気の小さかった、いじいじとした優柔不断で何に対しても常に迷いがちだった彼ではなく、傍から見ていても実に頼もしい好青年といった気配を漂わす。

 それは彼が今までの人生経験に於いて、まだ若いながらもそれなりの辛苦を味わって来た功績に他ならない。そして現時点ではまだ自分自身には負けていなかったのだった。

 新春恒例の舞台では一哉は主役を張り大盛況を収めた。その後もとんとん拍子でドラマやテレビ出演、更にはCMのオファーまで舞い込み一哉の仕事は多忙を極める。

 そんな折、一哉に1本の電話があった。その相手は中学の同級生で久しぶりに会いたいとの事であった。一哉はそこまで親しくもないこの男の事を少し訝りながらも、無理に時間を作り会ってやる事にした。

 喫茶店で会ったその男の姿はどう見ても同い年には見えない程薄汚れた風采で、何処となく挙動不審な態度が見受けられる。取り合えず二人は軽い挨拶を交わした。

「久しぶりだったな、元気してたか?」

「ああ、何とかな」

「で、何か話でもあったのか?」

 そう訊かれた彼は明らかに表情を歪ませ少し口元が覚束ない様子で

「実はな一哉、金貸して欲しいんだよ」

 などと言って来たのだった。昔の一哉なら迷っただろう、いや貸していたかもしれない、だが今の一哉は当然そんなバカげた話には応じず

「大した付き合いもないお前に貸す金なんてねーよ」

 とだけ言って立ち去ろうとした。すると彼は一哉の袖を掴み懇願する。

「頼むから貸してくれよ! ちょっとだけでいいんだよ、お前結構稼いでるんだろ? 同級生の誼(よし)みで頼むよ!」

 と。愛想が尽きた一哉は苛立ちながらも凛とした顔つきで

「無理なものは無理だな、他当たってくれ」

 と言い放つ。   

「いいのか、俺をそんな邪見にしても?」

 そう言う彼は何か開き直った様子に見えた。

「何がだよ?」

「お前が昔付き合ってた沙也加ちゃん、今はとんでもない男と一緒になってるらしいぞ、何なら俺がそいつと別れさせてやってもいいんだけどさ」

「何言ってんだよお前、あいつが誰と付き合っていようが俺には何の関係もないよ、それに沙也加は弱い女じゃない、何の心配もいらねーよ」

 そう言った一哉の顔は同級生に対する冷たさではなく、寧ろ貫禄のある、とてもじゃないがこの男とは違う世界に生きる人間といった温度差や威厳に充ちた風格が漂う。そう感じた彼はその後何も言わずに一哉に対し臆するような面ざしで逃げるようにして立ち去った。

 一哉は彼の様子を目で見送りながら先輩俳優に言われた事を思い出しながらお茶を飲みほした。売れるようになったら誰が寄って来るか分からない、慎重になるようにと。まだ売れ始めて間もない一哉には、その諫めがいきなり的を得ていた事に笑えるぐらいであった。

 

 やがて春になり、すっかり寒さも消えた街並みは恰も今まで冬眠でもしていたかのような夥しい人の群れで賑わっている。

 相変わらずの人嫌いであった一哉だが、街路に美しく咲き誇る桜の花は彼のちょっとした憂さをも跳ね返すが如くその心を浄化させてくれる。

 だがここでもちょっとした矛盾はあった。それは本来人嫌いな一哉が何故俳優などしているのか? そして桜もあまり好きではなかった一哉がその花に心が揺らめいた事であった。これは一哉の精神が大らかになったという成長を表すものなのか、それともただ気が変わっただけなのか。いくら売れっ子になりそれなりのオーラを身に纏う事が出来た一哉にも、こういう自分自身の動揺には未だに真剣に掘り下げて考える癖は残っていたのだった。

