人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

甦るパノラマ  十九話

 

 

 さゆりの記憶の中で自分から電話をした事は一度も無かった。当然英昭が出なかった事も。高校生時分では翌日にその様子を確かめる事も出来るのだが、今となってはそれも難しい。わざわざ家まで行くのも憚られる。そこまで深く考え込むのも彼女らしくない訳なのだが、何故か気になって仕方がない。

 これこそが恋というものなのか。離れ離れになって初めて経験するこの想い。こればかりは如何に聡明な彼女にも整理し難い事であったに違いない。さゆりは陰鬱な想いを秘めたまま眠りに就くのだった。

 パチンコで大負けした英昭が家に帰ったのは午後10時半だった。玄関を開けても母は出迎えてくれなかった。もうとっくに夕飯も食べて床に就く頃だろう。彼は敢えてダイニングへは目もくれず足早に部屋に上がった。

 その足音に気付かない母でもない。しかし母も敢えて息子に声を掛ける事はせずに放っておいた。

 英昭はその夜ご飯を食べなかった。それは母に心配を掛けたくないという事だけではなく、長時間パチンコなどをしていた為に胃の調子が悪くなっていたのだ。無性に吐き気がしてとても食事が喉を通りそうにもない。でも一応夕方に僅かながらも口にした食事のお陰で大した空腹感は無かった。

 まず用意してくれているであろう夕食。彼の経験上でも余程の事でもない限り母と夕食を共にしなかった事は無かった。これが残業や会社の付き合いなら何の後ろめたさも無いのだが、今回のような親不孝とも言える愚行には胸を絞めつけられる。

 正に自業自得であって他の誰でもない、自分自身が招いた災いなのだ。それを償う事よりも気になる事は今日の負け分を如何にして取り戻すかといった実に稚拙で浅はかな、その愚行を更に進ませるような情けない打算であった。

 それにしても自分は何故あのような悪の誘いに乗ってしまったのか。そして無理な追い打ちを掛けてしまったのか。今更考えても埒も無い事なのだが、これをはっきりさせない事には今後の人生にも大きく影響して来る事は明らかである。でも今の沸騰し切った彼の頭脳ではいくら考えた所でまともな答えが出る筈も無かった。

 さゆりからの電話さえも確かめようとしない英昭。彼もまた暗鬱な想いのまま床に就くのだった。

 英昭の部屋の色の薄いカーテンには強い陽射しを遮る力が無かった。部屋の中にまで浸透して来る陽射しは眩しくも峻烈で彼の身体を襲って来るような勢いがあった。

 熟睡出来なかった英昭であったが全く夢も観なかった。彼は夢が観たかったのだった。この悲惨な現実から逃避出来るような夢を。それを遮ったのはこの強い陽射しか彼自信の甘えなのか。

 仏教では夢も現もこの世に現存するものは全て幻であるとも言われている。だが嫌な想いをした時それが味方してくれる事などあろうか。逆に良い想いを無にしてしまう事の方が多いのではなかろうか。それこそが甘えた言い方でもあるのだが、世の中とはそこまで厳密で厳格なものなのだろうか。

 己が愚行を棚に上げるつもりなど全く無かった英昭だが、社会人となった今にして初めて経験する人生の課題。それは難題ともいえる大きな壁で、彼の目の前に大きな姿で立ちはだかって来るのだった。

 

 

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 部屋を出た英昭は恐る恐る階段を下りて行く。ダイニングで何時ものように母が明るい顔で待ってくれていた。母は何気ない様子で声掛けをして来る。

「おはよう」

「おはよう」

  挨拶をする二人の表情は大した翳を感じさせないまでも、何処となく憂愁を投げ掛ける雰囲気は如何ともし難い。二人して食事に赴く。母は明るい表情を崩す事なく訊いて来た。

「昨日は遅かったのね」

「ごめん、同僚と飲みに行ってたんだよ」

「そうだったんだ、友人は大切にしなさいよ」

「ああ」

 母は昨日の夕食の事は口に出さなかった。今食べているものが昨日の夕食だったのだろうか。それにしてはあっさりとした食事である。残り物には手を着けないような贅沢な家庭でもないのに、もしそれを捨てたとすれば母の想いはどうなのだろうか。

 それを憂慮する暇もない英昭は食事を終えてから颯爽と出勤する。母は玄関まで見送ってくれた。振り返る事を憚られた英昭はただ前だけを見据えて歩き出すのだった。

 

 通勤ラッシュに見る光景は実に忙しない限りだ。高校生時分から電車通学をしていた英昭だったが、いざ社会人ともなるとそれが一層苦になっていた。僅か数駅間ではあっても立っているスペースも無い程に押し合いへし合いで狭い空間に身を竦めながらも己を誇示しようとする人の所業とは一体何を意味するのだろう。

 卑屈にも感じる人の群れに対して動物や植物の群れはあくまでも自然体であって、美しくも見える。それを羨む訳ではないまでも動揺してしまう心境こそも自然ではある。

 高校時代には余り苦にならなかった事が今では苦になって仕方ない。これも英昭が成長した証なのか。是非はともかく。

 仕事内容は相変わらずのものでまだまだ先輩社員達から教わるだけの日々が続いていた。自分で言うのも烏滸がましいが礼儀正しい英昭はこれといって先輩から文句を言われる事も無かった。

 仕事もそれなりに覚えて来ていた。午前中は何とかやり過ごして昼にって休憩時間を迎える頃、一人の先輩が声を掛けて来た。

「お前結構頑張ってるな、みんな一目置いてるよ」

「有り難う御座います、自分なんて大したものじゃないですけど」

「その謙虚さがいいんだよ、でもあいつはダメだな」

「あいつとは?」

「この前盾突いて来たあいつだよ」

 久幸は既に目を付けられていた。これをどうこうする力は英昭には無い。だが悪友とはいえ同僚には違いない。この話を掘り下げて行くと久幸は勿論、他の同僚からもはぶられる可能性もある。別にそれを怖れる英昭でもない訳だが人の悪口は言うのも嫌だが訊くのも嫌だった。

「自分と違って負けん気が強いのでしょうね」

 何気なく放ったその言葉は自らを悩ます。昨日の勝負もあいつの負けん気が齎した勝利なのか。ギャンブルに於いては運が勝敗を分けると言われているが、その限りでもない事は英昭自信が一番良く理解していた事だった。運と併せて大きく影響してくる力。この力も馬鹿には出来ない。それは単なる技というだけでなく、力さえも運に組み込まれる一つの要素なのだ。運も実力の内。という言葉は言ったものである。運と力、その相乗効果に依って齎される勝利。どちらか一方だけでは決して勝つ事は出来ないのである。この事はギャンブルだけに限った話でもなくそれこそ森羅万象全ての事象に於いても共通して言える事でもある。勿論仕事に於いても。

 今の所は仕事では巧く行っている英昭でもギャンブルは絶不調。この事は彼を大いに悩ませた。少しボケーっとしていた英昭に先輩が言葉を続ける。

「ま~いいや、お前、あいつにだけは負けるなよ、俺も応援してるからな」

 先輩の言は英昭にも頼もしい限りだった。その後も午後の仕事を無事に終え帰途に就く英昭。今日こそは真っすぐ帰る。そう決めていた彼だったが、電車に乗る前にその誘惑は彼を襲って来る。

 しかし英昭が目にしたのはパチンコ屋の禍々しい姿ではなく、さゆりという恋人の美しくも質素な、それでいて少し切ない表情を浮かべる一人の女性の姿であった。

 

 

 

  

 

 

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