人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  六話

 

 

 翌日も晴天だった。まだ少し眠気が残る英和ではあったが早朝の肌寒さはその身体に程好い刺激を与え、吸い込む空気は何時になく新鮮に感じる。

 日も昇らない静寂に包まれた街並みに人影などは無いに等しく、車さえも殆ど走っていない状況は英和が乗る自転車を普段の何倍もの速さですいすい移動させる。そうなれば信号などを守る筈もなく、何の障壁も感じられない彼の心は自由を掴んだように小躍りし開放感に充たされていたのだった。

 家からの距離はちょうど1kmぐらいだろうか。一瞬にしてバイト先の新聞販売店に辿り着いた英和は店主や皆と軽快に挨拶を交わし、予め段取りされていた広告を折り込んだ山積の新聞の束を専用の自転車の前カゴと後ろの荷台に括り付け、仕事を教えてくれる年配の従業員に付き従って配達する区域へと赴く。

 その区域は当然地元中の地元であり土地勘のある彼に怖れるものは無かった。唯一不思議に思えたのは慣れているとはいえ一切迷う事なく次々に新聞を配達して行く先輩従業員の姿だった。

 地元でメジャーな神戸新聞を取っている客は多く配達箇所も狭い区域の中に密集している為、近くまで来ると一端自転車を停め歩いて配達する方が効率的だった。

 柔道の白帯を肩に回し、その脇に自転車から取った大凡の枚数の新聞を抱えて歩き始める。黒帯ではない事も多少は気になったが、無口な先輩従業員が颯爽と歩き続ける姿を見る今の英和に、そんな下らない事を訊く図太い神経は備わっていなかった。

 彼は店で渡されていた配達箇所が書き記された帳面を確かめながら後に続いて歩く。そこそこ重たい新聞を抱えて歩く先輩の足取りは英和よりも速く感じられる。余りの速さに間違えていないか確かめる余裕すら無かった英和は、前もって言われていた配達の経路だけを覚える事に専念する。

 自分の地元であるこの地域には知り合いも数多く居て、家の表札を見ると、

「あの人まだ眠っとうやろな~、もし遇ったら恥ずかしいな~」

 などと内心考えていたが、まず遭遇しないであろう朝刊配達という時間帯はその心を安堵させるのだった。

 一区画の配達が終わればまた次の区域まで自転車に乗って行き、また歩いて配達するという作業が繰り返される。

 こうして改めて練り歩いてみるとその景観からもこの地域が如何に下町であるかが窺い知れる訳だが、立ち並ぶ昔ながらの人家やアパート、長屋等にはしっかりとしたポストは余り設置されていなく、中には家の壁面にある埋め込み式の小さなポストに強引に新聞を入れなくてはいけない事や、玄関の引き違い扉の隙間に器用に差し込まなければならない事も結構多かった。

 それが広告チラシが多い週末や雨天などでは尚更で、それを抜いて別々に入れれば良いだけの話であろうとも煩わしく感じる時もあるだろう。

 洋画などに観る広い庭に新聞を投げ入れながら配達するといった光景は実社会でもあり得る事なのだろうか。まるで漫画、アニメの世界にも思えるが、それをもし日本でした場合に想定される不利益は英和にも十分理解出来る事で流石にそこまでの暴挙に出るつもりは無かった。

 笑える話ではあるがこれこそが文化の違いであり西洋のスケールの大きさを表すものとも思える。

 でもスケールの差異だけで物事を論じる事ほど滑稽な話もなく、日本には日本なりの奥ゆかしさや謙虚さ、繊細な技術や人間性など世界に誇るべき伝統美は多々あり、それが自尊心や矜持を高める一翼を担っている事も言うまでもない。

 いくら配達箇所が密集しているとはいえその配達時間は僅か1時間余りで済んでしまった。いやらしい話だが時給ではなく配達部数で決まる新聞配達のアルバイト賃金は当然ながら配達箇所が密集している方が有利な訳で、その事はまだ高校生である英和にとっても喜ばしい事この上なかった。

 仕事を終えた彼は店主や先輩達に挨拶をして帰途に就く。まだ日が昇らない午前5時半に遠くから聴こえて来る電車の走る音は時計のアラームには感じないまでも、朝を告げるように街全体に優しく響き渡っていたのだった。

 家に帰った英和は登校するまでの間に仮眠を取る事にした。元々寝つきが悪く、亦もし深い眠りに就いた場合に寝坊する事を怖れる彼は気が進まないまでも目覚ましをセットしていたが外から聴こえる雀の可愛い鳴き声は目覚まし代わりにもなり、浅い眠りからも心地よい目覚めを授けてくれる。

