哂う疵跡 九話
また一つ橋を渡り終えた二人は互いの身体に内在する力を分け与えるよう、そして倍増させて行くような逞しい男女に成長して行く。
一将の凛々しくも愛らしく、豪胆にも堅実な為人は優子を安心させ、優子の聡明でお淑やかながらも威風堂々と事にあたる荘厳な佇まいは一将を心強くさせる。
男女の営みが織りなす世界には情愛や傾慕は言うに及ばず心身ともに人を強くさせるといった恩恵までもが含まれているような気もする。それを体現する事に依って更なる力が生まれる事こそが万物の成長であって美しい流れでもある。
一夜を明かした二人は朝露に濡れた葉から零れ落ちる一滴の汗を窓外に眺めながら肩を寄せ合い語り始める。
「何時になく熱かったじゃないの」
「お前もな」
優子は流し目で一将の背中にある大きな傷痕を手でなぞりながら、少し切ない表情を浮かべて言い表す。
「この傷、私が原因で付けてしまった傷なのよねぇ、もう痛みは無いの?」
「もう何ともないさ、そんな事思い出させるなよ」
「いや、言わせて、私本当に感謝してるのよ、あの時貴方が来てくれてなかったらどうなっていた事か、貴方三人も相手にしてよく勝てたわよね、格闘技でもしてたの?」
「ただ喧嘩慣れしてるだけさ、それにあんな奴は大した事ないよ、もっと強い奴等なら負けてただろうけどな」
「でもこの傷痕、余りにも大きいし目立つわねどうにかして消す方法はないかしらね」
「その話はもういい、それよりお前、仕事の方は巧くやってるのか?」
「まだまだだけど、何とかやってるわよ、そうだ、私がちゃんとした医師になった暁にはこの傷痕を綺麗に決してあげるわよ、ね! 楽しみにしてて!」
一将は軽く笑って優子に接吻する。重なり合う二人の唇は甘くも聖らかな味わいを具現化し、互いの心に優しくも神々しいまでの一筋の光を投げ掛ける。その光を受ける二人はこの一瞬だけでも神に近付く事が出来たのではあるまいか。
改めて顔を見合わす二人は笑みを浮かべながらその将来を夢見るのであった。
一将に代わって跡を継いだ弟の一弘は挨拶で述べたように誠心誠意グループの経営に心血を注ぎながらその勤めに勤しんでいた。
父一彦も全身全霊で息子の後押しをしてくれる。この実に有難い親子愛は一将の頃には感じられなかった事かもしれない。無論それは一弘の頼りなさを立証する事でもある。だがそれ故にこそ育まれる親子愛。これを今更ながらに感じとった会長の一彦はまるで若い頃に帰ったかのようにばりばりと業務を熟して行くのだった。
会長は一弘のデスクに帳簿を開いて見せて来た。
「おい、これを見てどう思う? いいからありのままに答えてみなさい」
一弘はその帳簿に隅々まで目を通して答える。
「はっきり言ってヤバいね」
「何がどうヤバいんだ?」
「数字は減少の一途を辿っている、このままじゃ会社は持たないな」
「何を悠長な事を言ってるんだ、それだけか?」
「それだけって?」
「もっとよく見てみろ、僅かだが業績が伸びている時もあるだろ」
「まぁあるにはあるけど、それがどうしたんだよ?」
「お前幾つになったんだ? 小学生じゃあるまいし、一から十まで言わせるなよ、何故その良い数字に目が向けられないんだ? 本当にヤル気あるのか?」
一弘は言い返したかったのだが、まだ会長の本心が見えて来ないといった様子で項垂れていた。考えても答えは出て来そうにない。改めて訊き始めようとする一弘。会長はその寸前に先に口を切って来た。
「何故その時だけでも数字が上がったのか、それだけを考えて仕事に専念しろ!」
会長はそれだけを言い置いて立ち去る。一弘には一つだけ思い付いた事があった。数字が上がっている時の成果は全て兄一将が自ら営業をしていた時だったのだった。
弟に比べて兄の一将は相変わらずといった感じで出世街道まっしぐらと言わんばかりの目覚ましい成長を遂げていた。
