人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

甦るパノラマ  六話

 

 

 この日のメインレース(11R)はG1秋華賞だった。牝馬のクラシック戦線であるこの重賞レースは今年から新しく始まったG1レースで場内も熱気にに溢れていた。

 英昭はデートに必要な最低限の金しか持って来ておらず、前もって予想もしていなかったのだが、いざさゆりの下を離れ一人になると自ずとギャンブル好きの血が騒ぎ、結局はそのなけなしの資金で馬券を購入してしまった。彼が買った馬券はこの秋華賞馬連でその購入額は僅か500円だけであった。こんなものが当たる訳がない。英昭はダメ元で遊びで購入しただけだった。

 弁当を買って戻るとさゆりは元の場所に坐ったままで英昭の顔に目をやり優しく微笑んだ。一安心した英昭は弁当とお茶を渡し、二人同時に食べだした。

 周りには二人と同じようにして朗らかな表情で弁当を食べている家族連れが何組も居た。一人のまだ幼い子供が両親に対して

「美味しい~」

 と言いながら覚束ない手つきで食事をする姿は傍から見ていても微笑ましく映り、辺りを一層和やかにさせる。二人はそんな光景を見た後、互いの顔を見合わせ軽く笑ってはいたが何も言葉は発しなかった。

 二人が食べていた弁当は大した特徴もない在り来たりな弁当であったが、その蓋には『第一回秋華賞記念』と書かれた一片の栞のようなものが添えられてあった。

秋華賞? 今日このレースがあるのね」

 さゆりは何気なくそう呟いた。英昭は軽く返事をしただけで、弁当を食べ終えると二人の殻を手に取って捨てに行く。戻って来た英昭に対しさゆりは

「ありがとう、これ弁当代」

 と言って1000円札を渡そうとする。

「そんなにいらないよ、今日は俺が出すから」

 と言って拒んだ英昭にさゆりは強引に金を差し出す。致し方なく受け取った英昭は有ら改めてさゆりの几帳面さ、生真面目さ、律儀さを感じる。そんな少し空気が入り掛けたこの情景に先ほどの子供が割って入って来た。

 年の頃は恐らくは3、4歳ぐらいであろうか。可愛くて元気なその子供は短い足を精一杯前に進ませながら近づいて来る。さゆりは思わず子供を抱き上げて身体を優しく愛撫する。すると子供は声を出して笑いながらさゆりの頬を舐めていた。

「どうもすいません、ほら正幸、こっちに来なさい」

 さゆりに一礼した親御さんは子供を連れて元の場所へ戻って行く。傍から眺めていた英昭はこの微笑ましい光景を昔の自分に重ね合わせて思い浮かべる。その表情はただ切なさを称えていたのだった。

 

 この競馬場に来たのは今回で三度目だった。二回目はつい最近で、最初に訪れたのは遙か昔、英昭が4歳の頃であった。今の子供のように人懐こいどころか寧ろ人見知りだった英昭は何処に居ても親の下を離れる事は無かった。だがまだ放任主義が多かった時代には英昭のような子供は逆にひ弱で内気な子供のように見られていた可能性はある。

 そんな彼は目に映る事象全てを真正面から捉え、それを真実と受け取っていたに違いない。それは即ち一切の疑念を抱かない正に純粋無垢な子供とも言える。

 両親に連れられこの競馬場にやって来た英昭は眼前に拡がる景色にひたすら昂奮し、両親の腕を掴みはしゃいでいた。そんな様子が二人の親を和ませていた事は言うまでもないのだが、父親は英昭を可愛がりながらも競馬に熱中していたのだった。

 無論そんな事が分かる英昭でもない訳なのだが、父の僅かな心境の変化は理屈抜きに肌で感じ取れた。僅かな腕の動き、僅かな表情の変化、僅かな呼吸の変化。子供というものはそういう意味では実に敏感にも思える。今思えばその時の父の心境の変化は明らかに馬券を的中させた喜びの昂奮に違いなかった。

