甦るパノラマ 十七話
桜が満開に咲き誇る頃、世は新年度を迎える。もはや残冬の肌寒さも消え去った地上はすっかり春の陽気に包まれている。燦然と輝く陽射しには謝意を感じるが結構眩しい。その穏やかな光に乗じるようにあらゆる生命は元気に躍動し始める。
天為に依って開花した桜が演出してくれる神々しくも和やかな、優しい柔らかい雰囲気は万物に何を告げようと言うのだろう。それをただ短絡的に喜び、浮かれている人々の様は些か滑稽で、桜に対しても反って非礼に値するのではといった考え方は過ぎた思慮に依るものなのだろうか。
何れにしても春を迎え、新年度を迎えた人々の表情はあくまでも明るく朗らかで、前向きな精神の芽生えを映し出していたのだった。
高校を卒業した英昭は或る大手メーカーに工員として就職した。何のスキルも持ち合わせていない彼に一体何が出来るのだろうか。それを修練して行く過程すら鬱陶しく思える。それは親孝行がしたいという気持ちとは明らかに矛盾を来す訳なのだが、その矛盾こそが人の世の常なのだろうか。英昭はただ先輩に命じられるままに日々忙しく汗をかき身体を動かしていた。
同期の新入社員は英昭を含めて5人いた。入社当初は彼等が集まって語り合う事は自然であるように思えるのだが、その中でも研修時から無性に気が合う久幸という男がいた。彼との接点は取り合えずはギャンブル好きといったそれこそ短絡的な思慮に依るものであった。
話を進めて行く内に感じた事といえば、この久幸という男は英昭に勝るとも劣らない部類のギャンブル好きという点であった。更に高校時代もプラス収支で終われたという点も英昭と全く同じだ。それを疑う事も出来るのだが彼の堂々とした態度は一応疑念を晴らすだけの効果はあった。
現時点で感じる二人の違いはその態度ぐらいなものか。良くいえば堂々としている彼の様子も悪く言えば単なる礼儀知らず、世間知らずな分不相応な稚拙な態度にも見える。だがそれは反って英昭には頼もしくも思える。次第に仲良くなって行く二人は一足先に人脈を拡げられたという錯覚に陥っていたのだろうか。
息子を気遣う母は高校生時代にも勝って朝夕の見送り出迎えに念を入れていた。傍から見れば過保護にも思える母の行為も決してそうではなく、寧ろ一人息子の人生を見守るその姿は母性愛に他ならない。それを理解している英昭の内心も大したものであった。或る日家に帰って来た英昭は玄関を開けると同時に
「ただいま~、今帰りました」
と何時にない大きな声を出して母を安心させる。そして早くも友人が出来たという朗報と併せてプレゼントまで手渡すのだった。
「ありがとう、綺麗なカーネーションね~、でもちょっと早いんじゃないの?」
4月中に母の日祝いをした英昭には一応の理由があった。桜に負けないぐらいの真っ赤な花を是が非でも母にプレゼントしたかったという稚拙にも思える彼なりの想いが。
誕生日にも言える事なのだが女性にとって早めに祝ってくれる事は嬉しいのか哀しいのかよく分からない。 しかしそれを出来た事は少なくとも英昭にとっては嬉しく、事を成し遂げたという達成感もあった。
噛み砕いて言うと英昭は母を一刻も早く喜ばせたいだけだったのだ。それがどんな方法であったとしても。
陽が沈んだ後、徐に食べだす夕食。二人っきりの夕食は何時もながら淋しい感じもするのだが、この日に限っては多少なりとも明るく見えるのだった。
それからも英昭は毎日のように仕事に励み、充実した日々を送っていた。工場ではボール盤に旋盤、プレスに溶接、更には書類整理といった今まで一度もした事の無い多重な課題が課される。いっそ全てを放りだして逃げたいという短慮に見舞われる事もあったが、流石にそれは出来ない。英昭が少し疲れを見せていた時、久幸が現れ思わぬ言葉を投げ付ける。
