人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

まったく皺のないTシャツ 三十三章

 一哉がこれほどにまで急速に落ちぶれてしまったのは、彼の繊細さが災いしたとしか言いようがない。それに付け入るように奈美子は更なる注文まで付けて来る。

 通勤時は車で送り迎えまでしろと言うのだ。流石にこれは言い過ぎだとも思えるのだが、もはや腑抜けになってしまった一哉は泣く泣く従った。

 そうなれば当然仕事などは全く手に着かない。一は長期休養を取っていた。

 ここまでは全て奈美子の目算通りだった。まだ後一押し足りない、流石の奈美子もそこまでは想いが廻らず、取り合えずは己が策が成就した事に安堵していたのだった。

 

 ここで少々、奈美子の生い立ちについても触れておかねばなるまい。彼女は初め一哉が見た通りの田舎育ちで二十歳になるまでは都会になど行きたくないほどの純粋無垢な少女であった。だが単に純粋なだけでもなく実に過酷な思春期を過ごしていたのであった。

 彼女は元々聡明で美しい女性だったのだが、幼くして死別した父をこよなく愛していた。だがそんな事も他所に母は再婚したのだが、その男がヤクザもので奈美子がまだ小学生高学年の頃から執拗に身体を求めて来るといった素行の悪い男であった。

 母はそんな夫に対し何も抵抗出来ず、奈美子はただ成すがままにされる。この時奈美子はその胸に誓っていたのだった。将来この男を絶体に殺してやると。

 しかし自体は急変し、男はヤクザ同士の抗争でやられてしまった。普通ならそこで嬉しがるように思えもするが奈美子はそうでは無かった。是が非でも自分の手で殺したかったのだ。その的が無くなれば他の男をやるしかない。奈美子の男に対する敵対心は半端ではなかった。

 この少しひねくれた筋の通らぬ論理ではあるが、こればかりは実際に経験した人間でないと分からない事かもしれない。奈美子はただ復讐がしたかっただけだった。

 そして男が好んで訪れる風俗にその身を落とすような真似までしたのだが、ここで大きな誤算があった。一哉との出会いだった。奈美子は風俗に来るような男にろくな奴はいないと高を括っていたのだった。それが一哉のような見るからに繊細で優しそうな男が来るとは、そして彼が一人目の客になろうとは流石の奈美子にも想定外であり、奈美子は一時復讐を忘れ一哉に惚れてしまったのだった。

 そして今の状態へと事が進んでしまった訳なのだが。

 それならばいっそ一哉と生涯を添い遂げる仲になれば良いのでは、というのが世間一般の考え方であろう。しかし一哉と付き合い出してからの奈美子はこの一哉の優しくて男らしい、その性格自体に憤りを覚えるのだった。

 奈美子に言わせれば世の男というのもは、まず女にはだらしなく、その性格も傍から見れば憐れまれるようなものでなくてはならない。

 だが一哉はそうではなく寧ろ凛々しい立派な青年であった。こんな男では復讐は出来ない、何故自分はこんなまともな男と出会ってしまったのだ? 二人が出会ってから数年間、奈美子はこんな事ばかり考えていたのだった。そして思いついたのは一哉を堕落させる事だった。

 そうなれば迷う事なく復讐が出来る。

 この愛する者に対し卑怯な手を使ってまで己が信念を貫こうとする精神はどう見てもおかしい、筋が通らない。だが人間の心というものは時として本人でさえ分からない程の迷路に彷徨い落ちる事もある。これこそが古(いにしえ)から語り継がれている性悪説というものなのか? 真実は何処にあるか分からない。だが少なくとも今の奈美子の心はその性悪説に憑依されていた事だけは事実であろう。

 

 寒かった冬は過ぎ、心地よい春風がそよぐ頃、人々は新生活に快活に踊り出す。地には新しい芽が息吹を上げながら生まれて来る、空には澄んだ青に澄んだ雲、虫の啼き音、そして街には意気揚々と歩く人の朗らかな笑顔。

 季節ごとに感じるこれらの光景こそが当たり前の風景なのかもしれない。だが今の二人の目にはこの光景がどう映るのだろうか、この澄み切った春の光景ですら二人の心を癒やす事は出来ないのだろうか。

 

