甦るパノラマ 十話
それから数日が経った体育祭当日、この日も朝から気持ち良く晴れた渡った空は地上を明るく照らし出し、万物に生命の息吹を与えてくれる。正に体育祭日和。そこまでの関心が無いまでもまだ若い英昭や他の生徒達は意気揚々と胸を弾ませ、気を逸らせながら登校する。
その心意気に乗じるように華麗に飛び立つ鳥や、虫達の微笑ましくも勇ましい果敢な姿は恰も体育祭に出場する一選手のような漂いさえある。
「母さんも後で見に行くから」
玄関先まで英昭を見送った母もそう言って明るい笑みを浮かべていた。英昭は内心別に来なくてもいいよとは思いながらも母と同じく笑みを浮かべてアイコンタクトを取り、軽い足取りで歩き出す。
学生服に身を包んだ生徒が日曜日に外を歩くのは部活動か何か特別な行事があるに違いない。近所の人達も英昭の姿を見るなり
「おはよう、体育祭? 頑張ってね」
と愛想の良い声を掛けてくれた。
「おはよう御座います、頑張って来ます」
明るい表情で返事をする英昭。挨拶が人に齎す力はやはり侮れない。その一言だけでも十分に心が洗われる。それはギャンブルに依って多少なりとも荒んだ人生を歩み出していた英昭にも感じられる事で、感受性の強かった彼は尚更気を良くして学校に向かうのだった。
登校し教室で着替えた後グランドに赴くと体育祭は颯爽と開かれた。始めに校長先生からの挨拶があり、その後は着々と一つ一つの競技種目が執り行われて行く。その中でも午前中のメイン競技はやはり徒競走である。
笛の音と共にスタートを切る生徒達の姿は美しかった。足の速い者がいれば遅い者もいる。ヤル気満々な者もいれば、そうでもない者もいる。
有形無形、その有り様は人それぞれなれど、いざ走り出すと一生懸命に事にあたろうとする健気で純粋な気持ちは自ずと伝わって来る。そういう観点で言えば一概には言えないまでもやはり人というものは静止している時よりも運動している時の方が美しく見えるような気もする。躍動する若い生徒達の姿は皆に勇気と感動を与え、それは自信へと繋がって行く。
そんな中で端から自信があったと言わんばかりに、練習と動揺当たり前のように悠々と一着でゴールしたさゆりの姿は本番になっても一際輝いて見えた。
「流石ね、さゆり!」
「おめでとう!」
歓喜に沸く同級生達はただ純粋にさゆりを褒めそやし拍手を贈る。彼女の躍動に感化された英昭も黙ってはいない。練習では何時も2、3着を走っていた彼ではあったが、いざ本番になるとその脚は我知らず速くなり必死に走った甲斐もあってかとうとう一着でゴールする事が出来た。
神風でも吹いたのであろうか。人間の気持ちとは実に不思議なものである。元々運動音痴では無かったとはいえ、今までは決して一着を取る事が出来なかった彼をここまで速く走らせたのは他でもないさゆりへの気持ちが味方したに違いない。
『健全な精神は健全な肉体に宿る』とは言うが、この時の彼の肉体はあくまでも健全で、それに相乗した精神もまた健全であったのだ。だが裏を返せばそれは今までの彼の行いが怠慢であったと言っても過言ではない。何故今までは本気を出さなかったのか、出せなかったのか、いや違う、出そうともしなかったのだ。出来ないものは仕方ないが、出来る事をしないのは一番ダメな事だ。今更言うまでもないこの理屈こそ今の英昭にはピッタリと当てはまる言葉であった。
人の事を喜び褒めそやす事は好きでも、自分の事を自慢する目出度い行為が嫌いだった英昭は他の同級生は勿論、さゆりにも決して近付いて行こうとはしなかった。
昼を挿んでから午後の競技も滞りなく行われ体育祭は無事終了した。10月中旬の秋の夕方、グランドでは砂が風に舞い始め少し肌寒ささえ感じる。
祭りのあと。それは得てして今まであれだけ盛り上がっていた雰囲気を一瞬にして無に還してしまう虚無感、そして憂愁の想いを投げ掛ける。物語に於ける起承転結。これも必要不可欠な事象ではある訳だが、最期の結は欲しくないという考え方は贅沢なのだろうか。亦それが無ければどうしても物語は完結しないのだろうか、寧ろ道中のストーリーの方が大切ではないのか。稚拙に思えるこんな考え方も捉えように依っては満更間違ってもいないような気さえする。