 そんな雰囲気の中でもまだ幼い英昭の目に確固として映し出されていたものは、この美しい風景だけだった。

 今回英昭がさゆりを誘った最大の理由もそこにこそあったのだった。 

 

 

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 時刻は昼1時過ぎ、暇を持て余した二人は辺りを散策する事にした。辺りといっても競馬場であるこの場所には綺麗な自然と競走馬、大規模な施設ぐらいがある程度で、他には大したスポットもない。

 まずさゆりが足を進めたのは池だった。その池には蓮の花が浮かんであって目を凝らしてよく見ると小さな蛙がいるのが見える。蛙だけではなくアメンボウや小魚までもが快活に動いている姿も見える。

 さゆりは徐に池の中に手を入れた。

「冷たいわね.......」

 当たり前の事を口にする彼女の髪を後ろから優しく撫でる英昭。するとさゆりは池の水を手に掬って英昭に浴びせ掛けた。

「冷てー! 何するんだよ!」

 笑っていたさゆりの髪を今度は少し力を入れて搔き乱す英昭。

「やめてよ~」

「この悪戯っ子がー!」

 戯れる二人の姿は正に恋人同士に見える。片方が走っては追いかける、追いかけては逃げる。隠れて脅かす。こんな感じで二人は行く先々で遊んでいたのだった。

 二人がパドックに赴いた時、競走馬はゆっくりと周回していた。馬丁に手綱を引かれる競走馬の毛艶はその黒光りする光沢を自慢するかのように見せつける。天気の良い今日などはその光が眩しく感じるぐらいだ。ここでもさゆりは声を上げる。

「綺麗ね~」

 思わず口にしたさゆりの言葉は英昭をも感動させ昂奮するのだが、その昂奮の意味する所も二人には全く異質なものであった。

 同じものを見る目、その受け取り方はそれこそ多種多様な訳なのだが、それを映し出す側としてはどういう思いがあるのだろうか。ただ素直に自分の姿を見て貰いたい、或いはもっと掘り下げて考えて欲しい。万物が織りなす形様とは見る者、見せる者互いの思惑は様々なれど出来る事なら良い方に見て貰いたいというのが一応の定石と思える。

 しかしそれを見せる側自身が卑下するほど見窄らしい姿であった場合、お世辞で褒められたとなると馬も気を悪くするに違いない。英昭はさゆりに対抗するように敢えて調子の悪い馬を探そうとした。

 競馬にもそこそこ精通していた英昭は馬の状態にもある程度は目が利き、調子の悪そうな馬を探し出すのに然程時間は要しなかった。

「あの馬はダメだな」

 「え?」

 不思議そうな顔をするさゆりに英昭は説明までする。

「あの少し青い馬だよ、青毛って言うんだけど、あの馬足取りがおかしいだろ、あれは調教疲れしてるんだよ、可哀そうにな、あんな状態でレースに出す馬主の気が知れないよ」 

「私には余り分からないけど、そう言われればそういう風に見えないでもないかな」

「だろ?」

「じゃあ貴方がいいって思う馬はどれなの?」

「そうだな~、あの栗毛の馬、5番だよ」

「ふ~ん、益々私には理解出来ないけど.......」

競馬談義はそこそこにしてこの勢いに乗じてレース場に向かう二人。英昭は別に自慢する訳でもないが、さっき言った己が目利きを証明するが如く意気揚々と足を進める。それに対し余り気は進まないまでもせっかくだからと後に続くさゆり。

 今の二人の心情は恰も水と油、右と左、東と西、北と南、上と下、陰と陽、そして天と地と、二元論だけに依って導き出される様相を呈して来る。されど如何に男女という異性が思い浮かべる事象に差異があったとしても落としどころは無いものか。胸に秘めたる互いの心中は答えを見るまでは真に姿を現しそうにもない。

 静寂の中にもその心の闘いを明確に表す二人。レース場に赴いた頃、また空は少し曇って行く気配を漂わすのであった。

 

 

 

 

 

 

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