早熟の翳 二十話
被告人の男は伸ばし放題の汚い髭に虚ろな目付き、ヘラヘラと薄笑いをしながら先生にも一礼もせずに終始不遜な態度で椅子に掛けていた。
先生が話をし出すと一切訊く耳は持たない様子で貧乏ゆすりをしながら言いたい事だけを口にする。
「だから、俺は正当防衛なんだよ! 先に手を出して来たのは向こうだから」
「それは通らないんだよ、全くの無傷の貴方に対して相手方には刺し傷以外にも刀痕や無数の打撲痕があるんだよ、とてもじゃないが正当防衛で通すのには無理がある、貴方が素直に認めれば罪を軽くする事は出来るかもしれないがね」
「頼りない先生だなー、俺は無罪なんだよ、警察も弁護士も無能な奴しかいねーのかよ、もっとマシな弁護士呼んで来いよ!」
「とにかく冷静になってくれないと話にもならない、また来るから」
面会は僅か数分で終わった。この間誠也は黙っていたが、男に対して憤っていた事は言うまでもない、そして先生のあくまでも優しい接し方にもやり切れない思いを抱いていた。
弁護士が相手にするのは被疑者、被告人が殆どであるとはいえ誠也は改めて荒んだ世の中の現状をまざまざと見た気がして幻滅していた。どこから見ても悪人のような奴を弁護をして一体どんな利益があるというのか、全く生産性のないあんな男など寧ろ死刑にするべきではないのか。
帰りの車の中で誠也の心境を察した先生は信号待ちしている時に軽くボヤく。
「ほんとは俺だってあんな奴の弁護などしたくないんだがね、これが仕事なのさ」
誠也は返事をせず少し暗鬱な表情のままアクセルを踏み出した。
事務所に帰ると先生の奥方がお茶を用意してくれた。
「誠也君、どうだった? 酷いもんでしょ? でもこれが現実なのよ」
「はい、でもあんな男にも人権があるんですよね、稚拙な事を言うようですが、国選であんな奴の弁護を引き受けるメリットなんてあるんですかね? 自分ならたとえ私撰であっても絶対に引き受けませんけどね」
「そう言うと思ったわ、でもね先生はもっと酷い依頼人をいくらでも相手して来たのよ、勿論更正する可能性がある人限定だけどね」
「あの男に更正の予知があるとは思えませんけどね」
「その内分かるわよ」
誠也は全く同調出来ない心持のまま話を訊き、自分の仕事に移る。自分もこれまで色んなヤンキー達を見て来たがあんな性根の腐った奴は初めてだ。昔の自分ならその場で叩きのめしていただろう。自分は何故弁護士になったのか、これなら検事になった方が良かったのではと悔恨の念に襲われる。こうした考え方は彼の若さに起因するものなのか、亦その実直で真っすぐ過ぎる性格の成せる業なのか、でも誠也はいくら年齢を重ねてもこの鬱蒼とした気分から解き放たれる気はしなかった。
そんな誠也を他所に先生は黙々と資料に目を通していた。
巡り行く気節の中で色んな木や花が街を彩るが、誠也はこの数ヶ月で大して成長した感じがしなかった。先生も相変わらずのお人好しな様子であの男をギリギリまで説得するつもりのようだ。気晴らしに飲みに行ってもつまらない、まして清政達とはこの前の一件以来空気が入ったままだから気が進まない、こんな地に足が着かない状態でまり子に会う訳にも行かない。誠也は錯綜する想いの中でまたまたあの御方を頼る事にした。
安藤久。陸奥守の初代総長にしてヤクザの大幹部。彼が本家の直参になる日も遠くはないだろう。今までも何度か世話になった事があるものの彼は決して誠也の事を忘れてはいまい、彼に会った後は必ず良い結果が齎された。誠也は余り余計な事を考えずにまた久さんに会う腹を固めた。
久さんと会う場所は決まっていた。例のバーに赴いた誠也の前には既に黒塗りのベンツが停まっていた。誠也が近づくと車から出て来た運転手は軽く一礼し
「ご苦労さんです、兄貴は既に入って待っています」
と丁寧な声を掛けてくれる。店のドアを開け中に入ると久さんは相変わらずの静かな佇まいでマスターと少し話をしながら渋い表情で煙草を吸っていた。