 春の到来は一哉をまた一段と躍進させるチャンスまでをも運んでくれた。

 事務所の社長は一哉の主演ドラマの話が決まった事を告げる。それを訊いた一哉は勿論嬉しくなり自ら社長に対して握手を求め礼を言うのであった。

 これだ。これこそが自分が待っていた光景なのだ。何時かはこうなると信じてやまなかった一哉ではあったが、この知らせを社長から直々に訊いた今の昂揚感は他に例えようもない。もはや今の一哉には脇役の方が良かったなどという考え方は完全に失われていた。だがそれは決して有頂天になった訳でもなく、全ては事の成り行きであり自分の成長や功績でもある。そう思った一哉は真っ先に母に報告する。勿論母は喜んでくれてその日の夕食は実に豪勢な馳走を振る舞ってくれた。

 食事を十分堪能した一哉は部屋に上がりまたキーホルダーを手にして瞼を閉じる。するとこういう天の声が聴こえるような気がした。

 今は余計な事など考えずにただ真っすぐ己が道を進めば良い。だが油断は禁物だ。これから先の長い人生に於いてはまだまだ様々な困難が待っていよう。しかし臆する事はない、お前は己が道を歩めば良いだけだ。たとえそれが災いしようとも。

 このお告げとも言うべく声は一哉の今の心境をなぞるような、まるで自分自身が言ったかのような内容でもあった。だが最後の『たとえ災いしようとも』というフレーズには少し蟠りも残る。

 神経質な一哉はまた考え込む。先の話はいざ知らず、今この時点でもし心配事があるとすれば何か? 差し当たって思いつく事は無い。そこでキーホルダーを強く握りしめ心を落ち着かせる。すると一つの考えが脳裏を過る。それは甚だ滑稽にも見えるが沙也加の事であった。

 この前会った同級生の物言いが何故か心に蘇る。そう感じた一哉は矢も楯もなく沙也加の家に直行する。その姿はさながら火事の現場に赴く救急隊のような所作であった。

 自宅から走れば5分足らずで着く沙也加の家に辿り着いた一哉は迷う事なく呼び鈴を鳴らす。すると出て来たのは沙也加本人で、彼女は一哉の突然の訪問に愕き

「一体どうしたの、そんなに急いで」

 と言う始末であった。それを訊いた一哉は『失敗した!ー』と心の中で叫んだ。人間とは迷う事が多々ある。でも二つの事柄に迷っ場合、自分が選んだ方とは違うもう一方が正しかったという事は得てしてあるものだ。この時程一哉は自分の洞察力の無さを恥じた事は無かった。

 一哉は沙也加に対し大した挨拶もせぬまま、もう一方の方角へ身体を返す。一旦家に帰り車のキーを手にした一哉が向かう場所は当然奈美子の家であった。

 こんな時に限って道路は渋滞していた。普通に行けば10分ちょいで行けるその時間も恐らくは20分以上掛かるだろう。その時間を三倍以上に感じる一哉はその場に車を放って走り出したい焦燥感に駆られていた。

 そしてようやく奈美子の家に着く。そこで一哉が目にしたものはまるで事件でもあたかのような現場で近隣の人達が立ち話をしている光景であった。

 取り合えず話を訊いてみる。その人が言うには

「ここのマンションの住民の女の子が急性薬物中毒で病院に運ばれた」

 との事であった。間違いない、それは奈美子に違いない。そう思った一哉は手あたり次第病院の事を訊いて回ったが何処の病院なのかまでは分かる筈もない。一哉は救急対応をしている病院を片っ端から当たった。

 

 車を走らせる事約2時間、最後に訪れた病院で必死に懇願し、やっとこさ一哉が目にしたその患者の姿は正しく奈美子本人であり、そこには凄絶なる光景が拡がっていた。

 人工呼吸器を付け幾多の管に繋がれた彼女の姿は実に御労しい。代われるものなら俺が代わってあげたい、と悲嘆に暮れていた一哉ではあったが、奈美子が出来る筈もない笑みを浮かべたような気がした。それは決して杞憂ではない、そう確信した一哉は一安心して胸を撫でおろすのであった。

 

 やはりさっき聴こえた天の声は本当だったのか、それにしても早過ぎる。だがそれをいち早く感知した一哉の予知も流石と言わねばなるまい。

 深夜静まり返った病院の廊下で一哉が一晩を明かす頃、奈美子はどういう思いで眠りに就いていたのだろうか。

 流石の天の声もそこまでは教えてくれなかったのであった。

 

 

 

 

 

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