人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

哂う疵跡  五話

 

 

 一将の下に吉報が齎された。約束通り宇佐美は話を付けてくれたのである。流石は天下の宇佐美組長、信じてはいたもののその喜びは計り知れない。昨日の優子との逢瀬といいこの事といい一将には力強い追い風が吹いているようにも感じられる。でもその割にはいまいち心が晴れない。その原因は幸正の事とグループの定まらぬ先行きに他ならなかった。 

 この日珍しく会長である一将の父一彦が部屋を訪れた。普段から会社に来る事自体が滅多に無かった父は何時になく神妙な面持ちで現れ、素早くドアを施錠してから口を切り出す。

「お前、何かしたのか?」

「別に大した事じゃないさ、どうして?」

「昨日あいつが家に来たぞ」

「あいつとは?」

「香々美だよ」

「幸正がどうして?」

「それはこっちが訊きたいぐらいだよ、それも俺には会わずに沙也加と話をしていたんだが、あれが言うには一弘を次期社長に据えろと言上して来たらしいんだ、無論沙也加もそんな事には取り合わなかったみたいだが、あの手この手で立ち回ってるんじゃないか、気をつけないとな」

「気にするほどの事でもないだろ、あんな奴に何が出来るんだよ」

「お前は甘いぞ、たった一人の馬鹿な社員の所為で潰れた会社もあるんだぞ、あいつは馘にしたらどうだ、お前にその気が無いのなら俺が引導を渡してやってもいいんだぞ」

 一将は暫く考えていた。確かに父の言う事にも一理はある。それを今まで放置して来た事は実に不甲斐ない限りなのだが、ただ馘にするだけで真に解決する事が出来るのだろうか。それは寧ろ逃げる事にも成りかねないのではなかろうか。

「考えてる場合じゃないだろ、あんな奴の一人や二人いなかった所で会社はびくともしないんだから、それより奴を放置してると今以上の災いを招く事になるぞ、お前だって奴の事をそこまで好いてる訳でもないんだろ」 

「とにかくちょっと待ってくれよ、よく考えるからさ」

「手を打つのは早い方がいいぞ!」

 会長はそう言って部屋を出て行った。一将とてその事を憂慮しない訳でもないのだが、とにかく社員一人に翻弄されているようでは所詮社長業などは勤まらない。この事だけを念頭に置いて業務に勤しむ一彼の心持こそが古い精神主義なのだろうか。

 高級車に乗り込み帰途に就く父の姿を窓外に見る一将の心は僅かながらも揺れ動いていたのだった。

 その後弟の一弘が入って来た。彼も会長同様に神妙な面持ちをして現れたのだが、その表情は父のそれとは比較にならないほど幼く感じられる。まだ若いとはいえどう見ても経営者には向かない顔つきだった。

「次はお前か、何だ?」

「実は幸正に言われたんだ、俺に社長になれって」

「ふっ、やはりその事か」

「知ってたのか?」

「さっき親父から訊いたんだよ、あいつ母にまでそんな戯言で迫ったらしい、勿論相手にしなかったみたいだけどな」

「そうだったのかぁ、いや俺にそんなつもりは無いよ、それだけは分かって欲しいんだ、その事を言おうと思ってさ」

「分かってるさ、でもよく言ってくれたな、あいつの事だからあの手この手で脅して来たんだろうけど」

「そんな所だよ、で、俺はどうすればいい? もうあいつとは絶縁するか?」

「いや、今までのように普通にしておけ、下手に動くと逆に感づかれるかもしれない、あいつの考えてる事は分からないけど、どうせ大人しく引っ込みはしないだろう、あとは俺に任せておけばいい」

「分かった、じゃあ」

 力なく部屋を出て行く一弘の姿は実に頼りない。負けん気の強さでは共通する兄弟であったが、有事の際には掌を返したように動揺してしまう一弘は本当は気の優しい純心な男なのかもしれない。でもそんな弟だからこそ一将には可愛く思えて仕方ない。

 兄弟が見せる情愛とは何とも美しいものである。まるで幼い童に戻ったかのように兄を慕い、弟を可愛がる二人の間には僅かな溝さえも見受けられなかったのだった。

 

 

