甦るパノラマ 二十四話
何とも薄汚れた、見窄らしい恰好をしている義正には清潔感や若さが全く感じられなかった。皺だらけのシャツに洗ってもいないような擦り切れた薄っぺらいズボンに黒ずんだ白い靴。髪もボサボサで風呂に入っている様子もない。虚ろな目つきに光は無く死んでいるようにさえ見える。これこそがギャンブル依存症の末路とでもいうのだろうか。まるでポン中のようでもある。
それに比べるとまだ幾分英昭の方がマシな感じもする。同じギャンブル中毒でありながらこの違いは何なのだろう。それを確かめるべく義正を問い質す英昭。しかし彼の心もまた死にかけている事に違いは無かったのだった。
「おい、どうしたんだよお前、久しぶりに会ったのに何だよその様は!?」
「ああ、俺はもう終わったよ」
今にも死んでしまいそうな表情で答える義正なのだが何か企みがあった事は感じ取られる。
「金なら無いぞ」
「分かってるさ、今日はお前にいい儲け話を持って来たんだよ」
「何だ?」
「強盗だよ」
以心伝心、類は友を呼ぶ、朱に染まれば赤くなる。色んな諺があるのだがどれも当てはまらない気もする。確かに大金を掴みたいという想いは同じなのだが、英昭はあくまでもギャンブルに依ってそれを成し遂げたかったのだ。それを露骨に強盗などという言葉を用いる義正の神経はどうなっているのだろうか。そればかりは幼馴染であるとはいえ流石の英昭にも分からない。
同じような境遇に置かれていても異なる想いを抱く人間の性。これこそが或る意味人間の一番厄介な性質とも言えるのではなかろうか。
例えば互いに愛し合う二人の男女。この二人の間に一切の矛盾、不純な意志が無いと言い切れるだろうか。尊敬する人の事を100%信頼、心服出来るか。凄絶な経験をした者同士が何時までも心を同じくする事が出来ようか。
言い出せばきりが無いのだが、思考や価値観の多様化などという言葉が実に都合の良い屁理屈に感じてしまうというのは些か行き過ぎた思慮かもしれないが、真に心を一つに重ね合う事が難しい人間社会というものは如何ともし難い複雑怪奇な世の中で、真の意味での絆、協調性などというものは存在しないような気さえする。
それは一定数の紛争や治安の悪い国がまだあるとはいえ、一応治世である現代社会にこそ現出し得る厄介な事象でもある。有事の際にはあれだけ手に手を取って協力し合っていた同士でさえもいざ事が治まっていまえば仲違いするような状況に陥る事は往々にある事だ。
それを個人の自由と言ってしまえばそれまでなのだが、それほどに薄弱な、脆弱な人間関係とは一体何を訴えようというのだろう。敢えてそこに挑む事が人の世の常なのだろうか。そんな出口の無いような自問自答を繰り返す英昭はそれを今の二人に置き換えて考えるのだった。
「強盗ってお前、いい策でもあるのか?」
義正は一瞬だけ目を輝かせたような気がした。
「そう来なくっちゃな、策はあるよ、でも俺一人ではどうしようもないからお前を誘う事にしたんだよ」
「どんな策だ?」
「ATM強盗だよ」
「また在り来たりな方法だな~」
「いいから訊けって! 俺は今土建屋に務めてるんだけど重機も会社にある、そこでそそれを使ってATMを丸ごと奪うんだよ、よくニュースになってるだろ、あれだよ」
「で、策とは?」
「だから、俺とお前が組んでやれば絶体に成功するって事だよ、俺が重機を運転してお前はシケ張りだよ」
「単純な策だな~.......」
強盗について真面目に話をする事も滑稽な話なのだが、簡単な策こそ人を騙し易いというのは三国志に登場する有名な軍師諸葛亮孔明の名言でもあった。
余り深く考え過ぎては反って要らぬ災いを招く事になりかねない、シンプルイズベストなのである。もはやこれしかないといった思惑に浸る義正の顔を確かめた英昭は更に言葉を続ける。
