人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

甦るパノラマ  最終話

 

 

 物言えば唇寒し秋の風。せっかく面会に訪れたというのにいざ英昭を前にするとなかなか言葉が出て来ないさゆり。彼の姿に大した変化は見受けられなかったものの、何かが邪魔をしているような気がする。それは英昭とて同じで言いたい事、訊きたい事は山ほどあるのに何故か口が開かない。内的なものか外的なものかは分からないが見つめ合う二人の間には目に見えぬ力が働いていたように思える。

 見つめ合う事1分以上、一瞬たりとも視線を反らさなかった二人は全く同時に笑みを浮かべる。人間というものは実に不思議な生き物である。その微笑をきっかけにして徐に口を開き出す二人には心に合致するものでもあったのだろうか。さっきまでとは打って変わって明るい表情を浮かべるその姿にはまるで童のような可憐にも稚拙な雰囲気が漂っていた。

 それでも多くを語る事を憚られたさゆりは控え目ながらも毅然とした態度で英昭の母の容態を真っ先に伝える。

「お母さん、あれから一時期入院してたのよ」

 最悪の事態を考えてはいたものの、驚きを隠せない英昭は手を震わせ蒼褪めた顔をして項垂れながら答える。

「やっぱりかぁ、母はああ見えて結構身体が弱いんだよ、俺もずっとその事を考えていたんだ、でも何故さゆりが知ってんだ?」

「貴方の家に行ったのよ、そこでメモを見つけて病院に行ったって訳、でも心配する事はないわ、お母さん、もう回復して退院したから、あとの養生が大切だけど」

「そうだったのか、それは有り難う、先に言って欲しかったけどな」

 さゆりにはさゆりの考えがあったのだった。先に安心させてしまえば油断が生じる可能性がある。たとえ少しでも英昭を不安にさせるぐらいが良薬にもなるといった彼女なりの親心にも似た優しい想いが。

「それでこれからどうするの?」

「どうするって、刑に服するだけだよ、サラ金のATMを強奪したんだからな、結構な罪になるだろうな」

「ふ~ん、なかなかやるじゃない」

「え?」

 さゆりの言葉の意味する所は全く分からない。感心しているのか皮肉で言っているだけなのか。だが彼女の表情からは怒ったり呆れているような様子は感じられない。これは英昭が鈍感なだけなのか、それとも彼女なりの想像もつかない深い想いが醸し出すの真意の現れなのか。

「今日は差し入れを持って来たのよ、はい、これ」 

 差し出されたのは一冊の本であった。『神々の戯れ』というタイトルのその本は実に分厚い恐らくは500ペーシはあるであろう長編小説だった。

「何だこれ、神話の小説か?」

「そうよ、それを拘置所に居る間に完読するのよ、それが貴方に与えられた使命なの、そうすれば刑も軽くなる筈だわ、もしならなくても貴方は甘んじて刑に服し、いい感じで刑務所生活を送る事が出来るのよ」

 相変わらず何を言っているのかさっぱり分からない。それにこんな長編小説を読書慣れしていない自分が直ぐに読破出来る筈もない。

 依然として軽い笑みを浮かべながら話すさゆりはやはり不思議な女性に思える。聡明な彼女から感じられる事は優れた知性や知識だけに留まらず、豊かな感性、酒を飲んでいる時でさえもしっかりとした意見を述べる理性、奥床しくも気高く、清楚でありながらも妖艶で麗しいその品性を凌駕するような美しさ。

 それらは全て英昭が初めてさゆりと出会った頃に感じていた事でもあった。だからこそ自分とは似ても似つかぬこの女性に惚れたのだった。人に見る気質、体質、性質の素晴らしさ。これも天賦の才なのだろうか。それに引き換え英昭には何か自慢出来る事が一つでもあるのか。ざっと思い起こしても現時点では何も無い。無能の男ともいえる英昭と聡明なさゆりとの共通点、それを強いて挙げるとすれば互いの過ぎた優しさが現す情義に厚い性格ぐらいなものか。

 言葉を知らぬ動物や植物にはない、人間が生まれながらに持ち合わせた話すという機能。異体同心。少々質は違えど同じ優しさという感情を兼ね備えた二人の間には僅かな言葉を発するだけで心に響くものがあったのであった。 

 

 

 

 

 秋という気節を好いていたのは英昭の母も同じであった。春に芽生えた生命は夏という厳しい暑さに耐え、秋に落ち着く。そしてまた厳しい冬を経験する。

 その過程でもあらゆる生命が真に熟して行くのは秋であるような気もする。色鮮やかな樹々に花々。空を飛び交う鳥達に謙虚に身を竦めながらも精一杯に生きようとする虫達。彼等が執着するのはあくまでも生であって、死では無い。それを如実に感じさせてくれる姿は愚かな人間に対する教えでもあり自慢でもあるような気さえする。

