人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  四話

 

 

 天為とも呼べる気象が時として思いも依らぬあからさまな意思表示をする事は往々にしてあるだろう。正に小春日和であったここ数日の穏やかな気候が俄かに曇り始めたのは何かの兆しを示唆するものなのだろうか。

 とはいえ雨や嵐でもないこの現状は憂慮するにも及ばず、快活に過ごす皆の様子は決して卑屈さを表してはいない。だがその精神にも無論完全性などは保障されず、常に何かを警戒したがる英和のような繊細な人物の神経は、この薄曇りの空模様にこそ言い知れぬ不安を抱くのだった。

 この日も気が進まないまでも一応登校した彼は、相変わらず同級生達の輪の中には入って行こうとせず孤高を決め込んでいた。内面的にかなり潔癖であった彼は既に周りから敬遠される存在になっていたのかもしれないが、そんな事は全く気にならない。

 自分がヘタレである事を十分認識しているにも関わらず、もし絡んで来る者がいれば逆にシバき上げてやればいいなどという想いを胸に秘めていた彼の慢心にも似た覚悟は何処から来るのかさっぱり理解出来ない。

 だがこれといって文を付けて来る者がいなかった理由は、義久同様に出身中学が武闘派で知られていたという事に尽きるのだろうか。

 無論そんな事を盾にして高校生活を送るつもりなどさらさら無かった英和ではあろうとも、心の中では中学の同級生達にも些少の謝意は示していたのだった。

 授業を終え帰途に就く道中、先日行った姫路までの逃避行劇が脳裏を過る。これはあくまでも康明との間だけに蔵(しま)っておくべきものなのだが、数少ない友人の一人である義久を仲間外れにする事は些かなりともその胸を苦しめる。

 自宅に帰った彼は近所にある義久の家へ赴き、一緒に単車に乗って遊ぶ誘いを持ち掛けるのだった。

 英和以上に学校を嫌っていた義久は高校でも一人の友人も居ないどころか、ろくに話をする相手すらおらず、誰とも一言も口を利かないままに下校する日も度々あった。

 それを憐れむ訳でもなければ批難するつもりもない、亦人脈を広げる気もないといった少々頑なな意思は幼馴染である二人の間に共通の認識として確立されてあり、英和が声を掛けた理由も孤独から解放されたいという浅はかな感情ではなく、同士と絆を深めたいという情義から来るものだった。

 小さい敷地ながらも裏の離れに住んでいた義久は、英和が鳴らす他人の自転車の鐘の音を聴くと素早く表に出て来る。そして人目を憚る癖がある二人は暗黙の了解で港へと足を運ぶのだった。

「この前言うとった事しよか、単車は直ぐ傍に置いとうねん」

 義久はそのおぼこいながらも表情豊かな顔つきで喜びを訴える。

「やっと決心してくれたんか、でも別に無理せんでもええねんで?」

「何言うとんねん、お前との仲やんけ」

「そうか、ありがとうな」

 英和は義久のこの余りの素直さが好きだった。その裏表のない性格、稚拙なほどの露骨な感情表現、それらは潔癖である英和の心とは何故か調和が取れ、少々器用な康明と比べても明らかな安らぎを齎すものであった。

 しかし秘密を誓い合った康明の存在を当然軽視する訳にも行かず、二人して彼の下を訪れる。すると玄関先に出て来た康明は義久の姿を確認するなり心なしか怪訝そうな表情を泛べるのだった。

 三人で歩いている時康明は小声で囁く。

「お前何であいつ連れて来るねん?」

 訊かれた英和は軽く詫びを入れてから、

「ま~ええやんけ、ハミゴにしたら可哀そうやろ」

 とだけ返事をする。二人の関係が良好ではない事は誰の目にも明らかな訳なのだが、繊細であるにも関わらず人間関係にはそこまで頓着が無かった英和の性格は大らかなのでは無く、人嫌いだからこそ人を軽視する、見下してしまうといった愚かな性質から成り立っていたのかもしれない。

 康明の心境はそれを証明するものだったのだろうか。三人の若さは不安を抱えつつも立ち止まるという作業を用いようとはしなかった。

 英和と康明の単車は何れも盗難車であった。そのうえ無免許という状態で平然と公道を流していたその所業は余りに無謀過ぎるといっても良いだろう。

 港では英和が愛用していた90ccの単車で義久に軽く練習をさせてから、そのまま公道に出る。康明と英和はまたニケツで走り始める。

 何時も通りに西へ西へと単車を走らせる両者の想いには、東の都会の雑踏で起こり得る要らぬ災いを避けようとする意図があった事は言うまでもなく、西方面の走り易い道と美景を望むという共通観念があった。

 僅か数分で辿り着いた須磨水族園の前で信号待ちをしている時、康明の舌打ちに気付いた英和はその意味を訊ねる。

「どうしたんや?」

「あいつほんまモタコ(どんくさい)やな、あんな走り方で付いて来れるんかいや」

「大丈夫やろ」

 安易に返事をした英和だが、内心では心配していた。

 それから少し走った一の谷に差し掛かった頃、康明は今一度後ろを振り返って言う。

「おい、あいつマジでヤバいんちゃうか? 何処走っとんねん、ちょっと戻るわ」

 そう言って引き返した二人は驚愕の事態に直面する。義久は水族園前でいきなり白バイに捕まっていたのだった。やはり康明の不安は的中したのか。警官に捕まっている義久の姿は実に怯えた様子で、まるで幼子が親や先生に叱りつけられているかのような弱者の雰囲気だけを漂わしていた。