「ところでお前、何でそこまで落ちぶれてしまったんだ? 借金いくらあるんだ?」
「1500万だよ」
あっさりと答えた彼の表情には曲がりなりのも決意を固めた一人の男の覚悟が漂っていた。それを露骨に感じた英昭はこれ以上返す言葉が無かったのだった。
義正の前では首を縦に振らなかった英昭だったが、既にその腹は四分六で悪しき方へ傾いていた。家に帰り電話で今日のレース結果を確かめ、舟券を外した事を知った彼は益々義正の考えに染まって行く。
財布の中身はほぼ空っぽで僅かな小銭だけが彼を嘲笑うように姿を現す。手持ちが無くなった彼には手持ちのカード(切り札)が全て失われたも同然である。そんな中何時ものように母の声が聴こえて来る。
「ご飯出来たわよ~」
その声は神のお告げなのか仏の教えなのか。最近元気が無かったにも関わらず今日の母の声には何時になく優しい、甘美な響きが感じられる。それは当然英昭の心を苦しませる。ゆっくりと階段を下りてダイニングへ赴く彼の足取りは自然の中にも不自然さを漂わす。そして二人でテーブルを囲み食事を始める。
この日の夕食は焼き魚だった。脂の乗った魚は口をつけずとも旨さを感じさせてくれる。鰤は結構高価な魚であり英昭の好物でもあった。彼が一口つけた後その表情を見てから徐に口を開く母。
「美味しいでしょ」
「旨いな~」
「今日たまたま魚屋さんで安売りしてたのよ、それであんたの好物だったから思わず買って来たんだけどね」
「そうだったんだ」
「ところであんた、この魚に限らず、動物も植物も或る意味人に食べられる為に生まれて来たようなものなのよ」
「分かってるさ、そんな事」
「ほんとに分かってるの? それならもうちょとでも感謝して食べなさいよ」
「十分感謝してるって」
「それと魚を含めた動物は子供を産んでから世話するのは赤子の頃だけで、その後は放任主義で子供達は直ぐにでも自立して行くのよ」
「何が言いたいんだよ」
「だから、あんたはもうとっくに自立する年齢になってるって事なのよ、これ以上母さんを悲しませないでよ」
そんな事は他でもない英昭自信が一番感じていた事だった。今更言うまでもない事を敢えて口にする母、そしてそれを改めて訊いた英昭。この二人の心情は何を物語るのだろうか。
仕事の上で再確認する事は必要である。無論私生活でも。だがそれをここで訊いた彼の心は揺れ動いていたに違いない。
『風吹けば沖つ白波たつた山 夜半にや君がひとり超ゆらむ』
一人で超えて行けるのか、いや行かなければならない壁である。今の彼にそれが出来るのか、出来る出来ないでは無くしなければいけないのだ。
母が放った一言に依って揺れ動く英昭の感情。これもまた脆弱極まりない。でもあくまでも正直で素直で純粋な人間としての当たり前の感情でもある。それを成就させる事がそんなに難しい話なのか。
風に吹かれて木から舞い降りた葉は地面に落ちても尚美しい姿を現し、枯れ果てた後も肥しとなって役に立っている。それに比べて過ちを犯した人間はどうだろう。ただ人に迷惑を掛け、人を傷付けてその後も償いをしたとしても大した効果は無いだろう。
英昭はこの母の一言だけで一瞬にして揺れ動いてしまった己が気持ちを整理する事さえ怖かった。こんな調子では何をしても巧く行く筈が無い。でももし自分が断れば義正は一人でもやるに違いないし、自分としても金は欲しい。
この期に及んでもまだ悪しき方に気を置く英昭の心情も実に救い難い。母の想いに報いたいという気持ちと明らかに矛盾する邪な気持ち。善悪の二元論で考えるのは好きでなかった英昭にも己が性質を悪と見做してしまう人間の弱さ。
吹き始めた強い風は嵐の予兆でもあるのか。その風には地上というよりは寧ろ人の心を侵食して来る勢いが感じられるのだった。
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