人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

約定の蜃気楼  十九話

 

 

 身体が重い。まるで鉛でも付けられたように重く感じる。湖の奥深くまで沈められた真人の身体はもはや自力では浮かび上がる事は出来ないだろう。こうなれば反省もクソもない。観念した真人は何も抗わず何も考えずに、ただ死を待つ。

 すると何も考えていなかった筈の真人の心に直接触れて来る者が現れた。その者はこう語り掛けて来る。

「真人さん、まだこちらに来る時では無いですよ、ほら、この子も貴方と会ってからこんなに元気になってくれて、これも全て貴方のお陰なのです、ありがとうね」

 誰だ。子供という事は畜生道で会った象の親子なのか。確かにあの子供の象は最後に振り返って明るく笑っていた。今も元気にしているのだろうか。真人が想いを巡らしている内に次から次に誰かが現れる。

「真人よ、そんな弱気でどうするんじゃ、貴公のお陰でわし達は和睦し不毛な戦を辞める事が出来たんじゃ、その貴公に死なれてはわし達の面目も丸潰れじゃ、分かったな」

 これは修羅道の総大将なのか。この言にも一理はある。

「真人、お前みたいな者がこちらに来た所で誰も食べようとは思わないぞ、この前の一件でみんなお前を怖れてるからな、はっきり言って迷惑だ、間違っても来るんじゃないぞ」

 これは餓鬼道のシュードラか。確かにあんな所へは二度と行きたくはない。

「真人、お前はまだ死んでいなかったからこそ地獄の責め苦に遭わずに済んだんじゃ、それに死が全ての終わりじゃない、重罪犯は死んだ後も未来永劫苦しみ抜かねばならんのじゃ、お前の場合は大した事はないが、自殺したとなれば話は変わって来る、清廉潔白な人間など一人もいないからな、絶体に来るんじゃないぞ」

 地獄道の鬼神か。もしその通りなら末恐ろしい話だ。だが一体どうすれば良いというのだ。何ら抗う術が無い今の状況ではどうする事も出来ない。真人の身体は以前として沈み続けて行く。

 彼等の出現に依って僅かながらも動じた真人は恐る恐る目を開けてみた。底なし沼とはいったものだった。かなり深くまで沈んだ筈なのにまだ底は見えない。だがこの澄み切った水の色はどうした事か。全く澱みを感じさせないこの湖の水は恰も神の領域であるようにも思える。それに息が出来ていない筈なのにまだ生きている事もおかしい。

 綺麗な水の色は途絶えそうにもない。真人は以前瞳に教わった底まで辿り着けば元の世界に戻る事が出来るという言い伝えを試してみようと思い、そのまま沈み続けた。

 するとまた別の者が語り掛けて来る。

「貴方はこのまま元の世界に戻りたいのですか? 誠の想いですか?」

 この声は湖に入る時に聴こえた声だ。この優しい女性のような声の持ち主は司祭ルーナだろうか。はっきりは分からない。だがこの言にも一理はあった。まだやり残した事は確かにある。このまま瞳と会う事なくここを去る訳には行かない。そういえばあれから瞳は何処へ行ったのだろうか。そうこうしている内に真人の心はここから出て行きたいという気持ちの方が勝って来る。それに追い打ちを掛けるようにまた新たな者が語り掛けて来た。この声も女性だった。

「真人、久しぶりね、私よ」

 真人は戦慄した。まさかこの声は.......。

「そうよ、私、智子よ、愕かないで訊いて欲しいの、今貴方は正に生死の狭間に居るのよ、そこで苦しみ藻掻いてるの、実は私もその町に行ったのよ、そして今は完全に成仏した訳だけど、六道とは衆生がその業の結果として輪廻転生する六つの世界、私はそこに死んでから誘われたの、でも貴方はまだ生きたままなの、それはどういう事か分かる? 貴方にはまだまだ生きて行く資格があるって事なのよ、それを試されているの、貴方はもう全ての道で合格したのよ、だからもう元の世界に戻っていいの」