「先輩、そんな一遍に言われても誰も理解出来ませんよ、もう少しでも優しく教えてくれませんか?」
一体何を言いだすのか、久幸の言は明らかに行き過ぎた反論である。どうにかして先輩を宥めなければならない。一瞬言葉を失っていたその先輩は鋭い眼光で久幸を睨みつけて罵倒する。
「ゴラ! お前誰にもの言ってんだおい、喧嘩売ってんのか!?」
一瞬怯みはしたもののそれでも久幸は言葉を返す。
「別にそんなつもりは無いですよ、自分はただ正直に言わせて貰っただけです」
「なるほど、よく分かった、これからは覚悟する事だな」
先輩はそう言い置いて軽い笑みを見せながら去って行った。後ろ姿を見守る二人に言葉は無かった。
それにしてもこの久幸という男は一体何を考えているのだろうか。彼の性格は言うに及ばずその真意も全く理解出来ない。それを深く探って行こうとする英昭の思惑もおかしい。その日二人は何とか事なきを得て帰途に就く事が出来たのだが、久幸に誘われた英昭は何の躊躇いもなく、いや寧ろ自分の方から進んで一緒に飲みに行く。二人の足取にりは些かながらも違いが感じられるのだった。
駅前の居酒屋に入った二人に愛想良く注文を訊いて来る店員の声。その声は仕事を終えた二人には癒しを感じる瞬間でもあった。取り合えず生ビールを注文する。そして高らかに乾杯する二人。
「お疲れ~」
最初の一口は流石に旨い。気を落ち着かせてから久幸は喋り出す。
「今日は悪かったな」
「それはこっちの台詞さ」
「いや、俺はこれから完全に目を付けられるだろう、その害がお前に及ばない事を願うばかりだけど」
「そんなに深く考えるなよ、向こうも大して何も考えてないさ」
「ふん、ありがとう」
この英昭の場を繕うような言葉は久幸を気遣たtだけなのか。自分でもよく分からない。でも彼は僅かながらも安心したような面持ちを表している。仕事の話はそこそこに久幸が次に口にした言葉は更に英昭を愕かせた。
「ところでお前、義正とは幼馴染なんだろ?」
「知ってるのか?」
「ああ、知ってるさ、彰俊の事もな」
世間は狭いと言うがこの実に露骨な名前を耳にした英昭の心は大いに揺らめいていた。特に義正などという名前は一生訊きたくない名前でもあった。だがそれを訝った英昭は言葉を続ける。
「何で知ってるんだよ?」
「何言ってるんだよ、俺はお前の事もよく訊いてるぞ、色んな事をな」
益々気になる英昭は神妙な面持ちで話を続ける。
「だから、何で知ってるんだって?」
「まず義正とはパチンコ屋で仲良くなったんだ、彰俊は俺と幼馴染だよ」
「そうだったのかぁ~、で?」
「で、じゃねーよ、これから一勝負しようじゃねーか、近くにいい店があるんだよ」
英昭は迷った。正直に言えば行きたい、でも就職したばかりの今の時期にいきなりギャンブルをする事は早計でもある。家で待ってくれている母の事もある。英昭は断ろうと声を出した刹那、それに被せるようにして久幸が勇ましく言葉を放つ。
「よし決まった、今から行こうぜ!」
「ああ、行くか.......」
英昭は勢いだけで久幸に負けたのだろうか。或いは芯の弱い己が気持ちに負けたのか。今宵の酒はあくまでも景気づけに過ぎなかったのか。英昭の憂慮も他所に颯爽と席を発ち歩き出す久幸。彼の力強い足取りには一切の躊躇いが感じられない。それに追従するように足を進める英昭。
屹立する都会のビル群の間にも謙虚ながらも堂々と姿を現す桜の樹。その毅然とした佇まいは久幸のそれとは明らかに違って見える。是非にも及ばずとも。
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