哂う疵跡 十一話
会長は悔やんでいた。一弘に止められたとはいえ何故幸正などを易々と入れてしまったのか。いや、奴が現れてしまったというその因果自体を。
その後幸正は強引に追い出されはしたものの、一弘の胸の内には彼が口にした事がはっきりと刻み込まれてある。兄と違って人の好い一弘は幸正の事が忘れないだろう。それは次期社長となった今の彼には余りにも大きな問題で、グループの行く末も危ぶまれる事は言うまでもない。
「やはり是が非でも一将を引き留めておくべきだったかぁ」
暗澹たる思いで呟く会長の一彦にはもはや次なる策が無かったのだった。悔いても及ばぬ事ながらも悔いずにはいられない。これも人間の性なのかもしれない。
「何故そんな者を容易く中へ入れてしまうのですか? 私がいたなら即刻追い出していましたわ、貴方も一弘もほんとにお人好しなんだから、似た者親子とはこの事よ」
相変わらず鼻っ柱だけは強い一彦の妻沙也加はこんな感じで次々に夫を責め立てる。
「だから言ったじゃないか、いっそお前が経営に参加すればいいんだって」
「それとこれとは別ですわ、会社経営に全く無知な私なんかが入った所で何のお役に立ちますのよ、揶揄わないで下さい」
「別に揶揄ってなんかないさ、仕事なんて部下にやらせとけばいいんだよ、俺達はあくまでも心意気だけを示していればいいんだ」
「なるほどね、だから貴方はダメなのよ、一将を見て御覧なさいよ、あの子は何時も自分自身で汗水垂らして必死に仕事してたじゃない、だからこそ部下にも信頼されていたのよ、貴方なんて社長時代から何一つ自分ではしなかったじゃない、それが原因でこうなってしまったのよ」
「それなら何故一将を引き留めなかったんだ? お前だって俺の事は責められないぞ」
二人は沈黙した。確かにその通りである。一将を社長に据えておけば、経営が悪化したこの状況でも何とかやって行ける可能性はあった。沙也加とて贅沢な生活が続けられていたかもしれないのだ。それをみすみす失ってしまうとは何と愚かな事であろうか。
互いの非力さを改めて痛感した二人は歌を忘れたカナリヤのように言葉を失い、ただ項垂れるだけであった。
悪い予感ほど当たるもので、幸正の事が気になっていた一弘は早速人目を忍んで彼に会いに行っていた。
美しい秋の夕暮れ時によりによって幸正のような者と会う事は何とも勿体なく、それは自然に対しても比例に値するような気さえする。
だが万物に平等に恵みを与えてくれる自然とはつくづく有難いもので、色鮮やかな樹々に草花、涼やかにそよぐ風、今にも沈みそうでなかなか沈まない夕陽はまるで映画のワンシーンのような風情のある演出で二人をもてなしてくれる。
有難くも何処か切ないこの情景の中に姿を現す二人。その表情は未だ互いを警戒するような緊迫した雰囲気を漂わしていたのだが、幸正のとった想定外の行動がそれを早くも壊してしまった。
馴れ馴れしくも一弘と肩を組んで口を開き出す幸正は未だに己が立場を理解していないように見える。
「なぁ一弘よ、お前何で俺を助けくれなかったんだおい、あれからの俺は路頭に迷い一文無しになってしまったんだぜ、取り合えずいくらか回してくれよ」
幸正の手を振り解いた一弘は険しい表情で語気を強めて言い返す。
「お前は取り合えずその馴れ馴れしい態度を改めろよ、俺はもう昔の俺じゃないんだ、それと結構な金を貰ったんだろ? もう使ったのか、何れにしても金なんて一銭も渡せないけどな」
「ふん、お前も変わったな、昔の人懐こい一弘は何処に行っちまったんだよ」
「いいからこの前言ってた事の続きをさっさと謳えよ」
「それが人にものを訊く態度かよ、お前から会おうと言って来たんだぞ」
「俺は一応会いに来てやっただけだよ、嫌なら別にいいさ、俺は帰るよ」
「ちょっと待てって! 分かったよ」
稚拙にも思える二人の駆け引きは何処に落とし所を持って行こうと言うのか。秋の夕暮れは何ら口出ししないまま、二人を優しく見守るだけであった。
一家を束ねるようになった一将は名実共に宇佐美の舎弟になり、今まで以上に精進するべく任侠道に励んでいた。
神田組でもシノギがトップクラスであった彼の事を羨みこそすれ咎める者など無論一人もいない。しかし羨みが恨みや妬みに変わる可能性を憂慮していた一将は常に警戒心を保ち他の組織とも巧くやって行く事だけを念頭に置きながら日々を過ごす。
そんな中一本の電話が掛かって来る。
「はい神将組、あ、親分ですか、少々お待ちを」
「宇佐美の親分です」
「おう」
電話を受け継いだ一将は何時になく神妙な面持ちで話し始める。
「兄貴、ご苦労様です、何かありましたか?」
「いや、大した事じゃねーんだが、ちょっと会わねーか?」
「分かりました」
「じゃあ今から迎えに行くよ」
わざわざ迎えに来てくれるという宇佐美の真意は如何に。少し怪訝そうな顔をする一将を心配した子分はあらぬ言葉を口にする。
「組長、大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「いや、宇佐美の親分とこ最近羽振りが悪いみたいですし、ひょっとすると......」