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 それからまた数年の歳月が経った。

 月日の経つのは本当に早い。二人は未だに同棲生活を余儀なくされていたのだが、この間全く進展は無かった。

 一哉は部屋の壁をボケーっと眺めているだけであった。そんな一哉に対し奈美子は

「もういい加減別れたいんだけど!」

 と相変わらずの愛想のない面持ちで一哉を責め立てる。

「だから、そんな冷たい、死にたくなるような事ばかり言うなって」

 その言い振りは如何にも頼りない、ひ弱な男の言い方であった。

「だったら死んだら? 何なら私が殺してあげようか?」

 ここまで一哉に死んで欲しいと思いながらもまだ実行出来ていない奈美子も奈美子であった。それはやはり未だに彼女の心に一抹の不安があったのであろう。だが今となってはその不安にさえ思いが及ばぬ程二人の生活ぶりは堕落の一途を辿っていたのだった。

 

 奈美子が出勤するまでの昼の間は一哉にとっては実に退屈な時間で、何時しか彼には暇つぶしに散歩する習慣が身に着いていた。

 何時も行く公園を歩いてベンチに坐り少し休憩していた。すると向こうから一人の女性が足早にこっちに向かって来る。その姿は一哉には一瞬幼馴染の沙也加にも見えた。だが沙也加ではない。では誰なんだ? 沙希か? いや、沙也加も沙希もこんな所に来る筈がない。

 一哉の前に現れたその女性は何と母であった。母の姿に驚愕した一哉は一瞬顔を反らした。だが母は一哉の目をはっきりと見据えてこう言い出した。

「あれから何年経ったのかしらね~、あなた今どうしてるの? 手紙すら寄こさないし」

「ごめんお母さん、何とかやってるよ」

「何をやってるのよ? 今更そんな言い訳なんかどうでもいいわよ」

「・・・・・・」

「取り合えず事務所から連絡があったからその事だけでも伝えておくわ」

「何? 俺はもう俳優なんかしてないけど」

「いいから訊きなさい」

 母が齎したその内容とは正に一哉にとっては吉兆であった。昔一哉を苦しめた林という俳優が不倫騒動と覚せい剤で完全に芸能界から抹殺されていたのだった。ここ数年世相になど全く無関心であった一哉にとってもこれには愕きを隠せない、だが今の抜け殻同然の彼に一体何が出来ようか。

「それがどうしたんだよ、母さんも今の俺の状態は知ってるんだろ、何で今になってこんな事知らせてくれるんだよ」

「じゃあこれを観なさい!」

 母が出して来たのは一哉の守り神ともいうべき例のキーホルダーであった。一哉は奈美子と同棲を始める時このキーホルダーを持って行かなかったのだった。それは一哉にしてがは軽率にも思えるが、実は彼はそれを失くしていたものと思い込んでいたのだった。それを今頃になって何故母が持っているのだ? もしかして母は隠していたのか?

 ふと一哉はそんな訝りを覚えた。だが敢えて訊きはしない。

 キーホルダーを無理矢理手渡された一哉は昔に戻ったようにそれを強く握り締める。するとキーホルダーは今になっても一哉の気持ちを勇み立たせてくれる。

 『そうだ、俺にはまだやり残した事がある、こんなとこで挫けていてはダメだ!』そうした想いは自然と一哉の表情にも現れる。それを確認した母はその後何も言わずに立ち去った。

 一哉の好きな冬の吹きすさぶ強い風が心に染みわたる。一哉は目が醒めたように家路を急ぐ。そして家で待っていた奈美子に対し語気を強めながら言い放つ。

「今日は一人で行けよ! 俺はもうヒモじゃないからな!」

 と。その姿は一世一代の男の決心とも思える実に勇ましく、凛々しい、雄々しいまるで戦国武将が決戦にでも赴くような漂いさえ感じる。

 この時奈美子は何も言い返せなかった。だがこれはあくまでも一人間としての対峙であり、そこには男女の駆け引きなどといったものは一切無かったのだ。

 冬の夜風は相変わらず強く冷たく吹きすさぶ。その季節の変化を敏感に感じ取れる事が出来た時点で一哉は我を取り戻す事に成功したのではあるまいか。亦そこまで気が及ばなかったのも奈美子の手落ちであったのかもしれない。

 一哉はやっとこさ天の声、否自分自身の声を心に聴いたのであった。

 

 

 

 

 

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