人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

三島由紀夫『鹿鳴館』を読み終えて

 

  

  清原久雄も柏木和男も死なせずに済んだ筈、生きていて欲しかった。と一々ツッコミを入れてしまう癖がある自分は所詮、狭量で天邪鬼で物語を読む資格など無いのでしょうか。或いは自分で言うのも烏滸がましいですが感情移入し過ぎなのか・・・・・・。

 三島由紀夫鹿鳴館』のレビューです。

 

鹿鳴館とは 

 明治19年1886年)の天長節鹿鳴館で催された大夜会を舞台として、恋と政治の渦の中に乱舞する四人の男女の悲劇の運命を描き、著者自ら〈私がはじめて書いた俳優芸術のための作品〉と呼んだ表題作。他に、人間の情念と意志のギャップを描く嫉妬劇「只ほど高いものはない」、現代における幸福の不毛性への痛烈な挑戦「夜の向日葵」、六世中村歌右衛門のために書かれた「朝の躑躅」の4作から成る戯曲集。

 

それぞれのあらすじと感想 ~鹿鳴館  

 明治19年天長節鹿鳴館で催された大夜会を舞台に、政治と恋、陰謀と愛憎の渦の中で翻弄される男女・親子の悲劇をドラマチックに描いた物語。 修辞に富んだ詩的で高揚感のある台詞まわしと緻密な構成で、華やかな様式美の大芝居。

 

<感想> 


 影山伯爵夫人朝子と清原久雄が不憫で仕方ないというのが率直な感想ですね。娘顕子とその恋人久雄を救いたいという大徳寺侯爵夫人季子の切実な願いを引き受けた朝子の覚悟には凄まじい気迫が感じられます。

 ですがその覚悟も空しく計画は蹉跌してしまいます。その策を見事に看破した夫の影山伯爵も朝子に対し色々と自分の想いを訴えていますが、何度読み返してもそれは見苦しい弁解にしか見えないんですよね。

 影山はしきりに「政治には真理というものはない」と謳っていますが彼自身に真理がにように見えて仕方ないですね。いくら朝子に対して熱弁しても彼の純粋な心は窺えません。影山こそが真の黒幕で自分はこういうタイプの人間は大嫌いですね。いくら政治家であっても共感する所が全くありません。三島さんはこの影山という人間をどう思っていたのでしょうか。

 そして本の裏表紙にある『僕が今夜暗殺しようとしているのは、僕の父なんです』という過激な文言には愕かされますが、それは言うまでもなく現代社会で在りがちな単なる親不孝や思春期の子供の親に対する反抗などといった底の浅い感情から来るものでは無いんですよね。

 あくまでも己が志を全うする上でどうしても避けては通れない道。止むを得ず犯行に及ぼうとした彼の覚悟には凛とした魂を感じます。

 今とは時代背景も全然違いますがこういう硬派で頑なな心情は本当に好きです。

 

~只ほど高いものはない 

 無給で我が家の女中にした女が夫の過去の浮気相手で、妻は嫉妬心から復讐の為に色々と画策するのだが如何せん浮気相手の方が1枚上手。下手に出るように見せかけながらも実は何もかも見透かしていたこの女中の真意は何処に・・・・・・。

 

<感想> 


  はっきり言ってこの物語には余り思い入れはないのですが、この妻といい娘といい何か浅はかな思慮を感じますね。妻の露骨な嫉妬心の強さに対し、娘は親に抗うように常に上から目線的な物言いで自分の素直な気持ちを隠そうとしているのが見え見えで無理を感じます。

 それに対し良人(おっと)の冷静さや女中ひでの周到さは見事に見えます。ですがそれは意図したものではなくその豊かな人生経験の成せる業で狡猾さを感じません。この女中ひでは或る意味才女と呼べると思います。

  はっきり言って自分はこの妻と娘のような女は嫌いですが、その嫉妬心が純粋な気持ちの表れだとすると、多少なりとも策を弄した女中に同調してしまう自分の心にも矛盾が生じてしまうんですよね。