「すいません、遅れました!」
縦割り社会丸出しのその言い方は店内に響き渡りマスターを少し怯えさせる。煙草の火を揉み消した久さんは徐に誠也の顔に目を移し口を切り出す。
「おう久しぶりだったな、今日は俺が早く来過ぎたんだ」
「ご苦労さんです」
「ま、一杯飲めよ」
「有り難う御座います」
始めの一口を飲んだ後、誠也はどう切り出すべきか迷っていた。いきなり本題に移るのに抵抗を覚えた誠也は世間話をし始めた。
「最近の日本は暑いのか寒いのかよく分かりませんね、自分なんかは季節の変化にも無頓着になってしまいましたよ、困ったもんです」
そんな誠也の取ってつけたようなその場凌ぎの話にも久さんは一向に動じる事なく、あくまでも表情を崩さないまま答える。
「そうだな~、俺にも真の春はなかなか回って来ないな~」
さり気なく言った言葉にも何か重みを感じる。そんな感じで誠也はその後も取るに足りない話を続け自分自身の酒を進ませた。
少し酔いが回って来た頃合いを見て久さんが切り出す。
「ところでお前、弁護士になってらしいじゃねーか、流石だな」
「有り難う御座います、何とか法曹の道へ入る事が出来ました、これも偏に久さんのお陰です」
「そんなベンチャラはいいんだよ、実際俺は何もしてねーしな」
「そんな事はありません」
「で、本題はヤクザの顧問弁護士に成りたいという訳か」
久さんは微笑を浮かべながら言っていたが目は決して笑っていない。
「いや、そういう訳じゃないんですけど」
「だったら何だ?」
「実は自分弁護士になって事を少し後悔してるんです、結構色んな事がありまして」
「なるほど、で、お前の腹はどうなんだ?」
「この前清政にもその事を訊かれたんです、勿論断りましたが」
「おうあいつか、あれの組はもう大した事ねーだろ」
「それよりも、また俺をアウトローの道に引きずり込むのかという気持ちで」
「そいつは正しい、だが自分を追い込むのはいけねーな、それがお前の唯一の欠点かもな」
「そう言って頂けるのは有難いのですが、言い方を変えるお人好しなだけかもしれません、そう思うと情けない気もして来るんです」
久さんは少し何も言わないまま酒を飲み自分で煙草に火を着ける。この僅か2、3分の間にも誠也は気を遣って仕方がない。久さんは誠也のその心境を見透かしたような表情を浮かべ喋り出す。
「分かった、お前、俺んとこに来い、俺らは所詮ヤクザだ、そんなに難しい訴訟もないし、居てくれるだけでも金にはなるだろう、お前のやりたいようにしたらいい、そっちの方はお前に任せる、その代わり肩書は俺の弟分だ、それでいいか?」
誠也は大いに悩んだが酔いが回った所為か取り合えず
「はい」
という返事をしてしまった。久さんは念を押すまでもなくマイペースで酒を飲み続けている。その姿を見た誠也はやはりこの人は全ての面に於いて自分上を行っている。到底自分などが突破出来る筈もない大きな壁を認識するのであった。
まり子言うが如く誠也は確か唯我独尊で生きて来た、しかし時として道に迷った事も多々ある。方や誠也が見る限りでも全く道に迷った形跡を表さない久さんの生き様とは一体何なのか。それは単に彼の持ち合わせた天賦の才が成せる業なのか、それとも彼にも一応は人並みの悩みがあるのであろうか。亦そんな事を一々気にする誠也の度量も所詮は大したものでも無いのか。
思春期を颯爽と走り抜けて来た誠也は今更ながら、十代の若者が迷い込むであろう己が道に彷徨い始めるのであった。だが芯の強い誠也の気持ちは決して短慮ではなく自分の正直な心が赴く純粋な心意気を示しただけの話でもあった。
店を出た二人は少し強い冷たい風を感じる。その風は何の愛想もないまま二人の心を吹き抜け天に還る。そしてまた違う風が吹きかけて来る。
人の気持ちは読めても風の向かう先までは読めない二人であった。
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