早熟の翳 十八話
大学を卒業するまでの残りの数ヶ月間は誠也に大いなる休暇を与える。もはや司法試験にも合格を果たした彼にはこれといってする事もなくなっていた。これまでと同様アルバイトには精を出していたがそこまで勉強に打ち込む必要もなく、かといって単車で暴走する訳にも行かない。高校生までヤンキー街道一筋で生きて来た彼は他に大した遊び方を知らなかったのだった。誠也は鬱蒼とした気分で退屈な毎日を送っていた。
そんな或る日、先日尋ねた高校の先生から連絡が入る。誠也が提案していたように飲みに行く誘いであった。二人は駅前で待ち合わせをしていた。
人々が仕事を終え帰途に着く夕暮れ時の駅前は実に忙しい。誠也はその雑踏の片隅で佇みながら群衆の行きかう様をぼんやりと眺めていた。
人間というものは何故こんなに行き急いでるように見えるのか、いくら帰宅ラッシュ時とはいえ余裕のある顔つきをしている者などたったの一人もいない。そんなに急いで帰った所で何か急用がある訳でもあるまい。人間は一体何処に向かって生きているのか。
だが誠也とて群衆の中の一人である事には違いなく、それを訝しむ事は甚だ滑稽にも思える。彼のそんな憂愁に充ちた想いに追い打ちをかけるように晩秋の少し冷たい風が樹々の葉を揺らす。
誠也の心を和ませるのは如何にもこれから遊びに行かんと勇み立つ若者達の快活な笑みと、移り行く季節に動じる事なく威風堂々と街路に屹立する木立の姿であった。
そんな光景の中、群衆に塗れるようにして先生は現れた。彼女はこんな雑踏の中でも誠也の姿を直ぐに確かめられた。手を振りながら近づいて来る。
「誠也君待った?」
「自分もさっき来たとこです、それより直ぐ分かったんですね、流石です」
「何言ってんのよ、貴方のその風貌は何処に居ても一目で気が付くわよ」
「それもそうかな」
誠也は照れ笑いをしながら歩き出した。
道中で少し風が強まる。すると先生は誠也の腕に摑まりながら歩く。誠也も少しは動じながらもあくまでも無反応を装い前だけを見て歩いていた。傍からはカップルに見えても何ら不思議ではない二人の姿は群衆から離れるにつれその色合いを濃くして行く。誠也は一刻も早く店に着きたい心境になっていた。
繁華街の忙しい雰囲気を嫌った誠也は街はずれの風情のある店に辿り着いた。扉を開けると誠也の目論見通りの閑散とした景色が二人を迎えてくれる。椅子に坐った二人は初め互いの顔を見れなかった。年配のマスターがおしぼりを出してくれて注文を訊く。二人は取り合えず生ビールを頼んだ。そこで初めて二人は顔を見て
「乾杯!」
という声を口にする。一口でも酒が入り、声を出すとそれからは心が解き放たれたように喋り出す二人であった。
「誠也君、改めておめでとう、本当に凄いわ」
「有り難う御座います」
「で、どういう法曹の道を進もうと考えてるの?」
「弁護士ですね」
「そうか~、誠也君らしいわね」
「そんな風に言われたのは先生が初めてですよ、みんな俺の事ヤンキー弁護士だとか揶揄するんです」
「確かにその通りだよね」
先生は笑いながら飲んでいた。それから話は思い出や世相に移った。
「でも誠也君達がいた頃は大変だったけど、面白かったわ~、懐かしいぐらいよね」
「ほんとにお世話になりました、自分も懐かしいです」
「ところで清政君はどうしてるの?」
「あいつはヤクザですよ、家業だから仕方ないんです」
「そうか~、あの子も男気のある子だったもんね~」
誠也は飲み続けている。
「あ、そうだ、健太君いたでしょ、あの子この前学校に来てたわよ」
「え? 話したんですか?」
「私は会ってないけど、何か生徒達に声を掛けて回ってたみたいね」
誠也は顔はまた少し怪訝そうな面持ちを表す。
「どうかした? 何か怒ったの?」
「いや、そんな事ないです」
マスターは気を遣ってくれたのか、頼んでもいない料理を出してくれた。
「有り難う御座います」
と言って二人はその魚料理を美味しそうに食べ始める。年期の入った年配のマスターはその場慣れした感覚で二人の雰囲気を察していたのだろうか。だが決して二人を干渉するような振る舞いなどは一切感じさせずにただ渋い表情で包丁を握っている。何れにしてもこの店に入った誠也の目論見は正しかったのだろう。それからも二人は大いに飲み、大いに食べて充実した時間を過ごす。
そして酔いが回って来た頃先生は徐に誠也の身体に凭れながら言うのであった。
「誠也君、貴方さっき私の手を振り解こうとしたでしょ?」
「そんな事ないです」
「いいや、そうよ、私の事嫌いなの?」
「嫌いならまず一緒に飲みに来たりなんかしませんよ」
「じゃあこれから二人で何処かに行く?」
「それは出来ません」
「あら、硬いのね、少しぐらいなら良くなくって?」
「それだけはダメです」
「でも私だって女なのよ、貴方はそんな一人の女を誘ったのよ」
「自分はそういう意味でお誘いしたのではありません」
「流石ね、そこまで素気無く言われれば諦めるしかないわね、恥かいてしまったけど、貴方になら別に後悔しないわ」
「恥なんてかいてませんよ」
「ありがとう」
2時間ぐらいが経った頃二人は店を後にする。予て言っていたように誠也は先生の気遣いだけを頂き自分が料金を払って更にタクシーまで呼んであげた。タクシーの運転手にも数千円を渡して先生の事を宜しく頼む。先生は誠也の優しさに包まれたままタクシーの後部席で誠也の顔を脳裏に過らせるのであった。
月日は過ぎ厳しい寒さの中、誠也は早や卒業の時期を迎える。同級生達は各々の学生生活を顧みて涙する者もいる。だが誠也にはこの4年の間にそこまでの思い出もなく、ただ一過程を熟したという想いで式に参加する。しかしそれは決してこの4年間を蔑ろにする訳ではなく、世話になった講師や学生達に対する感謝の想いは確然たるものだった。
誠也が書いた卒業論文のタイトルは「早熟の果てに」だった。そこには当然夭折した有名人の事などが縷々綴られてある。その中に己が人生を織り交ぜながら筆を進めていた訳なのだが、それは決して誠也の己惚れから生じたものなどでは無く、あくまでも我が自身を客観的に見た彼の素直で正直な気持ちの表れであった。
仮にもこの早熟という言葉が彼に相応しい言葉だとすれば、この先の人生には何が待っているのか、それを確かめるべく人は人生の歩みを進めて行くのだが、未来を予知する事などはいくら聡明な誠也であっても出来る筈もない。そういう意味で言うと古の賢人や仙人、上人と比べた場合誠也の聡明さなどは取るに足りないもののような気もする。あくまでも凡人に過ぎないのだ。
しかしその凡人が幸か不幸か類まれない才能を持ち合わせていた事も確か話で、その才能を何処に注ぎ込んで行くかに依って彼の人生は大いに変わって行くであろう。
この論文の意図するもの、結末はどういう風に誠也の人生を彩るのだろうか。天の声は遅々として聴こえない。
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