哂う疵跡 三話
幸正が運転する車を飛ばすこと約30分。街はずれの少し人通りの少ない路地裏に山誠会系神田組の事務所はあった。
先々代の頃から山誠会に懇意にして貰っていていた西グループはこの神田組とも旧知の仲であったのだが、年々強まって行く暴対法の影響に依ってその関係も希薄になり最近では完全な疎遠状態にあった。
だがそれは今の時世には寧ろ好都合で、以前から裏社会との関係を断ち切りたいと思っていた会長、つまり一将の父もそういう経営方針をとっていた。それが今になって自分達の方から頼る事になってしまったのは実に不甲斐ない話でもある。一将は己が非力さを恥じながらも毅然とした態度で向かって行く。
門番に案内され中へ入って行く二人。一将がこの事務所を訪れるのは何年振りだろうか。幼い頃、山誠会本宅を訪れた事は覚えているのたが、ここへ来た事は全く覚えていなかったのだった。
部屋で待っていると組長の宇佐美が悠然とした態度で入って来た。背が高めのこの人は少々痩せ型で短髪に渋い表情を浮かべながら、スーツ姿で現れた。一将と幸正の二人は直立して深々と頭を下げる。
「お久振りであります、この度は突然の訪問にも関わらずお時間頂いけました事、誠に有り難う御座います」
宇佐美は一将の顔をじっと見たあと、表情を崩して席に着いた。
「ま、そんな硬くなりなさんな、君が西一将君かね、大きくなって」
一将は精一杯に記憶を呼び起こそうとしたがどうしても思い出せない。そこで無礼にも正直に訊いてみる事にした。
「自分の事、御存知でありましたか、申し訳ないのですが、自分は思い出す事が出来ませんでしたので.......」
「無理もない、君が父親に連れられて本家に来たのはもう20年近くも昔の話だからな、あの頃はうちの先代の親分も君の事を実に可愛がっていたもんだよ」
「そうでしたか、それはまだ自分が幼かったとはいえ本当に申し訳ありませんでした」
宇佐美は椅子の上で少し身体を動かしてから本題に入った。
「で、今日はどんな要件で?」
一将も本題に入る心構えをするべく深呼吸をしてから口を開き出す。だがその刹那、あろう事か幸正が先に口を切ってしまった。
「実はこの度...」
「テメーには訊いてねーんだよ」
鋭い眼光を放ちながら間髪入れずに幸正の言を封じた宇佐美は凄まじく恐かった。言葉を失った幸正は謝る事さえかなわず、ただ俯いていた。そこで一将が改めて口を開く。
「組長、重ね重ねの不始末、本当に申し訳御座いません、全ては自分の不徳の致す所であります、この者にはよく言って聞かせますので何卒ご容赦願います」
「別に君が謝る事じゃねーさ、これは個人的な問題だよ、取り合えずお前は出て行け」
気後れした幸正は一礼して早々に部屋を出て行く。これは宇佐美が一将に気を遣ったのだろうか、いやそんな筈はない。ならばただ気を悪くしただけなのか、それも組長にしては少々狭量である気もしないでもない。
宇佐美はその後もまるで何事も無かったような悠然さを漂わし、どんと座り込んでいる。これこそが親分の貫禄なのか、この瞬間に一将は心の何処かで宇佐美の事が好きになっていたのかもしれない。その厳密な理由までは分からずとも。
部屋を追い出された幸正だったが、その後も廊下に一人大人しく座していたのだった。当番であった若い衆も正座している彼の慎み深い姿を考慮してか何も声を掛けずに過ぎ去って行く。
部屋では仕切り直した二人が話し始める。
「さ、遠慮なく言ってくれや」
「はい、単刀直入に言わせて頂きます、実は丸新興産に目を付けられてしまいまして」
「なるほど、海秦会か、で、俺にどうしろと?」
「余りにも烏滸がましいお願いなのですが...」
「前置きはいいから要件を言いなって」
「すいません、力になって欲しいのです」
「分かった!」
たった一言、この一言だけで話は成った。無論一将は内心疑いを捨てる事は出来ない。だがその憂慮すら見透かされてしまう事を察した彼は宇佐美の義に答えるべく素直に礼を言った。
「有り難う御座います、何とお礼を言えばよいのか分からないのですが、本当に有り難う御座います!」
パンパン。宇佐美は手を叩いて若い衆を呼び酒の支度をさせる。その時幸正は静々と外へ出て行くのだった。
