まったく皺のないTシャツ 二十八章
翌日も仕事が忙しい一哉ではあったが、どうしても奈美子と話をするまでは病院を去る事が出来なかった。
朝になり日が昇り出すと辺りは自ずと忙しい様相を見せる。その音で目が覚めた一哉は廊下を歩いて来た看護師から吉報を訊かされた。
「大丈夫ですよ、幸い命には別状ありませんし、体調も回復しています」
それを知った一哉は一安心しこう訊いた。
「有り難う御座います、で、会えますか?」
「ええ、少しなら」
一哉は看護師に促され病室へ入った。まだ数本の管に繋がれているとはいえ人工呼吸器も外された奈美子の顔つきは至って元気そうで一哉に対して微笑を浮かべていた。
「ありがとう一哉君、ずっと居てくれてたの?」
「ああ、このままじゃ何も手に着かないしな」
一哉は奈美子の手を強く握り目を凝視し
「安心したよ、じゃあ俺行くから、仕事が終わったらまた来るよ」
とだけを言い置き、看護師と先生に挨拶し病院を出て行った。
一哉は今専ら熱をいれていたのは言うまでもなく自身が主役を勤めるドラマ撮影であった。クランクインしてからというもの一哉の熱演振りには目を引くものがあり、他の共演者は無論監督や事務所の社長までもが躍起になっている。そんな期待を一身に背負った一哉は連日連夜真剣に仕事に勤しんでいたのだが、中には一哉の体調を気遣ってくれる者もいる。
だが水泳で鍛えた一哉にはそんな気遣いは無用と言わんばかりに快活に立ち回る。そんな一哉の様子を見ていた周りの人達は益々一哉に一目置き、まだ若いながらも彼の誠実さとそこに秘める底力みたいなものを感じるのであった。
この日の撮影では船に乗り沖へ出て話をするシーンも撮られていた。海面ギリギリまで身体を下ろし、天高く空を自由に飛び渡る鴎の姿は実に勇ましく優雅であった。それを目前に観た一哉は一計を案じる。次の
「俺も鳥のようにこの大空を自由に飛び回りたい」
という台詞を少しだけ変え
「鴎のように」
と監督に相談もせずに台詞を発した。だが監督はその事を全く訝る様子もなく亦共演者も何も言わずに芝居は成功する。
この一哉の勝手なアドリブを効かせた行為は良かったのかどうか、もはやそんな事は是非にも及ばぬ事でみんなはそのまま次の演技に取り掛かる。
無事仕事を終えた一哉は予告通りに奈美子がいる病院へ向かう。その道中一哉が考えていた事は奈美子の安否よりも、今日の撮影で海へ出た事であった。元々海が大好きな一哉ではあったが鴎は言うに及ばず、初めて乗った船に感銘を覚えていた。あまり車に関心が無かった一哉は無性に船が欲しくなって来たのだった。
病院に着く頃は陽も落ち、辺りはすっかり夜になっていた。そして病室へ行くと奈美子はベッドから立ち上がり窓外の景色を眺めていた。
「おい奈美子、寝ていなきゃダメだろ!」
「もう大丈夫よ、先生もそう言ってくれたわ」
「そうか、でも油断は禁物だぞ」
「分かってる、本当にありがとう」
いくら回復したとはいえ、まだ病み上がりの奈美子に対し一哉は薬の事で責める気ににもなれず、ただ元気そうな彼女の姿を感謝する気持ちに覆われる。その一哉の心情はただ彼が優しく繊細なだけなのか、或いは世間の一般常識なのか、それを悟るにはまだまだ経験が足りない。だが一つだけはっきりしている事は今の一哉の気持ちはまごうことなき真意であり、それは真実へと形を変えて行く事が今の一哉には分かる。一哉は改めて人間という生き物は心こそが全てなのだと実感するのであった。
奈美子は明日の朝退院出来るらしい。それを訊いた一哉は土産に買って来た果物を置いて立ち去った。奈美子はそんな一哉の後ろ姿を何時までも眺めていた。
既に桜は散り果て、鬱蒼とした梅雨に入る頃、ドラマの撮影はいよいよ終盤を迎える。一哉はただ自分の演技をしていれば良かったのだがここに来て一つ問題が起こる。
それはまだ駆け出しの俳優が何時になっても良い芝居が出来ず、現場では何度となくNGを出している事だった。
無論一哉も駆け出しの頃はNGなsど日常茶飯事ではあったが、この俳優に至ってはその数が尋常ではなく監督は言うに及ばず、他の共演者からもクレームが出るほどであった。