 真人は泣きながら訊いていた。

「やっぱり智子だったのか、本当にごめん、俺がもっとしっかりしていればお前を死なせる事は無かったんだ、やはり俺は死ぬべきなんだ」

「もうその事はいいのよ、貴方は何も悪い事なんてしてないんだから、それよりも今の貴方が取るべき道の方が問題なのよ」

「問題って?」

「相変わらず鈍い人ね、瞳さんの事よ、貴方あの人が好きなんでしょ」

「それは......」

「いいのよ、私の事は、私も瞳さんが好きなの、だから貴方には瞳さんと一緒になって欲しいの」

「でもそれじゃお前の気持ちは......」

「だから私の事はいいんだって、私は貴方が正直に生きて行く事を望んでるの、それでも私の事が忘れられないというのなら、瞳さんを私の生まれ変わりと思って付き合って欲しいの、元妻が認めてるのよ、こんな有難い話はないわよ」

 真人は何と言って良いやらさっぱり分からない。だが身体はみるみる沈んで行く。遙か下方には何か一筋の光が見える。これは今まで全く見えなかったこの湖の底なのか。あそこに辿り着いてしまったらこのまま元の世界に戻ってしまうのか。もしそうであればこの町には二度と戻っては来れまい。焦燥感に駆られた真人は是が非でもここから抜け出したくなって来た。

「ああ、分かった、ほんとにありがとう、でもここからどうやって抜け出せばいいんだ? 今の俺には全く力が無いし、それに俺はまだ人間道では合格認定を貰ってないんだぞ!」

「その事は心配いらないわ、私が力を貸すから、それと人間道には合格も不合格も無いのよ、ただ経験するだけなのよ」

「そうだったのか!? 道理で合格者が一人もいない訳だ」

「そうなの、でも貴方と瞳さんの二人が同時に元の世界に戻れるという保証もないわ、それでも私はその僅かな可能性に懸けたいのよ、だからこうして現れたって訳なんだけど」

「そうか、分かった、もう時間が余り無い、とにかくここから出してくれ!」

「分かったわ、じゃあ行くよ!」

 智子の力に依って真人の身体は一気に軽くなり、凄まじい速さで湖の上方へと駆け昇って行く。何という速さだ、水の圧力を全く感じない。真人は一瞬にして水面まで昇り切った。智子にもこんな力があったのか。

 信じられない事だが今真人は確かに、深遠で摩訶不思議だった湖の中の世界から脱出する事が出来たのだ。真人は智子に感謝すると共に瞳を探し始める。彼女が何処に居るのかも分からないままに。

 

 

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 この頃、この町の或る場所で会議が行われていた。そこに列席するのは虎さんを始め司祭ルーナに四悪道の主達、計6名のこの町の長と呼ばれる者達であった。

 彼等が論議している事は当然真人と瞳、この二人の処遇についてであった。そこでは様々な議論が尽くされていたのだが、湖であったように真人を応援する者は多かった。しかし虎さんだけは異を唱える。

「お主らは甘過ぎるんじゃないかね、あの者は人間道で事情があったとはいえ人を殺したんじゃぞ、それをこうも簡単に許してしまっていいものかのう......」

 四悪道の主達は挙って反論する。

「ですが虎さん、わしらの四悪道では真人の取った行動は実に立派なものじゃった、本来人間道には合否自体が無いんじゃから、ちょとは大目に見ていぇっても良いのでは?」

 司祭も反論する。

「その通りですよ、虎さん、貴方は何時の間にそんな頑固おやじになってしまったのですか? いくら貴方がここでは最長老とはいえ、承服しかねますわ」

 皆に責められる虎さんだったが、まるで応えていない様子だった。

「じゃがそれじゃったらこの町の掟はどうなるんじゃ? この町は疎(おろ)か現世でも隠世(かくりよ)でも厳しい掟(約定)に依ってその秩序は守られておるのじゃ、それを疎かにしてはこの町の存在意義自体が無くなってしまうのでは?」

 皆は沈黙してしまった。この虎さんの言い分は正に正論であり、紛う事なき真実であった。正論や真実に勝つ方法などあるのか、もしあるとすれば魔法ぐらいしかないような気もする。皆は黙りこくって思案してると虎さんが言葉を続ける。

「ヤキが回ったのはわしじゃなくお主達じゃよ、こんな事ではお主らを失格にする事も考えねばならないぐらいじゃよ」

 そんな中で司祭にお供していたシスターレーテが場を弁えずに入って来て、発言を試みようとするのだった。レーテは何時もの朗らかな表情を絶やさずに、二匹の蝶と二羽の小鳥を携えて一行の前に姿を現すのであった。

 

 

 

 

 

 

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