人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

甦るパノラマ  三十話

 

 

 罪を認めた英昭は取り合えず警察の留置所で一夜を明かす事になった。主犯である義正も既に取り調べを受け留置されているとの事だった。

 初めて味わう罪人としての処遇。それは今までの彼には想像もつかない話であった事は言うに及ばず、いくら夏とはいえこの牢屋から感じる事といえば常闇、冥闇(めいあん)、冷徹、冷血、冷酷、残酷と、涼しいどころか底なしの冷たさと闇を訴えるようなものばかりだ。

 一切の人情が失われたこの空間の中で幾日も暮らしているとその者も何れは廃人になってしまうだろう。罪人に人権などというものは無いのかもしれないが、もし冤罪ならば末恐ろしい話ではある。

 しかし英昭が真に怖れていた事は言うまでもない母の容態であった。

 診察室に誘われた母は先生の触診を受けるまでもなくその顔色だけを見て入院の必要性を告げられた。才子多病というべきか、さゆり同様生まれつき聡明な女性であった母はこれまでも幾多の病苦に苛まれていたのだった。

 その最たるは己が伴侶に先立たれた時だった。その頃の母は正に疲労困憊、心身共に完全に疲弊し切っていたのだった。無理もない。僅か40歳という若さで夭折してしまった伴侶を亡くしてしまった母は俗にいう後家さんになり女手一つで息子を育てて行かなければいけない。無論それだけを苦にして病に伏せていた訳ではない。

 高校生時代からの付き合いだった彼とは初恋にして初めて惚れ合った正に相思相愛の夫婦(めおと)だったのだった。その彼に先立たれた無念さ、悔しさはとてもじゃないが言葉で表せるようなものではなく儚いなどといった甘いものでは無い。

 元々身体が強くなかった母はそれからも何度となく病に苛まれて来た訳なのだが、それを押してこれまでやって来れたのは他でもない息子の成長を見守る親としての務めと自身の矜持、つまりは精神力だけが奏功させた賜物であった。

 その息子にまで裏切られたとなっては病が更に進行するのは当たり前である。心労(ストレス)というものは身体に直結して来る病の根源、芽であるとも言える。蒼白した顔面に焦点の定まらない目つき、震える手先に乱れる呼吸。これらの症状から察するに母が病人である事は素人目でも十分に分かる。母も一通りの検査を受けた後、点滴をして貰い一晩病院で過ごす事になった。

 安否を案じながらも己が親の苦境にも駆け付けられない英昭の心情は如何ばかりか。自業自得であるこの状況を打破する術はないものか。

 自らが起こした罪を償う事は出来ても、自らが招いた災いを消す事は出来ない。これこそが人間生命に根付いている悪なのだろうか。性善説性悪説などという言葉は一体何を意味するのだろうか。

 二元論に執着するつもりなどさらさら無いのだが、善の中にも悪は潜んでいる。その逆も然り。絶対的な善、絶対的な悪、つまりこの世に絶体と言い切れるものが無いとすれば、それを如何にして作り上げて行くかという事こそが人間に課せられた使命であるようにも思える。

 今の二人が置かれている悲惨な状況下でそれを成す事など出来るのだろうか。二人は窓外に佇んでいるであろう夜に輝く月の姿すら確かめらぬまま眠りに就くのだった。

 

 

f:id:SAGA135:20210219171014j:plain

 

 

 その頃何も知らないさゆりはこの前居酒屋で言われた事を心掛け、余り深く考えずに気楽な思いで毎日を快活に過ごしていた。

 残暑に聴こえて来るアブラゼミの鳴き声はミンミンゼミやクマゼミのそれとは違い何処か涼しく爽涼で、人心に清々しい雰囲気を投げ掛けてくれる。

 初秋の候、ますますご健勝のほどお喜び申し上げます。この言葉を英昭は勿論、自分自身に授けるさゆりの所業は微笑ましさの中にも毅然とした態度が感じられる。

 大学での友人関係では日に日に効果が出て行き、今ではムードメーカーとは行かないまでも彼女に寄り添って来る者は何時も笑みを浮かべながら語り掛ける。

「さゆり~、今日もバイトなの?」

「今日は休みよ」

「なら一緒に遊びに行かない?」

「別にいいけど」

 こんな他愛もない会話をしているさゆりの表情には以前とは違い実に明朗な漂いがあった。これは決して彼女が翳のある性格だった事を証明するものでは無い。寧ろ彼女の根底に根付いていながらも今までは大人しく身を潜めていた真の姿の現れではなかろうか。髀肉の嘆とはいうが生きて行く過程で芽生えて来る才。これは修練に依って培われて来たものではなく、或る時期に突然芽を出すような突発的な力であるような気もする。地の利、水の利、風の利、火の利。これら全ては自然の理であり人為的なものではない。それに天の利、つまり天の時を合わせる事に依って一層良い成果が齎される事は