 康明はその場から逃げるようにして西へと走り去る。そして舞子浜で落ち着くとこう言うのだった。

「そやからあんな奴連れて来るな言うねんて、どないすんねん、あいつ絶体俺らの事謳っとうで、ヤバいぞ」

 英和は何も言わずに項垂れていた。確かに軽率だったかもしれないが、そこまで義久がどんくさいとは思いもしなかった。自責の念にも及ばない浅い後悔であろうともその不甲斐なさは義久を責めるよりも先に自分自身へと圧し掛かって来る。

 何が繊細だ、何が神経質だ。そんな気質など何の役にも立たないではないか。康明の方が洞察力に優れているではないか。暗澹たる思いは自ずとその表情を曇らせる。

 しかし事態は思い悩むような猶予を与えてはくれない。如何にしてこの窮地を脱するのかが最大の問題であろう。康明は逡巡する事なく帰る決断を下す。

 切迫感に駆られる二人の脈拍や胸の鼓動は増すばかりで、僅かな時間、まして走っている最中には良い策など思い付かない。でもそれとは裏腹に感じる自分自身でも説明のつかない余裕は投げやりな覚悟から来るものなのだろうか。

 

 夜8時。ようやく家に帰り着き、恐る恐る扉を開いた英和に齎された知らせはやはりと言うには余りにも身勝手で都合の良い、自覚の無さと浅はかな善意が災いした当然とも言える警察からの連絡であった。

 それを息子に告げる母の表情は恐ろしいほど真剣で、何時にない鋭い眼差しは英和の目を睨みつけたまま寸分たりとも動かない。

「何したんや?」

 嘘をつく気にもなれなかった英和はありのままの事実を謳う。

「康明と義久と単車で走っとったら義久が下手打って捕まったんや」 

「バシーン!」

 母に叩かれたのは何時以来だろうか。おそらくは小学生低学年の頃が最期であろうその頬の痛みは肉体よりも精神に直接、深く突き刺さる。

 一概には言えないまでも男女の力の差は一応明確であり、いくら全力で叩かれたとしてもその痛み自体は然程大きくもない訳だが、男と比べて遙かに重く感じる精神的なダメージは女であるが故の露骨な感情が訴える所の原力から発せられるものであり、単なる外傷と比較してもその治癒速度には天地の差があるとも思える。

須磨駅前の交番に来るよう言われたで、早よ行って来なさい」

「分かった、ほんまにごめん」

 そう言って英和は康明を伴い暗鬱な表情のまま出かける。距離が知れているとはいえ単車を失った今の二人にとってその道程は結構遠く感じられ、深く刻まれた心の疵は決して軽い足取りを好もうとはしない。

 二人は道中でも口を開こうとはしなかった。疲弊し切った互いの心中にあるものは語るにも悍ましい憤りや悔しさ、怒り、悲しみ。そして自らを相憫するその心情は果てしない虚無に包まれ、眼前の光景すら視界に入って来ない呆然自失になったその姿は恰も不治の病にでも冒されたような嘆かわしい有り様だった。

 交番に着き中へ入るとそこには鋭い眼光で睨みつける制服警官三人と、既に椅子に坐っている義久の姿があった。

 当然の事ながら三人は厳しい尋問を受ける訳だが、英和と康明が真っ先に感じたのは警官の強い圧力よりも義久の他人行儀な態度だった。 

 何故彼はここに来てそんな態度を取るのだろうか、ただ恐れているだけなのか。それは二人とて同じで、事ここに至っては悔いても及ばぬ事。警官に対し抗うのならまだしも、当事者同士で目も合わせようとしないその心境の変化は何を物語っているのか。

 二人はそんな義久の態度を訝りながらも神妙な面持ちで事の次第を包み隠さず話す。その潔さに感化されたのか警官達の態度も心なしか緩みを見せたように感じられる。

 それも所詮は作戦のうちなのかもしれないが、たとえそうであっても被疑者である三人にとっては曲がりなりにも気が抜ける一瞬であった。

 それから十数分が経った頃、一人の色黒の中年男が夜であるにも関わらずサングラスをかけて登場するのだった。その姿には三人は勿論、警官までもが動揺を隠せない様子だった。

「あ、あっ、滝川さんですか?」 

 少し舌が縺れたような警官の質問に対し、男はこれ以上はないと言わんばかりの凄まじいまでの真顔をして低いトーンで答える。

「はい」 

 その後間を置かずに、周りを一切気にせずに息子である義久の頬を思い切りぶん殴る彼の所作は一同を戦慄させる。

「滝川さん落ち着いて下さい!」 

 必死に制止する甲斐も無く、警官達の声はまるで蜘蛛の子を散らすように虚しく消えて行く。無論それ以上の暴力を振るう滝川でもなかったが、張り詰めた空間に漂う形容しがたい雰囲気はせっかく穏やかになりかけていた尋問をまた辛辣にさせる。

 駅前交番の真ん前にあるパチンコ店は一同の懊悩を嘲笑うかのように明々とした装いで夜の街を照らし続ける。だがそれにも負けないほどに冴える満月の光は皆の心にどう映るのだろうか。

 是非はともかくまだ思い出にもなっていないこのシリアスな現状に緊張するだけの三人の被疑者には、そんな景色を眺める余裕などは一切無かったのだった。