人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

哂う疵跡  八話

 

 

 森羅万象。樹木が限りなく茂り並ぶ森羅、万物のあらゆる現象である万象。是れ全ては宇宙に存在する一切の現象であってものでもある。然るに有形無形に象られる人の心の赴きには常が無いと解釈する事も出来るのであるとすれば、今回一将が執った所業も決して浅はかなものでも無いような気もしないでもない。

 だがその真意を探ろうとする親の気持ちはどう扱えば良いものだろうか。一将は別に若気の至りでした事では無い。その想いだけでも理解して欲しくて文を認めていたのだった。

 続きを読む父一彦の表情は次第に険しくなって来る。

『自分が赴く場所は極道の世界です、でも決して親不孝をする気などはありません、あくまでも修行であり自らに与えた試練なのです、今直ぐ理解して頂く事は無理かもしれませんが、どうか長い目で見守っていて下さいますようお願い致します』

 読み終えた一彦はその文を破り捨てようとしたのだが途中で思い直す。何故手が止まったかは自分でも分からない。でも己が息子に抱く猜疑心は信頼には遙かに及ばない脆弱さを現す。

 だからといって息子を許す訳でもないのだが、事ここに至ったからにはその行く末を見守る事でしか親としての矜持を示す事が出来ない自分を不甲斐なくも微笑ましく省みながら日々の生活に戻る一彦だった。

 彼は妻の沙也加には適当に言って誤魔化し、改めて社員一同の前で一弘を次期社長に据える事を報告し挨拶をさせる。

「まだまだ不肖の身ではありますが、皆様の胸を借りるつもりで誠心誠意努力し兄一将に負けないよう精進して行く覚悟ですのでどうぞ宜しくお願い致します」 

 拍手で応えてくれた社員達の優しさは一彦一弘親子を感動させた。あとはその言葉に見合った行動を執るだけである。

 思想と行動が一致する事に依って初めて生まれる形。どんなに立派な思想を持っていても行動に出せない事には何の意味も無いと言う人もいるが果てしてその通りなのだろうか。

 一見尤もらしく聞こえるその言い方も実は少し底の浅い思慮であるような気もしないではない。何故なら思想無くして行動もクソもないとも思われるからである。その逆も然りで行動無くして思想は認められないというのが一般論ではあろう。

 でも思想を皆の面前で高らかに謳う事に依って心新たに行動しようと思う人の心持は決して先に身体が動くといった性格上の話だけに留まる事はないだろう。ならば思想を抱く事だけでも立派な所作であると言わねばならない気もする。

 行動と思想、見識。この二つを有形無形に例えた場合、やはり行動が有で思想は無に属するような気もするのだが、この二つの形が合致してこそ初めて大いなる力が生まれるのである。

 その力を養うべく精進する一弘の姿は精悍で凛々しく、実に頼もしい心根を皆に訴えていたのだった。

 弟の覚悟を理屈抜きに感じていた兄一将も己が人生に勤しんでいた。今や日本を二分するアウトロー団体の一方の雄である山誠会の二次団体、神田組にいきなり舎弟入りするという形で大抜擢された一将は、兄貴分である宇佐美組長共々に組織の中枢で働く事になる。それは実に有難い事ではあるのだが、一将は自分を謙遜したのかある進言を口にするのだった。

「組長、やはり自分のようなついさっきまで堅気のトーシローであった者がいきなり舎弟になる事は要らぬ災いを招く事になりかねないとも思われるので、部屋住みから始めたいのですがどうでしょう?」

 宇佐美はそんな弟分の律儀な姿勢を見て改めて甘い言を投げ掛ける。

「流石だな、だが心配する事はねー、お前をいきなり舎弟にしたのにはそれなりの考えがあるからさ、いいからドンと構えておけって」

 その甘言を額面通りに受け取る一将でも無かったが、宇佐美に逆らえる訳もなく、取り合えずは彼の手となり足となり、言われるがままに身を任せ動いていたのだった。

 

 

