人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

まったく皺のないTシャツ 三十二章

 それからも一哉は仕事に励み快活な毎日を送る。劇団員でも先輩からは可愛いがられ、同僚達とはその演技力を競い合い、後輩には助言を与える。芸能界の醜い人間関係に嫌気が差してした一哉は何時しかこの風通しの良い雰囲気に慣れてき、もう一生舞台俳優のままでもいいとも思い始めていた。

 この日リハーサルを終えた一哉は久しぶりに仲間達数人で飲みに出掛けた。彼等の行きつけであった魚料理で有名なその店は一行の来店を歓迎してくれる。注文は店任せで次々に旬の幸を提供してくれる。みんなは大いに食べ、大い飲み、朗らかに談笑をしながら楽しい時間を過ごしていた。

 2時間ぐらいが経ち酒が進んで来ると、一人の同僚が一哉に対しこんな事を口にするのだった。

「おい一哉、ところでお前女はどうなんだ? いるんだろ?」

「あ、ああ一応な」

「何だよ一応って、あまり仲良くないのか?」

「いや、そんな事ないけど」

 彼の言った事はせっかく楽しく飲んでいた一哉の表情を少し曇らせる。だがこんな事で一々怒るような一哉でもなく、グラスに残っていた半分ぐらいの酒を一気に飲み干すと気を持ち直し

「そんな事よりこれから歌でも歌いに行こうぜ!」

 と話題を変えたのだった。

 店を出た一行は一哉に促されるようにカラオケに赴く。一人数曲を歌い日頃の鬱憤を発散させ帰る頃、事なきを得た一哉はほっと安心するのであった。

 

 家に帰ると奈美子が居た。彼女の顔が普段よりほころんで見えるのは一哉の気のせいだろうか。

「何だ、今日は休みなのか」

「休みだったらダメなの?」

「そんな事ないけど、何時もより何か嬉しそうな顔してるじゃないか、何かいい事でもあったのか?」

「あったわよ」

「それは良かったな」

 一哉は愛想のない返事をしたが奈美子にはそれは寧ろ好都合で、酔っているのが丸出しな一哉にいきなり抱き着く。一哉は当然慌てたがそれを封じ込めるべく、勇みよく愛撫して来出した奈美子の勢いに負けた一哉は酔っていた影響もあり、ただ成すがままに我が身を預けた。

 奈美子の腕(テクニック)は一哉を快楽の境地に誘(いざな)う。久しくしていなかった一哉には、まるで悠久の花園にでも招待されたような天にも昇る心地を与える。

 そうなると後は奈美子の企み通り二人は烈しく契りを交わす。古今東西、老若男女、何時如何なる時代に於いてもやはり男は女に勝てないのかもしれない。確かに身体が求める欲求ではそういう事になる訳だが心はどうだろう、まず心に惹かれるものがない限り女とてその身を男に委ねるような事はすまい。

 だがこの時の二人の状況を慮るに、たとえ一哉が酔っていたとはいえ心身共に奈美子の方が勝っていた事は言うまでもない。当然一哉はそんな奈美子の企みになど一切気が付かないまま忘我の境地へ陥って行くのだった。

 

 この事は奈美子にしてみれば第一段階に過ぎず次なる策を興じる。それは至って単純な策ではあったが単純な策ほど人は引っ掛かり易いもので奈美子のこうした思慮深さは流石といっても良い程だった。

 

 仕事を終えた一哉は家に直帰するようになっていた。それはやはりこの前の奈美子の策が功を奏したのであろう。実際あれからの彼は奈美子に対し何も口答えせず昔のような優しい一哉に戻っていたのだ。

 家では奈美子が慣れない家事をしていた。一哉が代わろうと言っても応じず、ただ愛想良く気さくな面持ちで家事を熟す。そんな奈美子の姿を眺めながら一哉は思うのであった。『やっぱり奈美子は俺に心底惚れてるんだ、だからこそ今では慣れない家事までしているではないか、やっぱり二人は相思相愛だったのだ』と。

