人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

哂う疵跡  一話

 

 

 2005年(平成17年)の夏は暑かった。例年のように厳しい暑さを訴える夏という気節は有難い反面鬱陶しいようにも思えないでもない。

 勇ましくも煩い蝉の鳴き声、燦然と照り輝く強烈な陽射し、青々しい樹々に草花、汗を拭いながら道行く人々に意気揚々と走り回る可憐な童達、そして涼やかにも一筋の美しい線を現す川の流れ。

 自然の恩恵を受け続ける生きとし生けるものは、その自然に対し恩返しをする事が出来るのだろうか。その想いこそが己惚れに値するのだろうか。何れにしても夏という気節には殊の外印象に深いものがある。

 この日も汗水垂らしながら外回りの営業職に勤しんでいた一将は一つの大きな商談を取り纏めたあと、或る喫茶店に立ち寄りお茶を飲みながら物思いに耽っていた。

「これで取り合えずは会社も持つだろう、でもそれも何時まで続くか分かったものではない、ならば今のうちに次の手立てを考えるのも一興か.......」

 窓外の景色を眺めながら一人呟く一将は些かなりとも行き過ぎた己が想いをも憂慮していたのだった。早すぎても遅過ぎてもいけない、程よいバランス、タイミング。それこそが営業職の神髄であり万物に共通していえる真の調和であるとも思える。

 勝つか負けるかの二元論では無い。あくまでも調和、この和こそが日本が真に世界に誇るべき独特の文化、歴史ではあるまいか。それを成す上でも必要不可欠なものは当然決断力である。この決断力が無ければ営業の仕事など出来よう筈もない。

 西一将、23歳。彼の有名な西グループの跡取りとして有望視されていた彼は父、西一彦の長男にして嫡男である。彼の聡明にして勇猛果敢な性格は時として皆を怖がらせる事もあったのだが、その威厳のある風格はまだ若い一将をしてグループを一つに束ねる力もあった。

 求心力などという言葉はそれこそ人が持って生まれた天賦の才の現れなのか。会長として采配を振るう父は昔でいう院政のような立ち位置に甘んじていたのだが実際に業務を指揮していたのはあくまでも一将であった。息子の才を認める父ではあったが唯一の心配事は生まれついての己が脆弱な身体であった。

 西家は明治初頭に行われた地租改正に依って結構な恩恵を受けていた。小売業から始まった事業は瞬く間に急成長し、百貨店に不動産業、貿易業に福祉事業と、多岐に渡って目覚ましい発展を遂げて行った。

 中でも注目すべきは西新デパートと西不動産の好況だった。年商数百億という破格の売り上げは業界でもトップクラスで以前までは日本でも屈指の大富豪であった。

 だが時代の流れは非情なもので1990年代半ばから始まった不況の煽りを露骨に受けたグループの売り上げは年々減少の一途を辿っていた。でもまだ余裕はある。問題はその余裕を如何にして持続すべきかといった甚だ消極的な思惑だった。

 会社に帰った一将は社員達に愛想の良い声を掛けながら自室に入った。見るのさえ憚られるような帳簿。だがこれに目を通さない訳には行かない。そこには実に淋しい数字が羅列されている。年々落ちて行く売り上げ。それは銭勘定だけではなく人の心をも憂愁に導く。一将はそっと帳簿を閉じて部下を呼ぶ。

 その者は丁寧な挨拶をしてから一将の下に駆け寄りこう言って来た。

「この度のお働き、何時もながら誠にお見事で御座います、この調子なら会社も安泰ですね、全ては次期社長である貴方の御功績であります」

 一将はそんなベンチャラは聞き飽きていた。サラリーマンに在りがちな媚を打って胡麻をする態度。これ自体を否定するつもりでも無いのだが、そんな姿を当たり前のように現す者には信用が置けない。これは私生活でも同じだ。金魚の糞のように付き従う者は得てして腹黒いものでもある。だがそれが時として人の心を慰める力を持つのも事実ではある。一将が彼を呼んだ真意は分からない。でも狡猾にも思えるこの者にも何がし気の利いた策があるのではなかろうか。

