人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

甦るパノラマ  二十七話

 

 

 まだ二十歳過ぎである英昭にとって600万円という金額は大金だった。初めて手にする金。札の幅は同じだが厚さは約60mm(6cm)、とてもじゃないが財布には入らない。勿論入れる気も無い。ならば何処に保管するのか。金融機関に預けるのはヤバい。となれば自ずと箪笥預金しか道は無くなって来る。

 先々警察に捕まる可能性の残っているこの現状で母に渡すのもまだ時期早尚だろう。英昭は取り合えず普段通りに生活する事を心掛ける。そうなれば今までのように仕事をサボる事も出来ない。大金を手にして初めて感じるこの窮屈感。まるで自由を奪われたようなこの感じは金を手にするまではある程度は予想していたものの、想定外の事の方が多く感じられるのだった。

 昂奮していた英昭は結局一睡もせず出勤する。夏の強い陽射しは尚も地上を照らし続け蝉の鳴き声も相変わらずうるさい。汗ばむような酷暑の中、電車に乗って通勤する英昭は何時になればこの金を使えるのかという事ばかり考えていた。

 これを更に数千万に増やす事が出来ればもう朝夕の通勤ラッシュに耐える必要もない、仕事など何時でも辞められる。本来ならあともう二つぐらいATM強奪をしたい所であった。

 しかし義正がしつこく念を押していた油断大敵という言葉は実に重く英昭に圧し掛かる。あいつは強盗の手筈といいその抜け目のない周到さといい何時の間にか賢くなっていた。昔の彼なら考えられない事だ。ならば自分もあいつに負けてはいられないと思うのも自然の理だろう。想いに耽っていた英昭はあろう事か一駅乗り過ごしてしまい少し遅刻して会社に着いたのだった。

 上司や先輩に少し怒られはしたがその後は粛々と勤務を開始する英昭。勿論仕事など全く手に付かない。だがそれを人に悟られてはいけない、ここが正念場なのだ。ヤル気がないまでも仕事に精を出す事が出来たのは他でもない600万円という大金を手にした事に依って生まれた心の余裕が影響していたに違いなかった。

 もはや英昭は職場の同僚とは殆ど口を利かない日々が続いていた。その一番の理由はまず仕事に対するヤル気の低下なのだが、それと同等に影響していた事は久幸の存在である。彼も最近は自分の方から近づいて来ようとはしない。それはやはり以心伝心で互いが理屈抜きに敬遠していたのだろう。

 人間関係というものはそれこそ不可思議なもので自分が嫌えば相手も嫌う、だが自分から積極的に好意を持って近付いた所で相手が呼応してくれるとは限らない。それは互いの愛称も然る事ながら、心に抱くもの、或いは思ってもいないのに何故か身体はそちらに向かわないといった自分でも理解不能な感覚的なものが作用しているようにも思われる。

 それが何かは分からない。だがそれとて所詮は自分自身の中に芽生える生まれながらに持ち合わせた感覚と感情。即ち喜怒哀楽の四つの感情と、仏教でいう所の唯識論から生ずるものではなかろうか。何れにしても今は大人しくしている必要があった英昭にはそれも好都合であった。

 そうして何とかこの日の仕事を終える事が出来た英昭は誰とも会話しないまま早々に帰途に就くのだった。

 

 

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 帰りの道中も実に暑い。夏という気節を喜ぶのは子供ぐらいではないのか。こんなうだるような暑さは鬱陶しいだけだ。早く秋が来ないものか、自分が大好きな紅葉が咲き誇るあの美しい秋が。

 ハンカチで汗を拭いながらようやく駅に辿り着いた時、彼は眼前に屹立するビル群の中に一人の艶やかな女性の姿を確かめた。その女性は徐に自分の方へ近づいて来る。この暑い西日が降り注ぐ中、全く汗をかいていないようなしとやかで瑞々しい、真っ白い皮膚の色を見せるその女性は明らかにさゆりである。

 彼女が何故ここに居るのだろう、この前訣別してんじゃなかったのか。それにしてもその相変わらずの美しさはどうだろう。まるで天女のようではないか。

 大袈裟ながらもそう思う英昭は目を丸くしたままさゆりの顔から眼が離せないでいた。目だけではない、身体まで動かない。金縛りにでもあったような彼の身体にぶつかって来る者もいたが、巧くよけながら歩く人はまだこの時代にも稀に見る意志や神経の通った人間としてちゃんと機能している非ロボット人間に違いない。

