人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  五話

 

 

 景色が人の心に齎す影響力を数字に表す事は不可能と思える。無論そんな必要性などないとも思えるが、自然の情景は言うに及ばず、たとえ人為的なものであっても見惚れてしまうほどの深い感動を覚えてしまう事が人間の性ではなかろうか。

 幸か不幸か結局雨までは降らなかったものの、その曇り空は夜にもなれば尚更暗い漆黒の闇を映し出す。深淵に沈む三人の中で唯一美術の才があった康明は、その光景を儚むような切ない表情で眺めていた。

 些かの余裕さえもなかったこの現状にあって彼の能力は殊の外際立って見える。英和がそれに気付いた理由はそれこそ語るまでもないこれまでの付き合いで知り得た康明の為人と、互いに一筋の光を見出したような無言の意思表示を無意識に裡に感じ取れた事に事に尽きるだろう。

 以心伝心とはこの事か。それからというもの警察の手厳しい尋問にも狼狽える事なく返答出来たのは両者に内在していた純粋な心根と、それをも上回る馬鹿正直過ぎる共通の目的を悟ったからであった。

 警官、民間人を問わず1時間余りの取り調べで疲れ切った一同は同じタイミングで溜め息をつく。そして身元引受人として訪れていた義久の親御さんが三人を車に乗せて家まで送り届けてくれる。

 車中でも皆は一言も口を利かなかった。それは義久の親を怖れていた事も然ることながら口にするべき言葉に窮していたに相違ない。先に降ろして貰った英和でさえもその去り際に軽く一礼しただけで、滝川さんは何も言わなかった。恐らくは康明も同じであったろう。

 家に戻った英和と母も口を利こうとしなかった。母としても言うべき言葉が見つからなかったのか、それとも敢えて息子にひと時の猶予を与えたのかまでは分からない。

 夕食もろくに喉を通らず呆然としたまま床に就く英和。この状況ではとてもじゃないが眠る事さえ叶わないだろう。かといって何も手に付かない彼はとにかく一刻も早く夜が明けて欲しいという願いを込めて目を閉じる。

 雨は降らなかったまでも窓外から聴こえて来る少し強い風の音はその眠りを妨げるのに十分だった。またゲームでもするかと思案している内に時間だけが過ぎて行く。時間の経過は遅い事この上なかった。まるで時が止まってしまったかのようなこの空間にはもはや僅かに聴こえる音という現象しか残っていない。

 生来繊細な人物であった彼が更に神経質になり始めたのはこの頃からだったのかもしれない。意図せずに澄まされた耳には風だけではなく家の中の僅かな音や、近隣の騒音までもがはっきりと聞こえる。それは直接ストレスへと変化しその心を搔き乱す。

 世間で言われている羊を数える方法などは効く筈もなく、する気にもなれない。居ても立ってもいられなくなり結局はゲームをし始める。シンプル好きであった彼は相変わらず最短でクリアする事だけを念頭にプレイしていた。

 外へ出てモンスターと遭遇する事すら鬱陶しく思える。しかし経験値を積みレベルを上げない事には先に進む事も出来ない。

 やはりゲームも手に付かなかった彼は今一度横になり、無心になるつもりで目を閉じ是が非でも身体を動かそうとはしなかった。

 すると先程まで聞こえていた煩わしい風の音が彼の身体を媒介して部屋中に舞い、更に自分の身体に戻った後、また外へと帰り新たなる風を作るといった幻にも似た形態を象るのだった。

 これも自然の理なのだろうか。英和は思わず風になり飛んで行きたいという衝動に駆られる。でもそんな事が出来る筈もなくその身体も自然の裡に安らぎを覚える。こうなれば時間を確かめるにも及ばない。風音と共に戯れていた英和は何時の間にか朝を迎えた外の景色に愕く。

 窓を開けるとそこには晴れ渡った春の空が現れていた。夜の内に気象が変化したのだろうか。そんな事には一切気付かなかった彼はただその景色に見惚れていたのだった。

 

 登校しようとする時、朝露に濡れた枝葉が一滴の水滴を垂らしていた。風情あるその情景を見た英和はその意志に反して自らが枝を揺すって水を散らせる。何か気に障る事でもあったのだろうか。強いて言えば己が鬱蒼とした気持ちを強引な手で晴らしたかったのかもしれない。

