人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

まほろばの月  二十章

 波子に内々に調べさせていた目黒と山友会との間柄は実に醜く腐れ切ったものだった。山友会は目黒に対し多額の賄賂を贈っていた。それは当然目黒の選挙資金にもなるし、小遣いにもなる。その上、右翼団体などを使い敵対する候補者の選挙妨害や、己が身辺警護までさせていた。

 見返りは山友会が少々の事件を起こしても穏便に済ませるよう手を回したりして彼等の活動がし易くなるよう便宜を図る、という持ちつ持たれつの関係が形成されていた。

 朱に染まれば赤くなる。確かに政治家とヤクザが裏で繋がっている事は決して珍しい訳でもないが、阿弥は世の中はこうも醜いものかと呆れ返っていた。となればヤミ金で儲けた分もかなりの額になるだろう。真っ当な企業からの献金ならまだしも弱者から掠め取った金が政治家に渡っている事は看過し難い。それが阿弥の義理である父親なら尚更である。

 阿弥の本懐とは正にこの事だった。薄々は感じていた事と、真の敵を成敗する事が合致したこの事象こそが阿弥がその身を賭しても成し遂げなければならない至上命題で、彼女自身に課せられた宿命(さだめ)だったのだ。

 波子は謙虚な面持ちで訊いて来た。

「親分、どうします? やりますか?」

 阿弥は少し間を置いてから答えた。

「おう、やるにはやるが、まだ早いかな、あたいは単に私怨だけであいつを襲う訳ではない、あくまでも奴等の薄汚い悪事を暴きケジメを付けさせる事が目的だ、そこまでするにはもっと裏を固める必要がある」

「確かに、清吾もそう言っていました、まだ詰めが甘いと」

「そうか、あいつも今では頭(かしら)だからな、言う事も変わって来たって事か」

 阿弥はそう言って軽く笑みを浮かべる。しかし警察や検察でもなかなか掴む事が出来ない政治家の裏の顔をどうやって暴けばいいのか、今までのようにただ襲うだけでは何の解決にもならないし、それだけでは阿弥の気も晴れない。何もかもを一気に成功させる奇策が必要だった。逆に言えば一つでも失敗すれば全てが御破算になってしまう。阿弥には一世一代の大英断が求められていた。

 

 椎名の財産を根こそぎ奪い、友仁会とヤミ金業者に大ダメージを与えた一家はまた新たに隠れ家を移していた。人里離れた山の麓にあるこの隠れ家の周りには人家も殆ど無く、虫の鳴く声や鳥の囀り、風の音に滝の流れる音までが聴こえる風流な漂いは一行の心を癒やしてくれる。子分の一人竜太はそんな景色に大喜びして、毎日呑気に絵を描いていた。

「へ~、山の絵か、巧いもんだな」

「あ、親分、大した事ないですよ、人様に見せられるような代物ではありません」

 阿弥は竜太の謙遜する態度が気に入ってこう命じるのだった。

「その山の上に月を描いてくれねーか、それも立派な、とびきり綺麗な月、まほろばの月をな」

 竜太は阿弥の顔に振り向き、少し愕いていた。

まほろばの月ですか、いい言葉ですね」

「そうだ、いい言葉だよ、だが単に綺麗なだけではダメだ、何か芸がなけりゃ物足りない、美しい中にも哀愁を込めたような感じかな」

「難しいですね~」

「ま、あまり深く考えずにお前の正直な感性で描いてくれや」

「へい」

 阿弥はその後も一人で散歩を楽しみ、滝の方へと足を進めた。

 

 

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 この前見た梅は既に枯れ果て、山には桃の花が芽を出そうと可愛らしく佇んでいる。梅、桃、桜、この春の到来を思わせる三種の花は名は違えど人の眼には同じような色を映し出している。松竹梅では梅は一番下に見られているが、この三種の花木はどうであろう、咲き出すのが一番早い梅は当然枯れるのも一番早い。だがその姿は実に美しくあくまでも謙虚に見える。やはり阿弥は梅が好きであった。

 そして次に咲く桃、桃の節句とはいうが阿弥は生まれてこの方雛祭りなるものを経験した事が無い。女の子を祝う桃の節句、阿弥は一足早く一人で雛祭りに興じるかのように桃の木の下に立ち、その恩恵を受けるが如く木を仰ぎ見た。

 するとまだ微かだが甘美な香りが柔らかく阿弥を包んでくれる。阿弥はその香りを思う存分味わった。そしてこう思った。桃も悪くはないな、一事に囚われず物事を大らかに、総体的に見る事も必要だなと。

 そうして滝に近づいた。小規模ながらも勇ましく流れる滝水は真っすぐ下に流れ落ち、川水として下流に進んで行く。この美しき流れの源とは何なのだろう。雨水が地上に降り注ぎ滝や川に合流し岩に反響し、その身を尚一層清浄化させて万物の生命の源を形成してくれる。そして蒸気となった物質は天に還りまた地上を潤わせてくれる。

 これこそが自然の理(ことわり)なのだが、殊人間の行いを鑑みた場合、人はこの自然に報いる事が出来ているのだろうか。恰もこの清水を当たり前のように飲み干す、当たり前のように使う様は決して自然の有難さに感謝しているとは思えない。寧ろ無駄遣いにも思える人間の行いは自然に対する反逆ではないのか、自然の恵みを軽視する人間とは実に愚かで短絡的で滑稽にも見える。その上いくら金を積んでも自然の力だけは絶体に手に入れる事は出来ない事を知りながらも自然を蔑ろにする人間の愚行は天に弓を引くも同然の行為だ。

 阿弥は己が稼業としている盗賊という立場を省みず、ただ純粋に心に想うのであった。

 

 阿弥が想い耽っている内に一人の僧侶らしき男が滝行に赴いていた。この寒空の中、滝に打たれる彼の姿には温厚篤実な外見とは裏腹に、勇ましく燃え盛るような内心が焔(ほのお)のように映し出されている。阿弥はその光景を位置までも眺めていた。男はお経まで唱えている。 

「金剛手菩薩摩訶薩( きんこうしゅほさんばかさ)

 觀自在菩薩摩訶薩(くぁんしさいほさんばかさ)

 虚空藏菩薩摩訶薩( きょこうそうほさんばかさ)

 金剛拳菩薩摩訶薩( こんこうけんほさんばかさ)

 文殊師利菩薩摩訶薩( ぶんじゅしりほさんばかさ)

 纔發心轉法輪菩薩摩訶薩( さいはっしんてんぼうりんほさんばかさ)

 虚空庫菩薩摩訶薩(  きょこうこほさんばかさ)

 摧一切魔菩薩摩訶薩 (さいいっせいまほさんばかさ)」

 僧侶の声量は素晴らしく大きい。この理趣経が訴えているものとは一体何なのか、男は経を必死に唱え続けている。阿弥は滝行を最後まで見届けて男に近づいて行った。

 そしてこう訊くのであった。

「お疲れ様です、見事な滝行でした、ところで貴僧は何故こんな修行をしてるのですか?」

 男は微笑を称えなが応えた。

「ご拝見頂き有り難う御座います、他意はありません、ただ無心になって打たれていただけです、邪念が入っては修行になりません、では」

 と言って男は阿弥に手を合わせて立ち去って行った。

 あの表情、あの態度、あの心持、あの全身から漂う崇高な様子全ては確かに無心の裡にしか表現出来ない業(わざ)であろう。彼が身を持って示してくれたこの滝行は阿弥の心をどう動かすのであろうか。

 阿弥は今日一日で得難い経験をしたような気がしていたのだった。

 

 

 

 

 

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