人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

もし諸葛亮孔明が源平合戦に参戦していたなら

 

 

           頑なな  心和らぐ  夏の喜雨(笑)

 

 

 いやいや、連日の酷暑の中に見る雨は本当に有難いものです。心安らかに迎える盆。これこそが日本の美の神髄であり花鳥風月だと思う所であります^^

 という事で今日はあの天才軍師、諸葛孔明がもし源平合戦に参戦していたならばどうなっていたか? という甚だ滑稽で歴史を語る上ではタブーとも言われているifについて綴って行きたい次第なのですが、何卒ご容赦頂きたく存じます。

 

そもそも源平合戦自体が起きていたのか?

 ますはここですよね。孔明が居たなら一連の源平の戦い自体が発生していたか? これすら無ければ話は始まらない訳なのですけど、戦が起きていなかった可能性を否定する事も出来ません。

  元々武士が台頭する事を願っていた源平の両雄、源義朝平清盛保元の乱では共に手を取り戦い抜きました。これに依って左大臣藤原頼長は自ら武士の世を招いてしまうといった間抜け極まりない愚行を露見してしまった訳ですが、一番不憫なのは崇徳上皇ですよね。自分ははっきり言って後白河天皇よりも崇徳上皇の方が好きでしたね。

 一連の源平合戦の発端がこの保元の乱にあるとすれば、孔明はまずこれを起こさないよう勤めたのではないかとも思われます。両雄並び立たずとはいえ源氏と平氏は何も不倶戴天の仲では無かった筈です。ならば奥州藤原氏のように源氏と平氏、そして奥州藤原氏三者が互いの力を牽制し合って共存共栄を図って行く事こそが大道と思うのではないでしょうか。

 奥州藤原氏は敢えて日和見主義的な立ち位置に固執していましたが、別に腑抜けになっていたとも思えません。正に三国志なのです。小さな諍いこそあれどこの三者が手に手を取って世を平定していれば良かったのです。そうすれば内裏で権力を振るっていた藤原氏もその力は次第に弱まり、武士を侮るような事もしなかったと思います。

 

源氏方に付いた場合

平治の乱 


 まずは平治の乱ですね。これも同じです、義朝は軽率過ぎましたね。孔明がいれば清盛と敵対するような馬鹿な真似はさせなかったと思います。

 とはいえ起きてしまった事に文句をつけても始まりません。当時はまだ平家の方が勢力に勝っていたと思われるので真っ向勝負を挑んでも負けていたでしょう。となれば源氏には力を養う猶予が必要です。

 そこで頼るべきは奥州藤原氏なのです。こういう時の為の奥州、三者三様の特性が発揮されるのです。そして力を蓄えた後、改めて平家と相対すると。孔明ならではの実に良い策ですね^^

 

木曾義仲


 この人も武には長けていましたが知に劣る所の多い武将でしたね。性格的には男らしくて好きだったのですけど。

 義仲は実に目覚ましい活躍をして平家を圧倒して行きましたが上洛したのがまずかったですね。孔明なら決して上洛はさせなかったでしょう。これも奥州藤原同様に自分達だけで一大勢力を保持していれば良かったのです。ならば頼朝とてそう簡単には手出し出来なかったでしょう。源氏の棟梁はあくまでも嫡流である頼朝なのですから、それに抗ってどないすんねんという話ですよね。

 こればかりは如何に天才軍師孔明が付いていたとしてもどうにもならない事です。

 

源義経


 正に不運の武将義経で、あれだけの功を上げたというのにその最期は実に御労しい限りでした。でもここでこそ孔明の真の力が発揮されると思います。

 まずは獅子身中の虫梶原景時を処罰する事です。こんな無能極まりない奴に足を引っ張られていた義経が不憫で仕方ありません。

 この者を処罰する方法や大義名分はいくらでもあります。

1-このままなら平家に負ける可能性があります、邪魔なだけなので引っ込んで頂くようにと頼朝に言上する。

2-元々は平氏の武将で裏切者なので平家側に殺させる。

3-いっそ暗殺してしまう。仮に頼朝に疑われても義経抜きでは戦いにならないので心配

 には及ばない。

 そして大前提として兄頼朝を信用してはならないと念を押す。義経は人が好過ぎますね。無論それこそが義経の魅力でもある訳ですけど。壇ノ浦で勝利した後朝廷に匿って貰うのもよし、奥州藤原が頼りないのであれば壇ノ浦の後直ぐ返す刀で鎌倉(頼朝)を滅ぼすのもよし。

 もっと狡猾に立ち回るべきでしたね。

 

平家方に付いた場合 

 源氏に付く場合と真逆になって来る訳なのですが、保元m平治の乱までは清盛は連戦連勝していましたから、源平合戦の途中からという話になって来ると思うのですが、平治の乱で勝利した後、常盤御前からの懇請があったとはいえ頼朝、なか義経兄弟を抹殺するべきでしたね。完全に後顧の憂いを絶てなかった清盛はまだ甘いです。所詮は人の子だったという事でしょうね。

 清盛が世を去った後、一気に弱体化して行った平家の勢力では義仲に勝つ事は出来なかったでしょう。これも孔明の奇策を持ってすれば何とか持ち堪える事も出来たかもしれませんが、時としては負けを認める度量の広さも必要です。

 そして西国に退く折り、安徳帝を伴って行く訳ですが、これではまだ弱いですね。いっそ後白河法皇を引き連れて行くべきだったのです。そうすれば流石の源氏もそうやすやすとは追って来れなかったでしょう。

 それでも義経の勢力は侮れません。そこで奥州藤原にも繋ぎを入れるのです。奥州も源平がはっきり勝敗をつけてしまう事は望んでいなかった筈です。そうなれば喜んで源氏の背後を襲ってくれたと思います。奥州藤原氏は結局何もしませんでしたね。せっかくの力を持て余していただけです。いくら平和主義に徹していたとはいえ、奥州藤原の元を作り上げた藤原経清もそこまで事を傍観するようなやり方を望んではいなかったでしょう。

 こうして孔明の策に依って一連の源平の動乱も実に賢い終焉を遂げていたと思われますね。孔明のような名軍師さえ居れば事は美しく収まるのですね。

 

 という事で以上、諸葛亮孔明の偉大さを改めて考えてみるといった稚拙な記事でした(笑) 孔明が総理大臣になっていたらと言われても、時代が全然違いますからその真意は測りかねるでしょうね。曹操も乱世の奸雄でしたが治世では能臣。今の時世でどれだけ活躍出来たかは未知数だと思います。

 引き続き小説の方も宜しくお願い致します 😉