 だがそれが本意でない彼は人知れず屹立する樹々に手を合わして詫びを入れる。絶妙のタイミングで出て来た弟の俊英はそんな兄の様子を訝って声を掛けて来た。

「何しとん兄貴?」

 恥ずかしがる英和は目を合わす事を憚りつつも取り合えず返事をする。

「植物にも感謝せんとあかんやろ、ちゃうか? そやろ? お前ももうちょっとは頭使わんとあかんでな」

「ふ~ん」

 全く動じる様子も見せずに立ち去る弟の姿は多少なりとも英和を悩ませた。でも弟の為人を熟知していた彼は身内を褒めるのも烏滸がましいが良く出来た弟だと感心していたのだった。

 その性格は康明と義久を足して割ったような鷹揚にして聡明な、身軽ながらも重厚なしっかりとしたもので、兄弟でありながら正反対なその為人は英和としても羨むに値するものだった。

 とはいっても全てが完璧な訳でもなく粗捜しをする訳でもないが、非の打ちどころは結構あった。その一つに余りのお人好しな彼の性格は英和は勿論他者を調子付かせるだけの要素を十分に孕んでいた。

 特に同級生達から弟が弄られている姿を見るとつい気持ちが昂ってしまう英和であったが、そこで割って入ってしまった時に懸念される事態を鑑みる神経は決して軽挙妄動を許すものではなかった。その副作用を怖れる英和も本来は気優しい人物であったのかもしれない。

 しかし或る局面でしか真価を発揮する事が出来ないと思われる人間という生命に備わった能力や気質は、やはり不器用という普遍性を保っているようにも見える。

 だがそれも一興これも一興で、一筋縄では行かない人生にこそ面白みがあり、そこにこそ咲かす事が出来る花があるとも思える。

 それを踏まえた上でもシンプル好きに徹する英和のような人物はその人生までをもシンプルに済ませ、一気に結末を観たいとでも言うのだろうか。

 敢えてそれを遂行しようとするのならばそれこそ夭折してしまうしか道はないようにも思える訳だが、せっかく授かった命を無駄にする事ほど愚かな行為もなく、余程の偉人でもない限りはその僅かな人生に於いて大輪の花を咲かせる事など出来よう筈もなく、誰一人として感動する者もいないだろう。

 弟の後ろ姿に陰りを感じなかった英和は暫く見届けた後、身体を反転させて自分も歩み始める。その足取りは軽くもなければ重くもなかった。是非にも及ばぬ人間関係の中にあって個の力が他者を上回る事はあっても凌駕するまでには至らないだろう。しかし徒党を組んだからといって良い結果が齎されるとも限らない。

 打算ではなく直感を信じる心、妥協ではなく追求しようとする意志。

 一見矛盾しているように思えるこの二つの性質にも共通する思想がある事は明確で、それを成し遂げようとする健気にも気丈な澄んだ心根にこそ人間が持って生まれた本分が秘められているのではなかろうか。

 強く照り始めた陽射しは英和の憂鬱な気分を払拭するように濡れた樹々を乾かせ、道々にある草花は明るい表情で天を仰ぐ。負けじと毅然とした態度で登校する彼の姿は凛々しく輝き若者らしさを取り戻す。

 それを窓越しに眺めていた母は今回の事はあくまでも若気の至り、長い人生で乗り越えて行かねばならない一つの障壁に過ぎないと自分に言い聞かせていたのだった。

 

 或る事が気掛かりで仕方なかった康明は学校を早退して中学の同級生であった祐司と会っていた。祐司という男は生粋のヤンキーで中学を卒業して直ぐ社会人となり、仕事に精を出しつつ暴走族の総長を張っていたのだった。

 康明はまるで祐司の機嫌を取るかのように煙草を差し出し火を付けようとする。すると祐司はそれを拒絶し、自分の煙草に自分で火を付ける。そして神妙な面持ちで立ち尽くす康明に訊いて来る。

「何や、改まって、何かあったんかい?」

 康明はどう打ち明けるべきか迷っていた。すると祐司は語気を強めて問い質す。

「はっきり言うたらんかいやゴラ! ほんまヘタレ丸出しやの~」

 流石の康明も意を決したような表情で事の次第を謳い始める。

「実はお前から借りとった単車で走っとったら捕まってもてん、ほんますまん」

 その刹那、祐司は康明を思い切りぶん殴った。それは単に下手を打った事に対する怒りだけではなく、康明が分を弁えず調子に乗り続けている事に対しての憤りから来るものだった。

