約定の蜃気楼 三話
相変わらず朗らかな瞳ではあったが湖を後にする時、何やら意味深な事を告げるのだった。
「あ、それとね、この湖は底なし沼なの、通称地獄の沼って言われてるわ、でも底まで辿り着く事が出来たら元の世界に帰れるという言い伝えもあるの、それが出来た人は今まで一人もいないけどね」
真人は冗談半分で訊いていたが、これまでの経緯からも満更嘘ではないような気もする。それを敢えて教えてくれたという事は、俺の勇気を試してでもいるのだろうか。真人は帰りたいやら帰りたくないやら迷っていたが、正直な気持ちとしてはもう少しでもこの女性と一緒に居たいという思いが勝っていたのは自明の事実であった。
次に湖から微かに見えていた神社に着いた。高さが2丈ほどある立派な鳥居を潜り参道を進んで行くとこれまた立派な境内があり、そこには樹齢何千年にも及ぶであろう大きな松、楠、榊が威風堂々と屹立している。
真人はまだ少し朝露を含んだ榊に手を当ててみた。冷ややかな木肌からは崇高で高潔な漂いを感じるが、それでいて人間を優しく包んでくれるような大らかさは正に植物の神秘、自然の神秘の力か。この木の前に立っているだけで何か心が安らいで来る。真人は言葉を失いここから立ち去り難い心境に陥っていた。
「何時まで瞑想してんのよ、行くわよ!」
瞳は笑いながらも少し不愛想な物言いをして来た。その先には社が厳かに聳えていた。しかし普通の神社とは何かが違う、賽銭箱が無い。真人はそれを訝りながらも瞳と二人で鈴緒を振り、手を合わせてお参りをした。その後真人は正直に訊いてみた。
「何で賽銭箱が無いの?」
瞳は少し溜め息をついてからこう答える。
「貴方、何も分かってないのね、賽銭箱なんていらないのよ、神様に対してお金なんかを捧げる事自体が不謹慎なのよ、願掛けもしたらダメよ、そう思わない? それとこの町にはお金自体が存在しないのよ、今まで気付かなかった? 鈍感ね~」
またまたおかしな事を口にする瞳であった。金が無いのならこの町の人々は一体どうやって暮らしを立てているというのだ。この高貴な神社の建築費用は、今朝自分が頂いた朝食は一体何処から仕入れて来たのだ。怪訝そうな表情を泛べる真人に再度意味ありげな言葉を投げ掛ける瞳。
「昨日虎さんから言われたと思うけど、この町では二つの戒律があるの」
「戒律?」
「そうよ、禁止されてる事よ、一つは常に正直でなければならない事、もう一つは猜疑心を抱いてはいけないって事よ」
「でもその猜疑心も正直な気持ちから来るものだろ?」
「そこが浅はかなのよ、人を疑う事は卑しい気持ちから来る思考なのよ、それは罪に値する事なの、だから何時も綺麗な心でいなければいけないって話なのよ、分かった?」
真人はまだ何か引っかかるものがあったが、取り合えずは瞳の言に従った。
「分かったよ」
「それでいいの」
それにしても色々と面倒くさそうな町に足を踏み入れたものだ。俺は何故こんな所へ来てしまったのだろう、夢でも観ているのか、随分長い夢だ。だがこうなってしまったからには仕方ない、行く所まで行ってやろうではないか。真人は一時この町で生活し、この町の本性を暴いてやろうと心に秘めるのであった。
「今のが無人の社ね、じゃあ次」
あれだけの立派な社が無人とは。ま~いい。神社を発ってから数分が過ぎた頃からまたしても真人は奇妙な事象に心を奪われるのだった。
この町に辿り着いてからというもの、湖にしても瞳の家にしてもさっきの神社にしても、その悉くは明らかに日本の町の風景であった。それがこの辺りからは普段見慣れない木や花、石やレンガ造りのモダンな建物にモダンな道。それはまるでヨーロッパの街並みを思わせるような佇まいである。
和洋折衷とはいうがこれは明らかにぎこちない雰囲気だ。だがさっきの忠告を重視した真人は何も訊かずにただ歩き続けるのだった。
「ここよ、ここが天国に一番近いとされているデメテル修道院よ」
「天国に一番近い!?」
「そうよ、貴方は今日からここで下働きをするのよ」
「何だって!?」
「何も愕く事ないじゃない、ここでは農耕や酪農は行われてるのよ、貴方はここで仕事をして生計を立てるの、心配しなくても私も時々様子を見に来るし、貴方の好きなシスターも大勢居るわ、じゃあね!」
瞳はそう言っ去ってしまった。何故俺がこんな所で働かなくてはいけないんだ、いくら成るようにしか成らないとはいえ、これでは何もかも全て彼女の言いなりではないか。真人はいい加減嫌になって帰ろうとした。
その時彼の背後から何やら厳粛な声が聴こえて来た。
「お待ちなさい、ここへ来た者は全て目に見えない縁で結ばれております、何人たりともそこからの逃れる事は出来ないのです」
尤もらしい話ではあるがこんな事には付き合っていられない。真人は再び前を向き帰ろうとする。しかし今度は足が動かない、それどころか身体は修道院の方へ向き直り後ろには振り向けない。無理に振り向こうとすると凄まじい痛みに襲われる。真人の身体は自分の意志とは正反対に修道院に進んで行くばかりだった。
真人はこの女性に、いや天に、神に誘(いざな)われるようにして修道院の中に入った。そこには外壁と同じく真っ白い壁に高い天井、埃一つ落ちていないであろう綺麗な床は歩く事さえ憚られるような高貴な漂いがあった。
廊下を擦れ違うシスター達はあくまでも慎ましく、控えめながらも堂々とした佇まいで真人の前で立ち止まり挨拶をしてくれる。
「こんにちわ」
真人も思わず挨拶を返した。
「こんにちわ」
そうして女性に依って書斎へ案内された真人はそこで腰を下ろし、一旦気を落ち着かせてから改めて司祭と対峙した。神社の御神木と同じだ。この年配の女性からは威厳に充ちた風格を感じるが、その反面全てを包み込むような優しい眼差しは人々の心を見透かし癒やしてくれるようだ。さっきまでは必死に抗っていた真人だったが、この人の前に坐り目を見つめていると力が抜けて来るのが分かる。まるで何か呪文を掛けられたような感じさえする。真人はまた言葉を失いただ呆然として彼女の前に居座っていた。すると彼女は静々と語り掛けて来る。
「初めまして、私はこの修道院の司祭を勤めますルーナと申します、貴方、真人様の事は瞳様から伺っております、どうぞご心配なくここで生活して下さいまし」
この司祭は日本人なのか、名前といい気品溢れる容姿といい何処から見ても外国風のこの女性からは、言い方は悪いが日本人特有のしみったれたのものを一切感じない。それは虎泰さんにしても瞳にしてもそうだった。その割には言語はあくまでも日本語である。それは真人にしても安堵するに十分ではあったが、一体ここでどういう生活をしろと言うのだ。心配するなという方が無理ではないのか。だがこの司祭と相対しているとそんな不安は自然と消え去って行くのだった。
司祭は大した話もしないまま真人を連れて裏手から外へ出た。そこには目を覆うような、実に晴れやかな光景が拡がっているのだった。
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