 そんな甘い想いを抱く一将はやはりまだ若いのか。言葉を発する前に一杯のコーヒーを口にする。そして相対する時、一将は部下の僅かな表情の変化に気付くのであった。

 

 

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 華族の血筋を受け継ぐ一将の母沙也加は実に美しい女性であったのだが、その派手好きな性格、浪費癖は如何ともし難い。西グループという或る意味では財閥ともいえる資産家に嫁いで来た彼女はその資産を貪らんとばかりに優雅にも贅沢極まりない、時世を全く憂慮しない不経済な生活を送っていたのだった。

 彼女の所業は傍から見てもまるで幼い童が親に駄々をこねるような稚拙な雰囲気があった。それを一向に咎めない父も父だ。一将は今まで何度となくこの母に諫言申し上げて来たのだが、全く鼻にも掛けないその姿は天真爛漫、天衣無縫という言葉などとは程遠い、単なる無神経で短絡的な憂慮に堪えない児戯に等しいものであった。

 身に纏うブランドものの衣服は言うに及ばず、数台の高級車に高級クルーザー、1年おきにリフォームを施す部屋に大して使いもしない敷地内にある大きなプールに毎日のように水を張る無駄遣い。

 数十匹も居るペットはただ可愛がるばかりで面倒は全て女中に任せっきり。気に入らない事があればその女中に八つ当たりをする始末。

 上級国民とはこのような人の事を指すのだろうか。この母に食い潰された財は如何ほどに上るのか。質素倹約とは言わないまでも、たとえもう少しでもその生活を悔い改める気はないのだろうか。

 まるで女王のように西家に君臨するこの母は一将が憂慮する大きい災いの種の一つだった。だが父でさえ何も言えないこの状況で一将がそれを咎める事など出来ようか。

 天には天の地には地の悩みがあるとは言ったものだ。母に一回でも帳簿を見せたいと思う一将はそれを必死に堪えながら日々の仕事に従事していたのだった。

 己が血筋を自慢する者は母だけでもない。桓武平氏の流れを汲むこの西家は江戸時代にあっては幕府の要職に就き、明治以降も数人の官僚を輩出し、政財界とも太いパイプを持っていたお陰で上流階級の生活を送る事が出来ていたのだった。無論現代社会でそんな家系など何の役にも立たない事は言うまでもない。だが一応はこうして財を築き上げるのに成功しただけでもご先祖に報いる事は出来たのではあるまいか。それを誇るのは一将とて同じなのだが、父母の行いにだけは承服しかねる所が多かった。

「我らはあの高名な桓武平氏の末裔ぞ! その誇りを決して穢してはならん、今こそ天下に号令を掛けるのじゃ! 我らにはその勅命が発せられているのじゃ!」 

 こんな大袈裟な事を口にする父ははっきり言って痛々しいし、この現状を理解出来ていないように思える。この父にしてこの母なのか。二人から学ぶ点など何も無いと思ってしまうのは一将のまだ乏しい人生経験に依る浅薄さの現れなのか。治にいて乱を忘れず。一将はただこの言葉だけを念頭に置いて仕事に勤しむのであった。

「貴方の悩みは承知しております、親御さんの事とこれからの我がグループの行く末ですね」 

 一将はこの部下に一目置いていた。同世代という共通点も然る事ながら、彼とは何故か気が合うように思える。無論全幅の信頼を置いている訳でもない。だがたとえ暗雲が立ち込めて来たとはいえ、未だに隆盛を誇るこのグループの行く末を慮る彼の想いは一将と異口同音の言葉を投げ掛ける。

「流石だな幸正、お前は何時も俺の言いたい事を先に言ってしまう癖があるな、それも不遜な気もするが、まぁいい、お前には既に何か策があるのだな? いいから言ってみろよ」

 幸正は躊躇う事なく口を切った。

「こうなってはあの御方に頼るしかないでしょう、あの組織と手を組めばこれから先も安泰です、もはや逡巡している時ではないかと」

 一将は迷っていた。確かにあの組織と組む事はこの上ない喜びになるかもしれない。しかしそれをしてはもう後に引き下がるのは無理に等しく、諸刃の剣でもある。

 今こそ一将には決断力が求められていた。この難局を打開する大英断が。

 

 

 

 

 

 

 

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