 康明が殴られたのはこれが二度目で、祐司の本心を知り得ていた彼は当然やり返す筈もなく、返す言葉にも窮してただ項垂れていた。

「で、これからどないすんねん?」

「とにかくお前の事は絶体言わんから、何とか巧い事切り抜けるわ、そやからあの単車何時何処でペチったんかとか詳しい事教えてくれへんか?」

「別に俺に害が及んでもかまへんけどな」 

「いやそれやったら俺の面子もないから、何とか頼むわ」

「ふっ、お前如きに面子なんかあったんかいや」

 致し方なく祐司は事の詳細を告げる。康明はそれを入念にメモに取り、改めて詫びを入れる。祐司が事件の経緯など深く訊いて来なかった事は有難かった。

「ほんまに悪かった、じゃあ行くわ」

「おう、貸した俺にも非はあるしな、頑張れよ」

「うん」

 時として見せる祐司の優しさ。その厳つい風貌とは裏腹に感じ取れる彼のそのような一面にこそ、総長を張るに値する資質が備わっているのだろうか。本気で殴られた割にその痛みは肉体精神を問わず大したダメージを残してはいなかった。無論本気の中にも多少の加減はしていただろう。

 康明はこの痛みをどう受け取ったのだろうか。時が経てば忘れてしまう人間という生命が愚かだとすれば、何時までも胸に抱き続けている者が常に正しいのだろうか。

 無論忘れてしまいたい康明でも無かったが、取り合えずの目的を果たした事に依って安心する想いは確実に芽生えていたのだった。

 

 授業を終えた英和にはもはや家に帰ってからの楽しみは何も無かった。する事はいくらでもあろうとも単車に乗って走る事以上に刺激を与えてくれる遊びなど何も思いつかない。そんなどちらかといえば無気力無関心な彼が学校で耳にした多少なりとも興味を引いた事はパチンコなどのギャンブルであった。

 学校ではパチンコや競馬の話で盛り上がっている男子生徒が結構多く、嫌でも耳に入って来るのだったが、輪の中に入ろうとしない彼のような人物は内心では馬鹿にしながら訊いていたのだった。

 でもそれに惹かれたのはやはり多くの人間に内在していると言われる欲に依る所が大きいだろう。家が貧しかった英和には親に言って金を貰うような真似は出来ない。何よりこの状況下で博打に打ち興じる事などそれこそ親不孝になる。でもこれといってする事が無かった彼は正に衝動に駆られ、どうにかして金を作る算段をするのだった。

 以前から気になっていた家から近い距離にある新聞販売店。登下校の際に何時も通るこの店の出入り口には配達アルバイト募集中という貼り紙がしてあった。

 たとえギャンブル目的ではないにしろ、金が欲しかった彼は応募する決断をする。学生服姿のまま恐る恐る中へ入って行くと店主が出て来て愛想の良い声を掛けてくれる。

「こんにちは、何か用ですか?」

 英和は真面目に答えた。

「アルバイトしたいんですけど、御願いします」

 すると店主は目を輝かせて言葉を続けるのだった。

「そうですか、いや来てくれる人がいなかったんで困ってたんですよ、貴方のような若い人なら喜んで雇わせて頂きますよ」

「有り難う御座います、一生懸命頑張ります」

「じゃあ早速明日の朝4時に来てくれるかな?」

「分かりました、宜しくお願いします」

「こちらこそ宜しく」

 即決されたアルバイトに喜びを隠せない英和は独り笑みを零していた。ギャンブルは勿論これでようやく親孝行が出来る。今度の事件に掛かるであろう費用も自分で払う事が出来る。

 ストレート過ぎるとはいえこんな思考を巡らす事が出来るのも若さの特権であるように思える。それに新聞配達なら誰と接する事もなく自分一人で仕事が出来る。正に自分向きなバイトである。

 一気に気持ちが明るくなった彼は颯爽と家に帰りその事を母に告げるのだった。息子ほどではなかったが、母も大いに喜んでくれてまるで昨日までの暗闇が晴れたように久しぶりに豪勢な料理を振る舞ってくれるのだった。

 陽が暮れ始めた夕暮れ時の情景はそんな親子の気持ちを優しく包み込むかのように淡い赤の中に、涼やかな心地よい風を吹かせる。風を運ぶ天の気持ちはたまたま期限が良かっただけの話なのだろうか。

 そんな事すら気にかけない英和は一時的にも過去と訣別し、幼子に戻ったような可憐な笑みを浮かべながら食事に赴くのだった。