「ひょっとすると何だ?」
「いや、組長の事妬んでるんじゃないかと、それで組長を舎弟にした事を後悔してるんじゃないかと思われまして」
その刹那、一将は子分に強烈な一撃を見舞い、胸倉を掴んで烈しい怒声を浴びせた。
「お前喧嘩売ってんのかおい、無い腹探ってんじゃねーぞゴラ、今度そんな事言ったらただじゃ済まさねーからな、分かったか!」
「すいませんでした!」
一将の圧力に屈した子分は、自分の親分が腕っぷしも強い事を始めて知ったようにただ愕いていた。戦慄が走った事務所内はその一瞬、寺のような静けさを漂わせものを言う者は一人もいない。だがそれまで一将の事をただのインテリヤクザと思い込んでいた子分達は寧ろ嬉しくなり、改めて彼に忠誠を尽くす喜びを得たのかもしれない。
一将が一人事務所を出て行った後、彼等は徐に語り始める。
「大丈夫だったか?」
「ああ、結構重い一発だったよ、だけどこれで安心したぜ、あの組長、格闘技でもしてたのかな? これで出入りになっても大丈夫だろうよ」
「そうだな、頼もしいぜ」
そんな子分達を他所に宇佐美と会う事になった一将が連れて行かれた場所は銭湯だった。いきなりこんな所に連れ出した宇佐美は何を考えているのだろうか。銭湯に通う習慣が無かった一将には実に不思議な光景だった。
昼下がりの銭湯は客も少なく開放感があった。如何にもという老舗の銭湯ではあるがサウナもあって水風呂もある。二人はサウナに入り話し始める。
「ところでお前、これからどうするつもりなんだ?」
「これからとは?」
「いいから正直に言ってみろよ」
「自分はただ任侠道を全うするだけです、他意はありません」
宇佐美は少し首を傾げて外に目を移してから答えた。
「お前ははっきり言ってもうヤクザでもエリートだ、だが分からねーんだ、何でお前みたいな奴がわざわざヤクザになんかなったのかがな」
「それは以前にも言いましたように......」
「自分に試練を与えるって言うんだろ、何でそこまで自分を追い込むんだ?」
「じゃあこの際はっきり言わせて貰います」
「おう、訊かせてくれ」
「今の時代が温(ぬる)過ぎるからです、自分も勿論そんな境遇の中で生まれ育ちましたから尚更そう思うんです、特に堅気の世界はその温さを増す一方じゃありませんか、今の日本では何をしても許されるような風潮が出来上がってしまってると思うんです、それに対して極道社会はケジメが第一です、それだけでも凄いと思っていたんです」
一将の本心を知った宇佐美はほっとしたのか急に表情を緩ませて、一将の肩に手をやって答える。
「なるほど、それは大したもんだ、俺も感じていたけどな、だがヤクザの世界は口で言うほど甘くはないぞ、後悔する時は絶体に来る、それでもいいのか?」
「勿論です」
「そうか、訊くまでも無かったな」
一旦水風呂で身体を冷やしてから再度サウナに入る二人。そこで一将の背中を見た宇佐美は少し愕いていた。
「お前その傷どうしたんだ? かなり大きいな」
「これは色々ありまして」
「そうか、ま、人間色々あるよな、そうだ、入れ墨入れねーか? そうすればその傷も目立たなくなるぞ、な、そうしろって!」
宇佐美の背中には既に立派な双竜の墨が彫られてあった。二匹の竜が天高く舞い上がって行かんとするその勇ましい姿は宇佐美の均整の取れた身体をして更に美しく映る。そんな己が墨に例えるかのような事を言い表す宇佐美。
「これは昔いた兄弟分と一緒に彫った全く同じ墨なんだ、そいつは死んでしまったけどな、でもこれからはお前が居る、だからお前もこれと同じ墨を入れたらどうだ?」
一将は迷いながらもこう答えた。
「いや、自分は観音様がいいです、騎竜観音が」
「騎竜観音か、それもいいけどなぁ」
「ダメですか?」
「いや、ダメって訳じゃなーんだが、仏像関係の墨を入れたもんは優しく、大人しくなってしまうっていう迷信があるんだよ、それでなぁ」
「そうなんですか、でも自分は出来れば観音様がいいです」
「分かった、じゃあ早速知り合いの彫り師に引き合わせてやる」
「有り難う御座います」
「やっぱりヤクザは墨を入れてねーとな」
その後二人は互いの背中を洗い流して風呂を出る。そして飲みに出掛けるのだったが、今にして思えばこの二人も何かの縁で繋がっていたのだろうか。いくら先々代からの付き合いがあったとはいえ一将自身がヤクザになってしまおうとは誰も予想していなかった事である。それが今こうして仲良く振る舞う二人の姿はまるで本当の兄弟のように見えないでもない。
真っ赤に染まり切った夕暮れ時の街並みは明るく照らし出された面を美しく表現するのだが、その裏に佇む翳には一体どのような思惑があろのだろうか。少し角度を変えるだけで日向にもなってしまう物事の二面性。これが人に与える影響は計り知れない。
その翳で生きる彼等こそが、この二面性に苛まれ続ける人の断ち切れない性を見事に体現しているようにも映るのであった。
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