 朝食を取る一家の表情は明るかった。大して口は利かないまでもその雰囲気には繰り返されるだけの日常を嫌うような卑屈さは窺えない。

 とはいえ日が昇り切った外の景色は些かなりとも英和の気持ちに翳を持たせる。慌ただしさを漂わせる街並みは、それが現実であろうとも生き急ぐ人々のただ世の流れに靡く事しか出来ない精神の脆弱性を浮き彫りにしているように見える。

 こういう思慮にこそ慢心があるのかもしれない。だが民主主義の前提である思想の自由が保障されているこの現代日本社会に於いて、周りと調和を図る事だけに執着する精神ほど恐ろしいものも無く、それが壊れた時に然も不利益を受けてしまったかのように悔恨の念に浸り、苦しみ嘆く姿に人間の本質があるとは到底思えない。

 だが当然そこにも自由はあり、人間自体に余り感心が無かった英和は他者に干渉するような下世話な感情を抱いた訳でもなかったが、履違えた自由、誤解された自由が招いたであろう上辺だけの平和に酔いしれる今の日本に対し、憂い心を持ち続けていた事は確かな話であった。

 

 康明は学校で同級生達から揶揄われていた。その顔を見れば誰であろうと何かを言わずにはいられなかったのだろう。

「お前その顔どうしたんや? 誰にやられたんや? ま、お前みたいなヘタレが喧嘩なんかする訳ないし、どうせカツアゲでもされたんやろ、はっはっは~」

 しかし康明は全く動じずに反論する。

「ファッションやんけ、お前らも男やったら疵の一つぐらい作ったらんかいや」

 それにしても彼の顔に作られた紫斑は祐司の強烈なパンチと喰らった者、この両者の心の波紋を如実に物語っているとも思えるが、悲壮感にも及ばぬ康明の明るい様子は同級生にそれ以上の追及をさせなかった。

 実は康明と義久は同じ高校に進学しておりクラスは違えど顔を合わせる事は多かったのだが、元々義久を余り好いていなかった康明は廊下などで擦れ違っても声を掛ける事は少なかった。

 でも所詮は同じ中学出身という事でたまにぐらいは話もしていたが、あの一件以来は寧ろ義久の方が一方的に康明を避けているような節があった。

 交番での義久の余所余所しい態度もそれを示唆するものだったのだろうか。康明としても是非にも及ばぬ事なれど目すら合わせようとしないその態度からは敵対心までもが感じられる。

 昼休みに康明は暇潰しがてら義久の教室を覗きに行くのだった。昼食を済ませた義久は案の定誰とも関わらずに独り机に顔を伏せ眠っていた。無論他の者も誰一人として絡んで行こうともしない。

 完全に村八分、四面楚歌のような義久の立ち位置は想像するだけでも悍ましくなって来る訳だが、真に恐るべきはそれをも全く気にしない楽観的過ぎるといっても良い彼の余りの無頓着さかもしれない。

 それを証拠の義久は顔色一つ変えずに毎日普通に登校し、愚痴の一つも言わずに生活していたのだった。

 これは英和は勿論康明にとっても羨ましい限りで、その性格が本当だとすれば義久には悩むという能力自体が備わっていないようにも思える。

 だが意図して世の流れに靡く者よりは意図せず、何も考えずにただ澄んだ川水のように抗う事を知らない水の流れならば或る意味では尊敬にあたるとも思える。しかし態度を急変させた彼の様子からは明らかな意図が感じられ、それが何かまでは分からずとも康明を不快にさせる事だけは確かだった。

 酷い時には一日中眠っている義久でも6時間目が終わりホームルームも終われば即目を覚まし真っ先駆けて下校する。その姿は滑稽ながらもまるで忍者のような素早さで同級生は勿論、担任の先生までもが愕くぐらいであった。

 そして誰よりも早く電車に乗り込み、瞬く間に家に帰って来た義久に齎されたものは須磨警察署への呼び出しという知らせだった。

 日時は次の日曜日午前9時。この知らせを電話で受けていた親御さんは息子の義久にこう言う。

「行って何もかも洗い浚い白状して来い!」

 一見ごく当たり前のように聞こえるこの言葉も受け取り方次第では色んな意味を含んでいるような気もする。それを額面通りに四角四面で馬鹿正直に捉える事しか出来ない義久のような者は内心ではどう解釈したのだろうか。

 その知らせは当然英和、康明にも届いており、三人は嫌でもまた顔を合わし一同に会する運びとなった。

 

 日曜日当日になって空はまた少し曇り始める。その薄暗い景色は今にも雨が降るようで降らないといった何とも煮え切らない雰囲気を以て三人の気持ちを焦らせる。

 完全に散ってしまった桜がまた美しい花を咲かすべく来年に備え青々とした葉で大人しく佇む姿は、夏を終えた砂浜の侘しさにも似た憂愁感と大らかな前向きさを同時に投げ掛けているように映る。