言うまでもない訳だが、もう一つだけ付け加えるとすれば、それはやはり人の利であって人の力、人の和であるとも言える。その和を真の絆に育んで行く事は容易ではないのだが、もはや暗い気持ちを払拭する事が出来た今のさゆりには決して難題でも無かったような気もしないではない。

「何処行く?」

 そのさゆりの問いに明るい表情で答える同級生は逆に行先をさゆりに問いかける。

「何処がいいかしら?」

「何、まだ考えてないの?」

「それをさゆりに訊きたいのよ」

 訳の分からない問答を少し訝ったさゆりであったが、彼女の口から出た言葉は実に優しい若い女性ならではの自然な想いであった。

「そうね~、じゃあ取り合えずカラオケでも行かない?」

「いいじゃん、行こうよ!」

 何ともミーハーなこの同級生は恰もそれを言いたかったかのような口ぶりで互いの意見が一致したと言わんばかりの嬉しそうな面持ちで意気揚々と歩き出す。そんな彼女の様子を見ていたさゆりもまた呆気に取られたように微笑を浮かべながら歩き出す。

 蝉の鳴き声は未だ涼やかな雰囲気を漂わしてくれているし、街路に佇む樹々も秋を先取りするかのような美しくも艶やかな様相を呈している。道中でまだ色を付けていない紅葉の樹を見上げてさゆりが言う。

「あ、紅葉、綺麗ね~」

「そうね、さゆり紅葉好きなんだ」

「ま~ね」

「なるほど、いい人がいるのね」

「そんなんじゃないわよ.......」

 そうこう言い持って店に辿り着いた二人は颯爽と店内に入り歌を唄い始める。二人共歌は巧かったのだがさゆりの歌唱力には特に目を引くものがあった。

「何貴女、めちゃくちゃ巧いじゃん、何かやってたの?」

「別に何もしてないけどね」

 謙遜するつもりでもなかったがさゆりのその声音には何とも美しい、透き通るような甘美が雰囲気が漂っている。それは意図して巧く歌った訳でもなくさゆりの心音(こころね)がそのまま歌に出たのではあるまいか。心を超え込めて唄ったからといって上手く聴こえる訳でもないが、心無く唄うよりかはマシな事も言うまでも無い。

 そうし一盛り上がりした後、家路に就くさゆりは同級生が匂わせた彼の事を胸に秘めたまま家に着き自室へ入った後、徐に電話をかける。

 プルルルルー、プルルルルー。何時まで経っても出ない彼を訝りながらも何時までも電話を鳴らし続けるさゆり。

 暫くしてもう一度お掛け下さい。この文言を三回訊いた時さゆりの心は言い知れぬ不安に駆られた。以前のさゆりならまたパチンコにでも行っているのかといった在り来たりな想いを巡らしている所なのだが、今回に限っては何故か気が逸る。

 理屈抜きに感じるこの不安は何なのだろうか。居てもたってもいられなくなったさゆりは押っ取り刀で英昭の家に向かって駆け出した。

 英昭の家の玄関の呼び鈴を何度鳴らしても一向に反応は無い。確実に何かが起こっている。はっきりとは分からないまでも。しかし誰もしないこの状況では埒が明かない。さゆりのような聡明な女性が外から屋根伝いに部屋に上がる事など到底出来ない。

 諦めて帰ろうとした時、玄関前にあるポストが少し開いているのが見えた人様のポストを開ける事などそれこそ憚られる訳だがそこには一通の手紙のようなものが裸で顔を出していた。

『藪川病院』

 それを確かめたさゆりは病院に向かって一直線に駆け出す。

 もはやアブラゼミの鳴き声すら聴こえなくなった時間に烈しく響くさゆりの靴音。その音は烈しさの中にも焦りや淋しさ、哀しさ、憤り、そして憂い。様々な音を投げ掛ける靴音はひたすら病院に向けての道中に谺する。

 やっとこさ病院に辿り着いたさゆりは素早く必死に受付で英昭の母の事を訊き出し、病室へ向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 こちらも応援宜しくお願いします^^

 

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村