何れにしても祭りは終わったのだ。グランドには『第50回○○高等学校体育祭』と高らかに掲げられた旗とテントだけが虚しく残っていたのだった。
放課後下校の途に就く生徒達の表情は明るかった。虚無感に浸っていたのは英昭だけなのか、いやそんな筈は無い。彼はさゆりに声を掛けるまでもなく何時もの公園に立ち寄る。今日も紅葉の落ち葉で作られた絨毯は健在であった。その上を歩きベンチに坐る英昭。今の心境はその虚無感をさゆりと会う事に依って癒やしたい。ただそれだけだった。
しかしそんな彼の想いも虚しくさゆりは何時になっても姿を現さない。何故だろう、きっと何処かに隠れているのだろう。そう思った英昭は辺り一帯を見回しさゆりの姿を探す。だが一向に姿を現さないその光景に半ば諦めの表情を浮かべながらも明日に期待を懸けて少し項垂れた様子で席を発つ英昭。その刹那公園に屹立する樹々が音を立てて揺らめくのを目にする。
どちらかと言えば神経質だった英昭はそれを訝りながら敢えてゆっくり足を進める。すると木陰から一人の男が姿を現す。同級生の彰俊だった。
彼は控え目な雰囲気で近付いて来る。英昭は毅然とした態度でそれを見ていた。徐に傍まで近づいて来た彰俊は少し切ない面持ちをして語り掛けて来る。
「英昭、何でこの前俺に付き合ってくれなかったんだよ、大事な話があったのに」
確かに英昭の取った行動は裏切りに値するかもしれない。しかしそこまで大袈裟なものでもないと踏んでいた英昭は彰俊を前にしても尚、悠然と構えたまま答える。
「そんなに落ち込むなって! どうせふられたんだろ?」
その何気ない言葉は彰俊の心を傷付かせる。
「軽く言うなよ、人の気も知らずに.......」
「いや、そんなつもりで言ったんじゃないけどさ」
「まぁいいよ、それよりお前今日頑張ってたな、足速かったんだな」
「ま~な」
敢えて余裕をかました英昭の表情は返って彰俊を頼もしくさせる。
「ふっ、お前らしいよ、その俺の前でだけ見せる己惚れにも似たお前のその性格こそが俺も好きなんだよ、もう桃子との事はどうでもいいよ、そこで改めて提案したい事があるんだよ」
「何だよ?」
「今更言うまでもないだろうけど俺もお前も生粋のギャンブル好きだ、俺はお前みたいに器用な立ち回り方は出来ない、だからこの後あるパチンコ屋の新装開店に一緒に行こうと思って誘いに来たんだよ」
高々一瞬間とはいえ、この間は一切ギャンブルをしていなかった英昭にとっては彼の提案は性急ながらにも或る意味サプライズでもあった。迷いはしたもののさゆりとも会えなかった英昭の今の気持ちはギャンブルの方に傾いていた。英昭の内心を見透かしたように少しほくそ笑む彰俊。結局二人は一緒に行く事にするのだった。
「じゃあ5時半に店の前でな」
彰俊はそう言って帰って行く。その後ろ姿は何も映し出す事なくただ消え去って行く。強いて言えばパチンコで勝つという邪な野心ぐらいなものか。だが彼と動揺、いやそれ以上にギャンブルが好きだった英昭には祭りのあとの更なる祭りという、言わば嬉しい行事が待っていたのだ、彰俊に続くように帰途に就く英昭。
公園に敷かれた美しい紅葉の絨毯は些か色褪せて行くように見えた。
家に帰った英昭を待っていた母はまた御馳走を作ってくれていた。
「おかえり~、今日は頑張ったわね」
「来てたのか? 会わなかったじゃん」
「あんたが走ってるとこだけ見て直ぐ帰って来たのよ」
「そうだったのか」
部屋に上がり着替えてから颯爽と出て行く英昭。それを訝る母は当然のように声を掛ける。
「そんなに急いで何処行くのよ?」
「悪い、これからちょっと用事があるんだ、直ぐ帰って来るから」
そう言って家を出て行った英昭は執拗に時計を眺めながら約束していた店に急ぐ。先週さゆりと行った競馬場の件は魔が差して馬券を買っただけだ。だが今回はそうではない。いくら彰俊の誘いに影響されたとしても自ら決心した事である。
今日の体育祭よりも胸を弾ませ速い足取りで歩き出す英昭。その歩みは曲り形(なり)にも果敢で前向きな雰囲気を漂わすのであった。
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