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 幸正に息子の悪言を訊かされた沙也加の浪費ぶりは少し治まったように見える。余程ショックだったのか他意があったのかまでは自分でも良く分からないといった風だ。

 だが一つはっきり言えるのは穏やかならぬ事態が彼女自身の内に秘めたる息子に対する愛情を今頃になって芽生えさせて来たという事だった。

 経営に無関心な彼女が感じる事といえば息子に対する母性愛なのだが、子に対する本能的な愛情と一言に言ってもその質は正に多種多様で、これまでの人生を振り返っても沙也加が一将にしてあげた事といえば何不自由なく育てて来たという打算的な、形だけの愛情しか思いつかない。

 でも形とて決して不必要なものでもなく、それに窮している者はいくらでも存在するのだ。有事の際に初めて思う己が真意。それを感じた沙也加はその遅過ぎた憂慮を覆すべくその身を律し、女中達には親切な態度で接し、夫にも礼を尽くすような振る舞いを心掛けるのだった。

 この日沙也加は夫と共に息子の一将を家に招待して豪勢な酒と料理を振る舞い、出来る限りのもてなしをするのだった。

「いらしゃいまし若様」

 丁寧な挨拶をしてくれる女中は一将の顔を見るなり頬を赤らめ部屋へと案内する。今更案内されるまでもないのだが、それに従う一将にも品位が漂う。両親に挨拶をしてから席に着き促されるままに酒を口にする一将。

 ブランデーが好物であった沙也加は迷う事なくそれを息子に勧めて彼の顔色を確かめる。実に良い飲みっぷりを示した一将はこう表現した。

「有り難う母さん、このブランデーは母さんに負けないぐらいに甘美な味わいと綺麗な姿を自慢してるように感じるよ、正に母さんにぴったりなお酒だよ」

 沙也加は褒められているのか貶されているのかよく分からない風だったが、一将の表情から感じ取れる事に裏は無い。そう思った彼女はあるがままの想いを口にする。

「まるで私の身体を味わったみたいな言い方をするのね、でも嬉しいわ、流石は我が息子よ、一弘なら何も感じなかったかもしれないわ」

 この間父一弘は息子に対して少し嫉妬していた。いやらしい言い方になるのだが沙也加は年を取ったとはいえその身体は以前のまま若々しくも妖艶で、のれなりの張りを保っているように見える。それが年期を重ねて美しく熟れて行く様は夫である一彦としても放置し難いものがあった。

 だが彼女と最期に契りを交わしたのはもう何年前の事か覚えてもいない。余り性格が一致しない二人は何時の間にか年を取ってしまい、愛情などというものはとっくに消え失せてしまっていたのかもしれない。それを今になって息子の方から投げ掛けられるとは情けない話である。

 夫の目など全く気にする様子がない沙也加はドレスアップした容姿を見せつけるようにして一将の前に立ち、自ら酌をするのだった。

「遠慮せずに思う存分召し上がれ」

「ありがとう」

 こうして親子三者は酒に酔いながら料理に手を付け、思い出話などをして大いに盛り上がる。その中でも一将が高校生時分に知り合った優子との恋路は幼子のように沙也加の胸を弾ませる。

「で、貴方優子さんとは巧く行ってるの?」

「まぁな、昨日久しぶりに会った所だよ」

「そうだったのね、なるほど......」

 この一瞬一将の目には母の表情が卑猥に映った。その表情の変化は当然一彦にも感じられた。気の利く女中はこの如何ともし難い空気の中に居場所を見つけるのに窮していた。それに耐えきれなかった一人が一将に酌をする。

「どうぞ、若様」

「ありがとう」

 こうして一家の晩餐は終焉を告げるのだが、沙也加が胸の内秘めていた事は別に息子に対する邪な想いでは無い。あくまでも母としての純粋な想いを久しぶりに告げたかっただけなのである。とはいえ息子の事を一人の男として見ていたのも事実ではある。

 そんな母の厚いもてなしを受けた一将が感じた事も一つであった。たとえ今日の母が気まぐれでした事であっても、それを穢してはいけない、この優雅な生活を潰してはいけない。そう感じた一将は改めて次期社長としての矜持を胸に、そして両親に報いるべく一層精進して行く覚悟をする。たとえ行く末がどうなろうとも。

 

 

 

 

 

 

 

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