 遙かに聳える雄大な山々は峻厳たる眼差しで変わり行く街並みを悠然と見下ろしているが、その余りの風格は時として非力な人間に不遜とも呼べる憧れを抱かせる。そのほんの一部分でも己が力に変換させる事が出来ればと願う英和は、盗人猛々しいとも思われるぐらいの毅然とした態度で警察署を訪れるのだった。

 部屋に案内されるとそこには駅前交番で見た三人の警官がそのまま私服姿で待ち構えていた。

「おはようございます」

 一緒に来ていた英和と康明は挨拶をして席に着く。するとまた交番の時と同じように先に到着していた義久がこちらには見向きもせずに悠然と坐っている。

 それを確かめた一瞬壮大な山の力を得ていたのは義久の方だったのかと錯覚する英和ではあったが、何の貫禄も示さない彼の背中は返って英和の心を安堵させる。

 そしてまた手厳しい尋問が始まる。被疑者である三人に一連の疑いを事細かに聴取する警官達。既に交番でも白状していた経緯を改めて訊こうとする彼等の表情は、私服であろうとも如何にも警察官と言わんばかりの硬いもので、その目には人情などというものは一切感じられなかった。

 そんな事は当たり前かもしれないが、犯行に及んだ時間を分単位で訊かれると英和は素直にも、

「そこまでは覚えていません」

 と答えるのだった。すると警官は、

「人間の記憶いうもんはそう簡単に消えへんねん、悪あがきはえからしっかり思い出したらんかい」

 英和は康明と共に単車を盗みに行った時の事を真剣に思い出そうとしていた。あれは確か数ヶ月前の或る日曜日だった。テレビで再放送されていたアニメ、シティーハンターを康明と一緒に見てから出掛けた筈だ。その放送は1時間で自分は始めの30分、つまりは前編だけを見終えてから家を出たと記憶している。

「その日の12時半に家を出ました」

 と英和は答えた。すると康明は、

「13時ちょうどです」

 と食い違った答えを出す。これに警官達は烈しく喰いつく。たった30分の差異であろうとも互いの認識の齟齬は彼等の神経を刺激するに十分だったみたいで、その怒りの矛先である二人の被疑者には強烈な怒声が浴びせ掛けられる。

「お前らええ加減せーよゴラ! 舐めとったらあかんど! もう一回二人でよう話し合ってみーや!」

 僅か30分がこれほど大きいものなのか。少なくとも英和には理解不能だった。しかし警官達の執拗な尋問は二人を怯えさせ嫌でも回想、何の情緒もない追憶という作業を強いられる。

「最初の30分だけ見て出て行ったやんけ!?」

 と英和が言えば、

「何でやねん、1時間全部見てから行ったやんけ!?」

 と反論する康明。決着がつかない両者の問答に警官達は痺れを切らせて割って入る。

「ほんまにええ加減せーよ、シティハンターか? それの前編だけか後編まできちり見てからか、はっきりしたらんかいやゴラ! 何やったらその時の内容言うてみ! タイトルは!?」

 英和は内心この警官は馬鹿なのかと思った。そんな事まで覚えている筈もなく、亦何故そんな事まで警察署で口にしなければいけないのだ。

 流石に冗談半分で言っていると思った英和は警官達の表情を見返したが、あくまでも真顔で喋り続ける彼等の表情からは何も感じられない。冗談を真剣な顔で口にするなと思う英和は逆に笑いを堪える事に専念せざるを得なくなってしまう。

 それにしても互いに譲ろうとしない二人の意見は一向に収まりがつかず、益々警官達を苛立たせる。そしてその中を取り12時45分で折れるという判断を下す。

 その後も執拗な聴取という名の尋問は夕方まで行われ、疲労困憊になった三人にはようやく帰途に就く事が許された。

 改めて自分がした事の重大さを悟った英和の心は慙愧の念に堪えなかった。若気の至りとはいえこんな事は正に人倫の道に反する事で許されるものでは無い。どんな事をしてでも被害者には償わなければならない。言うまでもない事であってもその局面に立って初めて感じるその不甲斐なさは彼の繊細な神経を容赦なく傷付ける。

 そして義久の相変わらずの余所余所しさもその傷心に追い打ちを掛ける。だがこの期に及んで他人を責める気にもなれなかった英和はただ自責の念に駆られながら重い足取りで帰って行く。

 結局は雨を降らせなかった天と雄大な山々を遠くに眺めながら歩く英和は、やり切れなさを込めて歩道に唾を吐き、今日という日が一刻も早く過ぎ去ってくれる事を念じながら明日という未来へ踏み出して行くのだった。