人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

早熟の翳  二十一話

 辞意を伝えた誠也を林田先生は大して引き留めるような事もせずただ一言

「何時でも戻って来てくれても結構だから」

 と優しい声を掛けてくれた。奥方まで笑って見送ってくれる。その光景はまるで親が我が子の自立する姿を見ているような誇らしげな感じさえ漂わす。

 そんな様子に感涙する誠也ではあったが、立つ鳥跡を濁さず、自分のデスクや身辺のものは何一つ残さず綺麗に掃除をし片付ける。僅か10ヶ月足らずで事務所を辞める事になった自分の勝手な振る舞いを大いに恥じ、世話になった二人には深々と礼をして立ち去る。しかし誠也にはまだ一抹の不安が残っていたのも事実であった。

 事後報告を訊いた母は狂ったように悲しみの声を上げ、姉と一緒になって誠也を叱る。誠也も何度も母に頭を下げ詫びを入れる。

「母さん、ほんとにすまない、でも俺は自分の事は自分で決めたいんだ、これからも親不孝は絶体にしない、取り合えずここを出て行くよ」

 と言って母の制止も訊かずに家を出てアパートで独り暮らしを始める。この時点で親不孝であった事には許しを請う想いで、敢えて母の顔を見ずに出て行く誠也の心境は複雑なものであった。

 誠也の荷物といえば鞄一つで実にシンプル極まりない。後のものは追々揃えれば良いという彼らしい発想には無頼ささえ感じる。しかし誠也の人生とは元々そうしたもので、今回の久さんに頼った件を除けばその悉くは彼自身の強靭な精神が成せる業でもあったのだ。

 だが夜8時頃にアパートの部屋に入った誠也には空虚な心持が込み上げて来る。周りには誰もいないその狭い部屋で聞こえる音といえば住民が立てる生活音だけであった。

 

 1年で一番寒さが厳しい2月は正月以外には余り関心がない誠也にとっては実に退屈な時期で、厚着で家路を急ぐ人々の姿には何の風情も感じない。ただ快活に啼く鳥の声だけが誠也の心を充たしてくれる。そんな中誠也は満を持して久さんの組事務所に向かうのであった。

 少し街はずれにあるその事務所は小さいながらも一軒家で、表には安藤組と書かれた黒額に白字の表札が掲げられている。玄関の外でシケ張りをしていた男は前に見た運転手で、互いに一礼した後彼は誠也を中へ案内してくれる。通された部屋には久さんが厳然とした態度で誠也の訪問を待ち構えていた。

「おはよう御座います、この度の久さんのお心遣いには本当に感謝しています、まだまだ未熟で駆け出しの青二才ではありますがどうぞ宜しくお願い致します」

 そんな誠也の姿をじっと見ていた久さんは固くなるなと言わんばかりに腰掛けるよう促してくれる。そして早速二人はその場にて四分六の兄弟盃を交わしたのである。

 誠也は言う。

「久さん、今の自分にその盃は大き過ぎます、自分は子分の立場で十分です」

「何言ってんだお前、この前弟分でいいかって話をしたばかりじゃねーか、それにこの盃はあくまでも俺とお前の心の盃だ、だからお前は正式なヤクザの構成員では無いんだよ、それだけは分かってくれ」

 久さんのこの言葉は誠也には嬉しい限りであった。だが一旦極道の道に足を踏み入れた以上、下手な事は出来ない、誠也は久さんに一生付いて行く腹を括ったのだった。

 改めて自己紹介をした誠也に組員達は揃って

「先生」

 という呼称で接して来る。誠也はこの呼ばれ方にいまいち気が乗らずに

「誠也でいいです」

 と言うのだが久さんの命令には誰も逆らう事が出来ず、結局はその呼び方を強いられる事になる。組員の年齢は誠也から少し上か、彼等は誠也に対しあくまでも敬語で接するのであった。