浪費家である一将の母沙也加は部類の酒好きでもあった。久々に夫と共に酌み交わす盃。それは甘いブランデーが醸し出す贅沢で優雅な一時であった。
「今宵は月が綺麗ですね、私達もあの月に負けないようにその身を磨き上げなくてはいけませんね」
「何を言ってるんだよ、お前また他所のデパートで大盤振る舞いをして来たらしいじゃないか、いい加減うちで買い物をしたらどうなんだ」
「そんな事より貴方、一将はちゃんと仕事をしているのかしら?」
白々しい事を口にする沙也加は気取った様子で盃を手で回しながら訊く。
「まぁ心配には及ばないだろう」
「本当に?」
沙也加は目線を他所にやりながら答えた。
「何が言いたいんだ?」
「私だって一応は知っているのですよ、会社危ないんでしょ?」
「お前が心配する事じゃないさ」
「だからこそ私は何時も他所で買い物をしているの、それ以外に私に出来る事がありまして?」
一彦は言葉を失った。確かにそれも一理はある。それを今まで全く咎めなかった自分にも非はある。だがこのままではいけない。妻の浪費ぶりも会社の行く末も。
一彦は妻に対し媚びるようにして酒を注いだ。その酒は赤く、まるで血の色に見えないでもない深紅を現す。だがその濃い色も時として人の心に勇気を与える烈しい勢いもある。
盃に残っていた酒を一気に飲み干し、今度は積極的な姿勢を見せる一彦。その様子は些かなりとも妻を愕かせたのだった。
「ならお前が経営に参加すればいいじゃないか、そうすれば息子達も心機一転仕事に励み出し、何か名案が浮かぶかもしれないぞ」
「何を今更、私などが出て行った所で何の役にも立たない事は貴方が一番御存知でしょ、何故そんな皮肉を言うのです」
「まぁいい、お前の好きにすればいいさ」
酒の席とはいえこの一彦の投げやりな言も実に頼りないものであった。
同じ頃に酒を飲み出した一将も相変わらず宇佐美に対し気を遣うばかりで一向に酒が進まない。それを慮った宇佐美は一将に対し一本の刀を突き付けてこう言って来た。
「お前は優し過ぎる、それでは跡取りには成れなねーぞ、もっと堂々としてろよ」
それこそ一将は普段から憂慮していた事でもあった。如何に聡明で狡猾であってもそれだけで人心を繋ぎ止める事など出来よう筈もない。それだけでは単なる有能な一従業員に過ぎない。
三国志に於いて魏を一つに纏め上げ天下を布武した曹操でさえも乱世の奸雄とは称されてはいたが、治世ではあくまでも能臣と呼ばれる存在であった。それを全く時代背景の違う現代社会に当て嵌めるのもおかしいかもしれないが、一将も所詮は能臣に過ぎないのだろうか。宇佐美という風格のある人を前にして省みる己が狭量。だがそれを恥じてばかりいても始まらない。今こそ腹を括る時が来ていたのだった。
「有り難う御座います、組長を前にして改めて覚悟しました、自分も男に成ると」
「そうか、やっと分かってくれたか、ならこの刀をお前にやるよ、これは備前長船といって岡山で有名な兼光という刀工が作ったとされる業物だ、その刀に負けないよう精進してくれや」
一将はその刀を鞘に納めて改めて礼を言ってから酒を口にする。その後は互いに膝を交えてざっくばらんな話をして場を盛り上げて行った。次々に飲み干す盃は身分の違いを忘れ二人を愉快にさせる。
そして一将が帰ろうとした頃、宇佐美は少し厳しい表情を泛べながら念を押す。
「お前も察しだろうが、さっきの奴、あいつには気を付けろよ、あいつは絶体にお前に災いする存在になるだろう、出来れば今のうちに型をつけたい所なんだがそれは俺が口を出す事でもねーしな、とにかく海秦会の事は任せておけ、悪いようにはしねーから」
一将はその有難い言葉を額面通りに受け取り丁寧な挨拶をして立ち去った。
既に日も暮れた外の様子は涼やかな風を運んでくれる夏の夜といた風であった。その中にあって互いを牽制し合う一将と幸正。彼等の姿はこの自然の恵みに対し抗うような愚かさを漂わしている。
その風を背に受けながら無言の裡に車に乗り込む一将。今彼は初めてこの幸正という男を部下に持ってしまった己が宿命(さだめ)を悔いるのであった。
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