 男のこんな勝手な思い込みほど厄介なものはない。神経質な一哉でさえ今では自分を省みようともしない。一哉は生来、知性と感性、品性には優れていたが理性を利かす事に於いては無能であったのかもしれない。それは男女を問わず言える事にも思えるが、人の心理にも一長一短があるとすれば、少なくとも一哉は欲求に対する理性をコントロールする術は持ち合わせていなかったのだろう。

 いくら家事に長けていた一哉でもこうした奈美子の気配りには素直に感謝し、そのお礼とも言うべく柄にもなくプレゼントなどもするようになっていた。

 奈美子はこのような生活を実に数ヶ月も続けていた。

 

 また冬が来る。一哉が余り好きではない冬。街を行き交う人々の厚着姿は一哉の目には鬱陶しく思える。人間というものは動物とは違い厚着をしないと寒さに耐える事は出来ない。これだけでも一哉にとっては人間の無能さを感じさせるのに十分だった。

 ようやく家に帰りドアを開けると奈美子は居なかった。しかし一哉が愕いたのは雑然とした部屋の光景であった。

 つい最近まであれだけ綺麗に片付けられていた部屋がこんなにも汚れているのか? 勿論奈美子も一気に汚したのではなくあくまでも少しづつ片付けるのに力を抜いて行ったのである。それに気づかなかった一哉にも落ち度はあった。

 だが仕事で疲れていた彼は今更綺麗に掃除する気にもなれず、少し苛立ちながらもそのままの状態で眠りに就く事を余儀なくされる。でもやはり落ち着かない。なかなか眠れない時間が続く。

 そうしていると深夜遅くになり奈美子が帰って来た。彼女は騒音を立てながら、がさつな様子で部屋に入って来た。

「もう少し静かに行動出来ないか?」

「あ、ごめんね、ちょっと疲れてたもんだから」

「それにこの部屋の有り様は何なんだよ」

「それも疲れていたから気が回らなかったわ、あなたは綺麗好きで几帳面なんだから掃除してくれたら良かったのに」

「・・・・・・」

 確かに以前の一哉なら真っ先ににそうしただろう。だが今の一哉にはもはや家事などする気は全く無く、奈美子がしてくれているものだと思い込んでいたのだ。こういう辺りではいくら神経質であるとはいえ、所詮一哉も一人の男には何ら違いは無かったのであろう。

 だがこの惨憺たる情景を見過ごす事も出来ない一哉はこう頼むのであった。

「だいたいでいいから片付けてくれないか?」

 と。それを訊いた奈美子は我が事成れりと言わんばかりの心持になり敢えて一哉にイケズを言った。

「何よ、私に掃除しろっての?」

「頼むよ」

「そうね~、じゃあ条件があるわ」

「条件!?」

「そうよ、私に膝間づいて懇願するか、私を抱くかのどっちかよ」

 いくら何でも膝間づくような真似はしたくない、そうなると後は抱くだけしな残っていない。当然一哉は後者を選択した。

 こうしてまたまた奈美子の知恵と身体を張った姦策に嵌った一哉は、もはや奈美子なしでは何も出来ない惰弱な男に成り下がっていたのだった。

 でも奈美子の真意は一体何処にあるのだろう。こんな頼りない男と付き合う事がそれほど楽しい事なのか? いくら物好きでもそんな事は考え難い。

 今の一哉はその問いに対し思慮を巡らす力もない程に奈美子に全てを捧げるが如く、その魂までをも握られた腑抜け状態になっていた。

 もはやあの時の天の声も聴こえない、寧ろ聴こうともしない今の情景はこれからの二人を何処に向かわせようと言うのか。

 それこそ神のみぞ知りうる事であったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 こちらも応援宜しくお願いします^^

 

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村