甦るパノラマ 二十九話
それからの二人は以前のような仲の良い恋人として恙ない日々を送っていた。毎日のように連絡を取り合う間柄は初恋を思わせるような初々しさで互いの心を刺激しながらも和やかな雰囲気を自らに与えてくれる。
張りのある生活とはこのような事を指すのだろうか。恋に堕ちる二人はまるで魔法にでも掛けられたように我を忘れ仕事、日常生活を問わず全てが巧く運んでいるような錯覚に溺れる。ものは考えようとは言うが正にその通りで考え方、心掛け次第でどうにでもなるような気もしないではない。
これこそが人に執着する念なのだろうか。ならば業はどうなのか。念に依って表される人の業。二極一対、表裏一体に感じる二つの事象も実は元を同じくする完全とは言わないまでも同種、同質の原子なのである。それを別々に切り離して考える事こそが滑稽な話で、そういう意味ではやはり人間の過ぎた思慮は自然の理に抗っているだけのようにも思える。
しかし注意しておきたい点もある。その魔法が未来永劫続く訳もなくこの世に不変のものなど存在しないという事だ。永久(とわ)の愛などという言葉には実に甘い響きを感じるのだが、それを一生貫く事が出来る者は一握りでもいるかもしれない。だが永久とはつまり未来永劫を指すものであって、神々でさえもそえれを実行する事は出来ないだろう。ならば諦めるのかという単純な理論でもない。
喜怒哀楽、これら全ては煩悩であり生きている間に煩悩を捨て切れる者など一人もいない。とすれば尚更捨てたいと思う者がいてもおかしくはないのだが、その想いこそが己惚れになるのだろうか。
何れにしても現時点では前の一件以外に大した不安が無かった英昭はその生活を粛々と熟して行くだけだったのだった。
だがそんな順風満帆な生活は長くは続かなかった。あれから約1ヶ月が経った8月下旬。まだ残暑が厳しいこの時期に怪しい影は英昭の下を訪れるのだった。
家の玄関の扉が少し強めにノックされた後、出て行く母。
「暇田川署の警察ですが藤原英昭さんは御在宅でしょうか?」
余りの不安と恐怖に驚愕した母はその場に倒れ込んでしまった。
「奥さん大丈夫ですか?」
抱え上げてくれた警察官に頭を下げながら何とか立ち上がった母は既に帰っていた英昭を呼びそのやり取りを訊く。
「貴方が英昭さんですか?」
「そうですけど」
「ご同行願いますか?」
「何の話ですか? 自分は何もしてませんけど?」
「この前起きたATM強奪事件です」
ある程度覚悟していた事とはいえ母の目の前で正直に謳う事を憚られた英昭は敢えて惚けてみせた。
「何の事かさっぱり分かりませんけど、何か証拠でもあるんですか?」
「いいから来て」
英昭は結局警察に促されるままに警察署へと連行される。それを見ていた母は息子の無実を叫ぶ力もなくただ呆然と立ち尽くしていたのだった。
暇田川署の刑事達に依って連行される車の中では誰の一切口を利かない。それは英昭にとっては幸か不幸か是非にも及ばない訳だが一時の安らぎを与えた事は確かだった。
何故ならばたとえ一瞬でも物事を思索する猶予があるからだ。別に刑を免れたいという話ではない。あくまでも母に対し如何に心労を掛けないかという算段である。
警察署に着いた一行はそのまま取り調べ室に入り英昭は尋問を受ける。一言に取り調べ室といっても今の部屋はそこまで暗い雰囲気はなく、至って普通の部屋である。だがそこで行われる尋問は今も昔も変わりなく厳しいものであった。
「お前やったんだな? 正直に白状しろよゴラ!」
刑事達の様子はさっきとは打って変わって正にテレビドラマで観るような語気を強めた厳つい口ぶりであった。
「はい、そうです自分がやりました」
素直に答える英昭に対し何か拍子抜けしたような表情を泛べる刑事達。彼等は恰ももっと尋問を続けたかったような様子で今度は優しい言葉を投げ掛けて来る。
「お前な、素直に答えたからって罪が軽くなる訳でもねーんだぞ、ほんとにやったんだな!? 足立義正と二人で!?」
「はい、そうです」
刑事達が一瞬静まった一瞬を見逃さずに言葉を続ける英昭。
「ありのままをお話しますから、どうか母には適当に伝えてくれませんかね?」
「うん? 適当とは?」
「例えば単なる傷害事件とか、万引きとか」
「お前、まだ自分の置かれてる立場が分かってないみたいだな、罪は軽くならないんだよ、何をしようともな」
「そんな事は分かっています、だから母にだけは本当の事を伏せて貰いたいだけなんです、絵取った金には一切手を付けていません、それでも駄目ですか!?」
また暫く黙っていた刑事の中に一人だけが口を切り出す。
「初犯だったらまず執行猶予が付くだろうから、そこまで言うのなら母御さんには適当に言ってやってもいいぞ」
他の刑事は愕いたが掌を返したようにその刑事に合わせるような意見を口にする。
「まぁ、誠さんがそう言うのだったらそれでもいいけど、それでも腑に落ちないなぁ、お前みたいな奴が何で強盗なんてしたんだ? 潔いのはいいけどお前みたいな奴は初めてだよ、親孝行がしたいのに逆に親不孝をしちまったんだな.......」
英昭は黙っていた。刑事達の言う事は全て御名答であったからだ。しかし一つ抜けていた。何故自分がそこまでしてギャンブルに執着するのか、そして何故犯罪まで犯してしまったのかという自分でも信じがたいこの二点を。
無論カウンセラーでもない刑事を相手に相談するつもりもないのだが、その根本的な理由にして心の原点を探らなければ何の解決にもならない。たとえ20年という長い懲役刑を課せられた所でこの根源を払拭する事は出来ないだろう。
無論これは強盗だけに限った話でもない。あらゆる犯罪に共通する奥の深い事象でもある。それを如何に解消、解決して行く事が如何に重要であるかは刑事達にも理解は出来ている筈だ。
だがそれを仕事上とはいえただ粛々と進めて行くだけで真に根っこから解決する事が出来ようか。これは決して罪人を擁護する訳ではない。あくまでも人間生命に根付いている喜怒哀楽に由来する不慮な事態を軽減する為の策なのである。
とはいえ英昭の言には確かに甘えはあった。でも外国では司法取引きや免責もある。それと比べても英昭の言っている条件などは実に簡単な話であるようにも思える。
国に依って差異がある法律。それをひっくり返すような大胆な事までは想わないまでも、少しだけでもそれに近い計らいをして欲しいという英昭の想いは所詮無いもの強請りに過ぎないのだろうか。
そんな想いに耽っている英昭を他所に母は自ら病院へ行き、時間外診療を受けようとしていたのだった。なかなか現れない先生。それを憂慮する母の想いは己が体調よりも息子英昭の身の上を慮っていた事は言うまでもない。
女手一つで育てて来た一人息子。その息子がもし罪を犯していたとすれば全ては母である自分の不甲斐ない所業に起因するに違いない。自分を責め続ける母の暗鬱な想いは尚更その病状を悪化させるだろう。
静まり返った夜の病院の廊下に谺する鮮明な靴音と外から聴こえる僅かな人の声。それらは決して融和する事なく母の内心へと露骨に侵食して来るのであった。
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