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 一言に月日の経つのは早いといってもそれこそ千差万別、十人十色の価値観に依る所が多いような気もする。例えば幼い子供達が思う時間に対する概念と、大人が感じるそれとは明らかに隔たりがあるのは事実である。

 小学生や中学生、高校生が5、6時間目にも及ぶ一日の授業の行程も社会人として働いている大人にとてはまだ短く感じられる。だがそれを短いと感じない学生達の心持はただ時間に対する概念性だけではなく、寧ろ一刻も早く授業を終え遊びたいといった、自由を求める素直な気持ちが表す時間への反逆性から生じる想いではあるまいか。

 それとは対照的に時間の経過が早いと思う大人は仕事に専念する余り、或る意味では時間を無駄に過ごしているような気もしないでは無い。

 何れにしてもこのような稚拙な思慮を巡らす事自体が世の流れに抗っているようにも思える訳なのだが、殊自分の人生に於いてはその時間が如何に大切であるかを改めて自分に言い聞かせる一将はまた久しぶりに優子に会いたくなって仕方がなかった。

 いつの間にか9月中旬になったこの時期に見る街の光景は実に麗しい秋の装いに充ちた自然と人々の優雅な姿だった。

 もはや蝉の鳴き声など全く聞こえなくなった街路には色鮮やかな紅葉に銀杏、ハナミズキ等の美しい樹々が佇んでいる。中でもハナミズキがその葉を緑から赤へと変色して行く様はまるで童が成長して行くような可憐にも誠実で、己が姿を目一杯咲き誇らせたいといった素直な夢を漂わす。

 その行程こそが見事な過程であって、結果を急がない自然の理はやはり人間などには遙かに及ばない神仏の領域であるように思える。

 季節毎にきっちりと姿を現す自然を横目にしてその様に抗う事なく悠然とした態度で現れる優子もまた、自然の恵みを存分に受けながら生きている一人である。彼女は季節感のある綺麗な容姿で一将の前に現れた。黄緑色の服は少し赤みがかっているようにも見える。そこに靡かせる長い髪は風が吹く度にその衣服と辺り一帯を綺麗な色に染めて行く力を感じさせる。それに敏感に反応するあらゆるものは彼女に恩返しをするかのように更に美しい姿を見せつける。

 この美の循環こそが人の心を安んじる正の連鎖であるのではあるまいか。そこには一切の負が形を現さない。

  自然と融合する優子は或る意味最高最強の女神の化身になったのかもしれない。会う毎に進化する彼女の姿は一将をまた初心な青春時代へと誘(いざな)うのだった。

「しかし何時見ても綺麗だな~、お前は本当に女神なのか?」

 そんな一将の言を笑いながらも少し照れたように答える優子。

「何言ってんのよ、ほら、行くわよ」

「行くって何処に?」

「それは分からないわよ、取り合えず立つのよ、そうしないと何も始まらないでしょ」

 確かにその通りではある。二人は行先も決めぬまま歩き出す。静々と粛々と、そして果敢に。だがこれも二人には何時もの事で今までも大した予定を立てていなかった逢瀬は反って胸が躍るものでもある。

 何処の角度で、何処に向かって、何を求めて。そんな目的などは邪魔なだけである。互いの素直な心の赴くままに進む道。ここにこそ真の情愛が生まれるような気もしないではない。

 それはあての無い旅で、ただ人生に彷徨うだけの頼りない非力さを漂わせているようにも見えるのだが、無論その限りでは無い。あてが無いからこそ生まれる素晴らしい発展があるのである。そこにこそ真の充実感、真の喜び、真の生きる意味が見出されるのではなかろうか。

「さ、ここにを渡るわよ」

 こことは何処なのだろうか。それは一将の目には単なる道に見えるのだが、優子にはどう映ったのだろう。そこを渡り切ってから言葉を交わす二人は互いの心を包み隠さず、全てを解き放つが如く清純な童に帰ったのである。

  渡ってこその橋、その橋を形だけでも渡り切った二人は今正に一心同体になり美しい形を己が姿に現すのであった。

 

 

 

 

 

 

 

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