不動産の営業の経験があった彼は神田組でも同じく不動産部門で華麗に立ち回り、亦金融業でも大いに業績を上げて行き、もはやそのシノギは組内でもナンバー1に躍り出ていたのだった。
それを一番喜んでくれるのは他でもない組長の宇佐美である。彼は一将の到来を誰よりも喜びまるで子供のような微笑みを投げ掛ける。
「お前は最高だよ、このままじゃ俺の立場がねーな、今のうちに覚悟する必要があるかもな」
たとえベンチャラでもこの宇佐美の言が一将を大いに勇気づける。
「何を言ってるんですか組長、自分はまだまだひよっこです、ただ真面目に仕事をしてるだけですよ」
「そうか、まぁいい、でもお前も俺の舎弟なんだから何時までも一人って訳には行かねーぞ、そろそろ一家を持たないとな」
それはまだ極道社会に疎い一将には理解し難い事でもあった。
「しかし、自分みたいな新参者がいきなり一家を持ってしまえばどれだけの反感を買う事になるか分かったものじゃありません、自分は今のままでいいです」
さっきまで快く笑っていた宇佐美は少々不機嫌になった様子で少し語気を強めて一将に言って来る。
「じゃあお前、一体何をしにヤクザになったんだおい? ただ金儲けがしたかっただけなのか? それなら自分とこの会社で頑張ってたら済む事だろ、俺達はあくまでもヤクザなんだぞ、どう考えてるんだおぃ」
一将は改めて宇佐美の恐さを知ったような気がしていた。確かにその通りではある。だがその問いに即答出来ない自分も歯痒くて仕方ない。
でもこういう時にこそ優子が頼もしい味方となってくれるのだった。彼女は何時も言っていた。
「貴方に一つ足りない所があるとすれば、それは賢過ぎる所よ」
「お前の方が賢いじゃないか」
「いや、貴方のはちょっと違うのよ、はっきり言って可愛くないのよ、特に親御さんはそう見てるんじゃないかな、別に知ったかぶりする訳じゃないけど、勿論私は好きだけどね、もうちょっとでも馬鹿になったら?」
馬鹿になれとは世間でよく言われている事でもあるのだが、それを額面通りに受け取る必要性は如何ほどなのだろうか。それを現代日本社会に当て嵌めた場合、現代人は必要以上に馬鹿になり過ぎているようにも思えないでも無い。
一寸の虫にも五分の魂でたとえ一庶民であったとしてももう少しでもその身を律し、意識を高く持ち志、心意気、心根を育んで生きて行く必要もあるのではなかろうか。それは取りも直さずあらゆる生命が持って生まれた矜持へと繋がって行くような気もする。それさえ失ってしまった者は正に生きたまま死んだ事になるのである。
生命の根源である魂。その息吹を感じた身体が現す所業。これこそが美しい生命の循環であって美しい流れでもある。
ならばそこに見出される今の一将の想いはどういう形を彩るのか。
「分かりました、自分が間違っていました、組長の言う通りであります、一家を持つ方向で精進して行きたいと思います」
「よし分かった! お前の本心しかと聞き届けた、それでこそ俺の舎弟だ、俺達ヤクザは行く道は行くしかねーんだよ、それに一家を持ってもいない者をいくら舎弟とはいえ本家で紹介する事は恥ずかしいからな、ま、俺に任せておけ」
「有り難う御座います」
一将が言い放った事は本当に真実だったのだろうか。それは本人にさえ分からない。だが極道社会に足を踏み入れた彼が一家の長になる事は実に目出度く大業を成した事になるのは言うまでもない。
問題は彼の胸底深くに眠る真意である。それを未だ引き出す事が出来ない一将も所詮は弟同様まだ幼い青年に過ぎないのだろうか。
兄弟が歩み始めた二つの異なる世界。それは図らずも二人の心に滞在する心根に依って形を現すのであった。
樹々が鮮やかに色を付け始め、涼やかな風を運んでくれる秋の美しい景色はそんな二人を黄昏れさせるのに十分であった。
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