人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

盆の締め括り  総括 ~新たなる旅立ち

 

 

           送り盆  浮世に廻る  儚さよ(笑)

 

 

 いやいや、この前始まったばかりの盆ももはや終わりとは、本当に早いです。自分としては相変わらず世の無常を感じずにはいられないという所なのですが。

 とはいえ何時までも嘆いている訳にも行かず、ブログを執筆する事に依って心にめりはりをつけたいと思う次第です^^

 

総括

 まずは総括ですね。これを忘れてはいけません。物事には順番というものがあってこれを飛ばして次の段階に進む事は出来ない、いや、してはいけないと思う所なのですが、どうも現代社会はこの総括を忘れているような気がしますね~ 😔

 ま、愚痴はよしましょう。要は自分がそう心掛ければ良いだけの話ですね。

 

その壱 終戦記念日


 8月15日といえば終戦記念日。これだけは忘れようとしても思い出せません(バカボンパパ風)、いや忘れてはいけない事です。

 戦没者、その尊き英霊の魂達を送り迎えする日がちょうど盆である事は正に色即是空、因果因縁を感じる所であります。

 ただ一言に終戦、戦争と言っても、歴史を振り返る上では色んな想いが胸をよぎるのですが、戦争は絶体してはならないという事は言うに及ばず、戦後の日本の歩んで来た道についても些かなりとも疑問が残ってしまうのは自分の浅はかながらも神経質な性質に起因する、或る意味では己惚れに値するかもしれません。

 ですが想いは想いとしてどうしても書き留めておきたいので何分ご容赦願います。

 結論から言えば温(ぬる)いという話ですね。戦争反対という考えは無論自分も同じなのですが、戦後の日本の取って来た道はどうもおかしいと思ってしまいます。それは是非にも及ばない事ではありますが、二元論に依って進んで来たが故にこそ感じられるこの現状を憂わずにはいられないという話ですね。

 一言に戦争と言っても昔は多くの国々で戦争、紛争が起きていました。今でもそうです。古より戦争、紛争が絶えた事が一度も無い事は歴史が証明しています。日本でいえばそれこそ源平の動乱期、鎌倉時代末期から室町時代初期。戦国時代、そして幕末、明治維新と。

 近代に於いても日清、日露戦争第一次世界大戦第二次世界大戦、そし太平洋戦争と。世界史で見ればその数は何倍にも膨れ上がります。それなのにいくら侵略戦争に明け暮れていたとはいえ日本だけが責められる、亦卑屈になる必要などあるのでしょうか。世界でも唯一の被爆国であるとはいえアメリカもイギリスもドイツも戦争に明け暮れていました。そられの国々は良くて日本はダメみたいに言われている感じがして仕方ありません。それに戦勝国があれば敗戦国があるのも当たり前で、負けた国は日本だけではありません。でありながら日本は未だにアメリカの属国も動揺というのはどう考えても矛盾しています。

 もはや今の日本は軍事的、経済的、精神的、道徳的とあらゆる面で世界最弱小国に成り下がってしまったと言っても過言ではないでしょう。

 それは即ち日本という国が元々弱かったのでは? とも考えさせられるのでありますが決してそんな事は無いと思います。

 なら数ある敗戦国の中で何故日本だけがここまで骨抜きにされてしまったのか。それこそが当時のGHQの目論見だったという人もいますが、その通りかもしれません。

 何れにしても治世=温いという事にはならないと思います。ここまで平和ボケした国は日本しか無いのではと思います。この自体を打破するにはやはり憲法改正しか道は無いと思われるのですが、無論右左の二元論ではありません。本来の日本を取り戻して欲しいと節に願う、あくまでも純粋な気持ちから来るものです。

 幕末から明治初頭に掛けて命を落として行った維新の獅子達、戦没者、その英霊の魂達はこの日本の現状を見て本当に平和になって良かったと心底思っているのでしょうか。自分にはとてもじゃないですけどそうは思えません。

 無論一概に言えるものでもないのですが、年間2万人もの自殺者がいる今の日本が平和な筈が無いと思います。ま、真の平和などというものは存在しないのかもしれませんが、その英霊の魂達に直接訊いてみたいぐらいですね。

 またまた硬い話になってしまい恐縮です。

 

その弐 自分がした事 


 偉そうな事ばかり言って来ましたがはっきり言って今年の盆も自分は何もしていません。情けない限りです。墓参りすら行っていません。ですが心で墓参はしました。それは毎日の事です。特別な日にこそ実際に行動するべきとも思いますが、どちらかといえば日々心掛ける事の方が大事と思っています。

 強いてした事と挙げるとすれば銭湯に行きサウナに入って汗をかいた。ブログ執筆を欠かさず行っているという事ぐらいでしょうか。あとは寝て観る夢を観ましたね。

 それは昨晩の話です。眠りが浅い自分はしょっちゅう夢を観る訳ですけど、昨晩観た夢も実に奇々怪々な内容でした。

 それは何処なのか、何をしているのか、はっきりと分かる事は何一つありません。分かる事があるとすれば自分は明らかにそこに居る。そして何かをしているといった余りにも漠然とした様子だけです。

 でもそこに出て来る人達は皆笑顔で前向きに生活していました。実社会か黄泉の世界なのか天国なのか。そこでは一切の煩悩から解放され、解脱したかのように愚痴や文句を口にする者は一人もいないのです。その中にあっては流石の自分も愚痴などを言う気にはなれず、ただ心穏やかに振る舞っているだけでした。

 そして目が覚めたのですが、夢の内容は自分でも何一つ解明する事は出来ませんでした。元々夢とはそうしたもののような気もしますが、ここまで訳が分からない夢を観たのも初めてでしたね。正に陽炎、蜃気楼のような余りにも淡い夢でしたね 😮

 

新たなる旅立ち 

 そこで胸に想った事は正にこれからの人生、己が進むべき道ですね。

 これは夢とは違ってもっと具体的に考えて行く必要があると思うのですが、この具体的と抽象的という二つの対照的な言葉も対義語であって実は同じものであるような気もしないでもありません。

 別に先人達が作り上げた素晴らしい言葉に抗う訳でもありませんが、要は二極一対、表裏一体、紙一重で、言葉は心の表れで心は言葉を生みだす源であります。

 その源から発せられた想いも言葉も多少の差異はあれど元は同じで、それは素晴らしくも美しい一つの原石なのです。その原石を下手に言葉に表す事に依って価値を損なってしまう場合もあります。

 ならば何も言わないのか? といった短絡的な二元論ではありません。それを如何に磨いて更に美しく表現して行くかに懸かって来ると思います。

 それは取りも直さず「水魚の交わり」という事でもあります。魚水無くば魚足り得ず、水魚無くば水足り得ず。人間の心と言葉は正に水と魚の関係と同じで心も言葉も美しい原石に依って初めて生まれ来る一つの形であると思います。

 その原石から生まれた形を如何にして育んで行くか。その想いさえあれば決意は自ずと具現化されて行きます。その具現化された形を守り切る事も重要です。叶えただけでは真の夢とは言えません。寧ろ守る事の方が難しいでしょう。

 

 という事で以上、盆の締めからの新たなる旅立ちを夢観る稚拙な記事でした(笑) 

 たとえ終わってしまっても心の盆、心の正月は常に人間生命に深く滞在しています。しかしめりはりを付ける事も大切です。新たなる未来に向けて日々精進し、その原石を一層美しく磨き上げて行きたい所ですね 😉