主役である一哉はそれを放っておく訳にも行かず数々のアドバイスを授ける。しかし一向に改善されないばかりか、その子は一哉に対しても他の誰に対しても逆に言い返す程のはねっかえり者であった。
そこで業を煮やした一人の先輩俳優が持ち前の関西弁でこう捲し立てる。
「ええ加減にせーよゴラ、何様どいやわれダボよ!」
と。こんな方言を聞きなれないみんなはただ愕いていた。彼はまだ言い続ける。
「何か言いたい事あるんやったら言うたらんかいや!」
「いや、別に」
「それやったらきっちりケジメ付けたらんかいゴラ! 小学生ちゃうんどゴラ!」
一応すいませんと謝ったものの、全く誠意を感じられなかった彼はまだ追い込む。
「それで筋が通るんかいや! ドタマ下げたらんかいやゴラ!」
そこで初めて頭を下げたその俳優の目は既に潤んでいた。一哉は以前から知っていたものの、この先輩俳優を凄いと思った。自分なら優しく教えていたであろう、とてもじゃないがこんな言い方は出来ない。後から訊いた話なんだがこの先輩は元ヤクザであったらしいのだった。この時改めて一哉は芸能界の怖ろしさを知ったような気がした。
休憩中一哉はその先輩と長く語らっていた。その内容は当然さっきの件である。
「先輩、貴方は凄いです、本当に尊敬しますし憧れます」
「俺なんかに憧れてどないすんねん、今やお前は主役を張るような役者やんけ」
「確かに、でも自分はまだまだひよっこですし、その風格もありません」
「ええか、貫目というものは自分が決めるんちゃうねん、あくまでも人様が評価するもんやでな」
この台詞も何処かで訊いた事があった。
「そうですね、精進します」
その後撮影は順調に運び疲れの溜まっているみんなは早々に退散した。
一哉は奈美子の家に行く。部屋には灯りがついていた。安心した一哉はドアを開け中に入る。すると奈美子は笑みを浮かべて一哉の訪れを待っていましたと言わんばかりに部屋を綺麗に掃除し酒の段取りまで済ませてした。
「まだ酒は早いよ、横になっていなって」
「大丈夫よ、もう元気一杯なんだから」
と言って奈美子は部屋の中で軽く踊って見せる。一哉も安心したものの
「いいから坐ってなって」
と彼女の身体を気遣う。ここで一哉は昨日言えなかった事を改めて言う決心をした。
「もう風俗は辞めなよ」
「何で?」
「そうしたら薬も完全に辞められるだろ」
「でも食べて行けなくなるよ、私には何の取柄も無いしさ」
「そんな事はない、まだ若いんだし、いくらでもやり直せるよ」
「簡単に言わないでよ、貴方みたいに才能は無いのだから」
「俺に才能なんてないさ、ただ頑張ってるだけだよ」
「いや、あるわよ」
「とにかく辞めろって! 俺が食わせてやるから」
「それも心配よ」
「え?」
「確かに今の貴方は売れてるわよ、でも先々まではどうかな~」
「何だよ、俺の将来は暗いのか?」
「そこまでは分からないわ、でも少なくとも今のままではないような気がするのよ」
そこまでして頑なに辞めようとしない奈美子の心情は如何に? 今のやり取りではまるで俺がやり込められている感じもするではないか? 確かに芸能界は怖ろしい、俺だって何時干されるか分かったもんじゃない、でも現時点でそれはまず考えられない、まだ数年は主役を張れるだろう。そう思った一哉は奈美子の身体を抱き始める。奈美子は何も言わずに一哉に身を任せる。その二人の姿は恰も自然体ではあったが、この時の一哉んの心境は実に乱れていた。
梅雨の鬱陶しく滴り落ちるような雨はその気持ちを洗い流してはくれない。一哉はただ奈美子の身体に溶けて行きたいという気持ちで我を忘れ、ひたすらその身体を貪った。
神秘とも言える美しいその身体はしなやかに艶やかに曲線を描く、でも果たして今の一哉には女の身体を抱くだけでその鬱蒼とした気持ちを浄化させる事は出来ようか、だがそんな気持ちも他所に二人は烈しく、そして優しく溶け合って行くのだった。
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