 当面の間訴訟などは一切なく、誠也は組のシノギや生活ぶりを観察しながら経理の事務を遂行しつつも、久さんからは専ら自由に行動する事を許されていた。安藤組のシノギは昔ながらの博打と金貸しが主であったが、誠也はその一部始終を見た上で久さんに提言する。

 それは金利が少し高いというものであった。久さんは眉を顰めながら誠也の提言を訊いていたのだが、今の時世確かに高い金利を取っていたのも確かな話で何時摘発されてもおかしくはないという考え方から久さんは已む無く金利を引き下げる事に同意する。それでもまだ年利8割という利率はヤクザにしては安いかもしれないが一般社会からは高い事は言うまでもない。誠也の思惑は摘発を怖れるものでは無く、そのお人好しな性格がさせた事は久さんにも感じられたのかもしれない。だがそうと知っておきながらその提案を受け入れた久さんの度量の深さにも感銘を受ける誠也であった。

 ヤクザとしては余りに静かな日常が続く。このまま何も起きずに職務に専念するだけでも誠也は十分稼げる。だが修羅の人生を送って来た彼の血は嵐の前の静けさを感じずにはいられない。その未知数である先々の事を警戒しながら時は過ぎて行った。

 或る日みんなで飲みに行った席で一人の若い衆が酔いが回った所為かこんな事を口走った。

「親分、もうそろそろ仁竜会を潰しませんか? あの組はもう風前の灯ですしボンクラ息子も未だに部屋住みで跡目が定まってないらしいじゃないですか、他に持っていかれる前に動いてはどうですか?」

 久さんは黙ったまま酒を飲み続け一切返事をしないままにその組員を軽く殴った。すると今まで何も言わなかった誠也が口を開く。

「久さん、自分の事ならお構いなく、あいつがどうなろとも自分は干渉するものではありません」

「お前も黙ってろ」

 久さんの心境は明らかに揺れていた。仁竜会というその組織は誠也の義兄弟である清政の親っさんの組なのだが、この時の誠也の気持ちは決して兄弟分を貶めるような浅はかなものではなく、亦以前の件に依る感情的なものでも無かった。

 あくまでも久さんに対する儀礼から発したその心情は汚れた思惑でもなく、出しゃばった物言いとはいえその様子には何か威厳を感じない事もない。

 この誠也の意図するものとは一体何なのだろうか、軽率でないとすれば清政に対する優しさの裏返しでもあるのか、それともその後ろに控える健太への気遣いなのか。そう言えば確かに健太の事も気にかかる。

 言い出しっぺの組員はその後一切声を出す事もなかったが、彼などにこの二人の心境が図れる訳もない。他の組員とて同じ事で彼等はただ大人しく、行儀良く酒をちびちび飲んでいるだけであった。

 

 それからも大した事件は起きずに誠也は単調な仕事を熟して行く日々が続く。ヤクザの構成員でもない誠也であったが、どうしても清政、健太の事は気に成って仕方がない。その衝動は誠也の気持ちとは裏腹に勝手に動き出す。だが彼の烈しい感情を止めたのは久しぶりに会ったまり子であった。

 春の陽射しが燦然と照る中、彼女は柔らかい風と共に姿を現した。その佇まいは久しく会っていなかった誠也の目にはまるで妖精のように漂う。何故彼女はこんな時に限って現れたのか、今までも同じだった。彼女は常に誠也が少しでも落ち込んだ時に必ず姿を見せてくれる。

 まるで母親のようなその包容力は誠也の鬱蒼とした心情までをも包み込み快楽の境地へと誘(いざな)う。彼女は天女なのか女神なのか、まり子の前では何事も包み隠さず白状したしまう誠也も所詮は一人の男であったに相違ない。

 だがこの時の誠也は決して己が悩みなどは謳わず、凛とした面持ちでまり子に対峙するのであった。

 春の柔らかい風は相変わらず二人を優しく包んでくれる。二人はこの風に報いる事が出来るのだろうか。桜の葉音に小鳥や虫の鳴き声は笑っているようにも思える。

 

 

 

 

 

 こちらも応援宜しくお願い致します^^

 

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村