 改めて三島由紀夫の人間の心理描写の巧みさ、奥深さを痛感する所です。

 

~夜の向日葵 

 鷹揚で無邪気で華やかな、実に明るい性格の柏木君子は幼い頃から人並みの気苦労を感じた事が無いに等しい。そんな君子を取り巻く者達は何時も君子に憧れを抱き、時としてそれが嫉妬に変わる事もある。

 最愛の夫と息子まで喪ってしまった君子の心境は如何に・・・・・・。

 

<感想> 


  この物語は鹿鳴館の次に、いや同等に面白かったです。天真爛漫、天衣無縫とは正に君子さんみたいな人の事を言うのでしょう。幼少の頃から何不自由なく生きて来たボン(神戸弁でボンボンの意味)育ちな君子には自分も憧れますし羨ましい限りです。ですがその理由はあくまでも精神的な事で裕福な家庭環境などには余り関心はありません。

 そんな君子も流石に我が息子の死には悲しみのどん底に堕とされてしまいます。それでも彼女はあくまでも前向きに立ち回り悪評高い男と一緒に成ろうとさえします。

 親友の花子との訣別は花子の君子に対する嫉妬から来るものだと思いますが、その気持ちも十分分かります。でもやはり君子の生き方は好きですね。

 この花子とて裕福な育ちな訳ですが心の民度とでも言いますか、そのモラルや精神は明らかに、遙かに君子の方が素晴らしいと思いますし魅力を感じます。

 勿論花子も君子の事が好きだったればこその所業であったとも思いますが、花子から散々悪評を訊かされながらも園井院長と夫婦に成ろうとした君子の真意は計りかねますが、それでも尚人の悪口はなるべく言わない君子の性格には感服します。

 根拠もなく「何事も思うようになる」と言った彼女の言い振りには信憑性まで感じますね。こんな人が存在するのでしょうか。

 

 ~朝の躑躅(つつじ)

  銀行が倒産した事に依って財産を失う危機に瀕しながらも最後まで女の操を守り抜こうとした高貴な女性、草門子爵夫人綾子の矜持とは。

 

<感想>


 三島作品に度々出て来る華族。「およしなさい」とか「汚らわしい」とか「あそばせ」などと言った高貴な物言いは時代を超えて美しいと思いますね。それこそ自分のような底辺民が言うのもおかしいですけど、日本の古き良き時代を彷彿させてくれます。

そんな中でいくら人生が破綻してしまうような情景になってもその気高い気品を失う事を怖れた、というよりは己が意志を貫こうとした綾子の心情はただ華族という身分だけから発するものではなく、人としての矜持から来るものだと思います。

 結局はその操を守り切れなかった訳ですが、決して小寺のような男に屈した訳でもなただお家の為、夫の為にした行為。そんな綾子の想いを裏切るかのように悲しい遺言まで残して自害してしまった夫ですが、彼女は夫を憎む事なく己が信条を貫きました。

 約束に反し金を貰う事を放棄した時点で操を手放した事にはならないし、彼女は最後まで自分には負けていないと思います。この綾子も朝子、君子と同じく不変の精神を持っていたように思われますね。

 

 

 以上それぞれの感想を綴って来ましたが、三島作品に共通するものはやはり人の信念、信条、矜持と自分には思えます。言うまでもない事ですがその心理描写が本当に精巧で尊敬しますが、作家に憧れる自分としては嫉妬する面もあります(笑)

 決して己惚れる訳ではありませんが三島以外の作家にそこまでの想いを寄せた事はありません。とはいえ三島の作品にそこまでの烈しい抑揚も感じないのは自分だけでしょうか。でもそれをカバー出来る技術が十二分にあるからこそ無し得る彼の非凡な才能には本を読む度に惹かれます。

 純文学の素晴らしさ、奥深さ、難しさを痛感する所です。

 

 という事でまたまた凡人の浅はかなレビューでしたが、三島文学を読破するまでにはまだまだ時間が掛かりますね。

 これからもめげずに読書に勤しもうと思います 😉