人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

約定の蜃気楼  四話

 

 

 晴れ渡った蒼い空一面には無数のひつじ雲がまるで天かける星々のように果てしなく連なっており、その下には見渡す限りの緑の広野が拡がっていて、遙か彼方には微かに海までが見える。

 草を食べながら悠々と歩く牛の姿や、香ばしい土の匂い、風に優しく揺らめく樹々(きぎ)、実り豊かな農作物の数々。この目を覆い尽くさんばかりの和やかで素晴らしい光景は、真人の少し沈んでいた心を一掃してくれた。

 瞳に連れて来られた時、こんな風景は全く目に入らなかった。またしてもこの町特有の不思議な術にでも掛かってしまったのだろうか。しかし眼前に映るこの素晴らしい光景に感銘を受けた真人は己が狭量を恥じる。そして彼にここで生きて行く事を決心をさせるのであった。

 それは理屈では証明出来ない自然の無限が人の有限を包み込み、共鳴し、厳しくも大らかに教え諭す偉大なる業(わざ)に他ならない。真人は思わず昂揚し、司祭にその喜びを告げるのだった。

「有り難う御座います、こんな素晴らしい所があったとは夢にも思いませんでした、自分はここで生きて行きたいと思います、どうぞ宜しくお願い致します」

 司祭はそんな素直な真人に対し優しく微笑み語り掛ける。

「ようやく分かったようですね、貴方は今真に自分に正直になったのです、それは人が誰から教わった訳でもなく、持って生まれた素直で純粋無垢な気高い感性なのです、その感性を持ち続けている限り貴方はこの先、生涯を倖せに暮らす事が出来ます、ですが勿論その逆も然りです、もし自分を欺くような事をすれば、分かりますね、貴方は来るべくしてここに導かれて来たのです、その事だけはお忘れなきよう」

 そう言って司祭は立ち去り修道院の中へ戻って行った。そして入れ替わりに一人のシスターが真人の前に現れる。彼女は司祭と動揺に気品溢れる佇まいで真人に笑顔を投げ掛けて来るのであった。

 

「初めまして、私はシスターのレーテです、司祭から真人様を案内し、これからの事をお世話するよう言い付かって参りました、お気軽に接して下さいまし」 

 年の頃は真人より少し上だろうか、そのあくまでも優しい、包容力のある雰囲気は誰かさん(瞳)とは大違いだった。しかしその切れ長で鋭い眼差しには、何処となくこの町の人に共通する不思議な魔力を感じる。真人は正直に訊いてみた。

「貴女にも何か特別な力が備わっているのですか?」

 レーテは少し愕いたような表情をしたが、それでも笑顔を絶やす事なく答えてくれた。

「あら嫌だ、そんな力なんて持っていません事よ、私だけじゃありません、この町の住民は皆普通の人間でございますわ、それを訝る貴女の方がおかしいと思いますわ」

 確かにそうかもしれないが、レーテは初めて我を出して来たようにも思われた。何か癪に障ったのだろうか。真人には分からなかった。だがもしそうであれば謝りたいぐらいでもあった。そんな葛藤こそが彼を今まで苦しめて来た原因であったようにも思える。人の心とは実に複雑なものだ。言葉や態度を繕い過ぎても怪しまれる。かといって馬鹿正直に思いの丈を謳った所で相手を不快にさせてしまう事も往々にしてある事だ。その狭間で器用に立ち回れる者などどれほど居るのだろうか、もし居るとすればその人は機械のような生き物で本当に心が通っているのかさえ分かったものじゃない気もする。とすれば尚更人間は正直に生きて行くしか道は無いとも言える。

 真人はそんな人間の性に翻弄されながらも司祭が言ったように正直に生きて行く事が倖せを招くという思想信条に懸けてみる事にした。

 レーテは真人のそんな想いも他所にしてこの牧場と農園の案内と仕事の段取り、そして修道院での生活の仕来り等を丁寧に教えてくれるのだった。

 

 その頃瞳は真人と別れてから例の湖に腰を下ろし物思いに耽っていた。これはこの町の住民には珍しい光景ではあったが、彼女にはそれ相応の悩む理由があったのだった。

『あいつ、ちゃんとやってるだろうな、なにせあのシスターを怒らせては只事じゃ済まないからなぁ~、それにしてもあいつは今まで見た事の無い正直な男だな、あいつだけは是が非でも良くしてやりたいんだが、どうしたものかな~』 

 この少し意味深な想いはどう捉えれば良いのだろうか。この瞳の言を真に受けたならば真人には些かの過ちすら許されず、もし過ちを犯したならその場にて裁きが下りるようにも思える。そんな寸分違わぬ行動を執る事など出来よう筈もない。やはり真人は試されているのだろうか、その所作と心の赴きを。

 

 いつの間にか夕方になっていた。牧場や農園を一通り見聞した真人はレーテに誘(いざな)われて修道院の厨房で夕食の準備の手ほどきを教授されていた。

 厨房には立派な食器や什器が揃っており、包丁といいフライパンといい鍋といい巨大な冷蔵庫といい、その悉くは見るからに高価な物に相違ないであろう。

 レーテは農園から運んで来た食材をまな板の上で綺麗に切り、鍋に入れて炒め出した。その刹那、真人の目には実に面妖な光景が映し出され戦慄を覚える。

 火が勝手に着いたのだった。場を見るにコンロはある、五徳もある、調整のつまみもある、しかし彼女はそのつまみに一切手を触れてはいない。それで何故勝手に火が着いたのだ、訳が分からない。真人は猜疑心を捨て去るという戒律を破って正直にレーテに訊いてしまった。

「何故勝手に火が着いたの!? 貴女は何者なの!?」

 レーテは尚もしらを切り平静を装ったまま答える。

「また変な事を言い出すのね、貴方一体何処を見ていたの? 私は普通に火を付けただけよ、何が言いたいのよ!」

 この言動は明らかにおかしい。さっきと同じでレーテは十分動揺している。真人は思わず彼女の手を取り真相を確かめようとした。

「何するのよ! 司祭を呼ぶわよ! 貴方こんな事して只では済まないわよ!」

 レーテの手に不審な所は無かった。だがこの慌てようはどうだ、まるで真人に強姦されたような雰囲気さえ漂わせているではないか、何故そこまで怒るのだろう。

 しかし証拠が何一つ無いこの状況ではこれ以上の詮索は自分にも不利を招くばかりだ。真人は取り合えず謝った。

「すいませんでした」

 レーテはまだ怒りが収まらぬ様子ではあったが、真人のしおらしい態度に共感したのか怒りを鎮めて朗らかな笑顔を浮かべてから口を切った。

「申し訳ございません、私もどうかしていたみたいですわ、さ、この料理をテーブルに運んで下さいまし」

 そう言われた真人は彼女に素直に従い、料理をテーブルに運び出した。

 だがこの不可解極まりない事象をどう処理すれば良いというのだ。これ以上抗った所で何の解決にもならない。とはいえこのまま指を咥えているのも意に添わない。

 この奇々怪々な現象はとてもじゃないが真人一人の胸の内に秘めている事は出来なかったのだった。

 

 

 

 

 

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