 未だ養生が大切であった英昭の母御もまた息子同様に読書を楽しんでいた。『愛情の果てにあるもの』 在り来たりなタイトルではあるが、その結末には大いに関心をそそるものがある。さゆり同様に聡明な彼女はその本を早いスピードで読み始める。

 焦って読む訳ではないまでも冒頭の文章だけで感じる事があった。内容的には思うがままに荒れ狂った人生を歩む放蕩無頼な息子を奥方と親が共に力を合わせて窘め、良き方へと誘わんとするストーリーである事には違いない。それは今正に現在進行形で続いている自分達の事でもある。

 何故こんな時に偶然にもそのような本を読み出したのかは分からない。だが事実は小説よりも奇なり。偶然は必然であり必然が偶然であるようにも思える人間社会とはそれこそ見えぬ力が働いた幻のようにも思えないでもない。

 夢、現自体が幻であるすれば真実などあろう筈もない。然るに夢もなければ現実も、そして幻さえも無いという話でもある。全ては無なのか。だがそこに有を見つけたいという人間の想いも明らかに現存する正直な心持であって決して己惚れではなかろう。とすればそれを探し出す為に人は生きているのだろうか。いや為という言葉自体が不遜であるようにも思える。ならば理屈抜きに生きて行くだけか。それも淋しい感じもする。

 果てしない思惑は英昭の母をして読み始めたばかりの本を閉じさせる。結末を知りたくなかった彼女はその本を捨てようとしたのだが、それを思い留まった思惑こそが人間に執着して離れない喜怒哀楽と、仏教でいう唯識論、唯識思想ではあるまいか。

 英昭の母は今になって己が知性を蔑ろにしてまで感性の赴くがままにゆっくりと心を込めて本を読み出すのであった。

 

「あと5分です」 

 刑務官は愛想の無い口調でそっけなく言って来た。そして若干苛立っているようにも見える。何が気に入らないのだろうか。決して口調を荒げる訳でもなければ、しみったれた話ばかりをしている訳でもない二人の会話に。

 でもそれを告げられた二人は尚も落ち着いた様子を翻す事なく互いの目を見つめ合い、恰も拘置所でデートでもしているかのような雰囲気を漂わすのだった。

「その本は勿論だけど、ところでもう一つ貴方に渡したい物があるのよ」 

「何だい?」

「これよ」

 その写真は何とも見事なまるで芸術家が描く風景画のような美しさを称えていた。晴れ渡った空に悠然と屹立るす雲、その僅かな雲間から差し込む光芒に向かって舞い上がる鳥達の勇ましい姿。生命力溢れる緑の野には幼い童が快活に遊んでおり、それを見守っている親御さんと周りを取り囲む人々の姿にさえも何処か微笑ましさを感じる。そんな実に麗しい光景は英昭を懐かしませる。

「これは.......」

「そうよ、貴方と初めてデートした競馬場の写真よ」

「お前、何時の間にこんな写真を」

「貴方が馬券を買いに行ってた時に決まってるじゃない」

「あれは弁当を買いに.....」

「いいのよ、もうそんな話は」

「あの後お前は怒って帰ってしまったよな、だから一時空気が入ってしまったんだけどさ......」

「それももう今は昔よ、それよりその画を見てどう想った?」

 さゆりを前にして英昭は告げるべき言葉を選んでいた。

「いいからさっさと答えて、時間が無いのよ!」

「あ、そうだったな、目に焼き付く最高のパノラマってとこかな、取り合えずはそれしか言いようが無いよ」

 さゆりは安心した。別に英昭から気の利いた言葉を引き出すつもりなど一切無かったからだ。英昭の思うがままに口にしたその言葉はさゆりにの心にも響き渡り、更なる美しい空間を醸し出す。もはやここは拘置所などでは無い、昔よく通っていたあの公園なのだ。紅葉が綺麗に見えるあの公園。

 心の黄昏れは心の戯れにも等しく思える。それは憂愁を優秀に変える力さえ感じる。

「じゃあ、また来るわね」

 その一言だけを言い置いて立ち去るさゆり。彼女の後姿こそが優秀で憂愁感漂う美しい形態である。

 最高のパノラマをもう一度だけでも我が肉眼に甦らせたい。そして母性愛さえも漂わすさゆりの真の優しさをもっと実感したい。

 今二人は付き合い出してから初めて知性、感性、理性、品性を超えた人間生命の根源に深く根付いている言葉では言い表せない美しい、情念を共有するのであった。

 

                                    完

 

 

 

 

 

 

 拙い作文にも関わらず、永のご愛読有難う御座いました。これからはもっと精進して行きたいと思う次第です。 

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