 無論ぶつかって来る人よりもそこに突っ立っている英昭の方が悪い事は言うまでもない訳なのだが、もはや金縛りを解いてくれるのはさゆりしかいなかったのだった。

 いよいよ英昭の面前まで辿り着いた彼女はそっけない表情の中にも僅かな笑みを浮かべながら英昭の顔を見つめる。何時になっても動かない彼の身体に少しだけ触れて来た彼女の指先には優しくも強く、繊細にも大らかな、しっかりとした感触があった。

 やっとこさ金縛りが解けた英昭はさゆりに真似るように軽い笑みを浮かべて互いに見つめ合っていた。この瞬間胸の高まりは増す一方なのだが、それとは裏腹に汗が引いて行き何か涼しさを覚える英昭。さゆりは少し目を反らしながら口を切った。

「何突っ立ってんのよ、みんな変な目で見てたわよ」

「あ、ああ、それよりな何でこんなとこに来たんだ? まさか......」

 さゆりは英昭の言を封じるように被せて喋り出す。

「いいから行きましょう」

「行きましょうって何処に?」

 さゆりは何も答えずに歩き始めた。後をつけるようにして歩く英昭。しかしヒモでもあるまいしそれではおかしい。彼はさゆりと歩調を合わせて一緒に歩き出すのだった。

 

 また暑い道のりが続く。さゆりは全くあせをかいていないように見えるが実際にはどうなのだろうか。少々汗かきだった英昭の顔に優しくハンカチを添えてくれるさゆり。英昭はありがとうという言葉も忘れただ呆然とした表情で歩いていた。

 駅前の群衆から遠ざかった少し街はずれにある居酒屋に入る二人。初めて来るこの店は何とも静かな雰囲気の良い店であった。

 店員といえば年配に見える店主一人だけか。今の所客は一人もいない。テーブル席に着いた二人の前に店主の奥方らしい女性が注文を訊きに来た。

「いらしゃいませ、ご注文はどうなさいます?」

 愛想の良い態度と口調で現れたその奥方はさゆりに勝るとも劣らない美しい容姿だった。思わず顔を赤らめる英昭を見ていたさゆりと奥方は互いに笑っていた。注文を言いそびれた二人に対し奥方は尚も笑いながら言葉を続けて来た。

「さゆりちゃん、この人ね、貴女の好い男(ひと)っていうのは」

 さゆりは照れながら答える。

「そうです、取り合えずビールを」

「はいかしこまりました」

 英昭は愕きながらさゆりに訊いて来た。

「なんだ、知り合いなのか?」

「バイトの付き合いでたまに来るのよ」

「そうだったのか、焦ったぜぇ」

「何を焦るの?」

「いや、別に.......」

 二人の下にはビールと頼んでもいないあてが届けられた。

「おかみさん、有り難う御座います」

「いいえぇ、今料理してますから、ちょっと待っててね」

「はい」

 取り合えず乾杯をしてビールを飲み出す。汗をかいていた夏に飲むビールは最高だった。ジョッキの約半分を一気に飲み干す英昭。それを見て安心するさゆり。二人の良好な間柄は今の尚続行中なのだった。縁が切れたと思い込んでいたのは間違いだったのだろうか。いやそんな筈はない。でもこの状況は人為的なものではなく天為にも思える。

 風の便りとはいうが、この久しぶりの出会いはさゆりの思惑に依って齎されたものとはいえ、やはり自然の理に思える。そう感じるのは英昭よりも寧ろさゆりの方だったのだ。何故今になって会いたくなったのか、それを考えるにも及ばないこの現状こそが物語ってくれている。愛し合う二人に言葉は要らなかった。それを確信するかのように愛想良く料理を運んでくれるおかみさん。

 さゆりはもう少し酔いが回ってから色んな話をしようと画策していた。外から聞こえる風の音は優しい。夏の強烈な西日から解放された英昭もまたこの出会いを嬉しく思い、酒が進むのであった。

 

 

 

 

 

 

 

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