汐の情景 八話
数ヶ月が経ち英和が高校一年生を終業した頃、家庭裁判所からの呼び出し状が届く。外はまだ少し寒い冬の面影を残し、吐く息の白さは一刻も早い春の到来を期待すると共に昨年度という過去に秘められた万感の思いを表すように自らを切なくさせる。
移り行く気節と同じく人間という生命も前に進む事しか出来ないのだろうか。無論過去に戻る事など出来よう筈もないのだが、少々潔癖な英和としてはたった一つの汚点がまるでその人生に土をつけたかのような大きな波紋となって何時までも圧し掛かって来るように感じずにはいられない。
この白い吐息のように人の心を真っ白にする事など所詮は不可能なのだろうか。それこそ生まれたばかりの赤子にでも戻らない限りは不可能に違いない。彼は決して思い悩む事を嫌わなかったが、人前、いや独りでいる時ですらそんな暗鬱な複雑な表情をする事を誰よりも嫌っていたのかもしれない。
要するに何時如何なる時も常に平然とした面持ちで過ごしたかったのだった。そういう点で言えばやはり義久のような男は羨ましく思えて仕方ない。持って生まれたものであろうとも何故彼はそこまで澄んだ顔つきをしていられるのだろうか。
裁判所で久しぶりに会った義久は正にそういう表情で依然としてこちらには顔も向けずに、悠然とした態度で椅子に坐っていたのだった。
共に裁判所を訪れていた英和と康明は当然ながら義久とは全く接する事なく、ただ事を遂行するべく手続きをしたあと腰を下ろして自分達の番が来るのを待っていた。
そして通された法廷と呼ぶには余りにも質素で小さい部屋で行われた裁判では、未成年で初犯という事もあり不起訴処分という判決が下りる。この事は警察でも言われていたので愕くにも及ばなかったが、改めて日本の法律の甘さを痛感する英和でもあった。後に残る盗難被害に遭った方への償いには何ら抵抗する彼ではなかろうとも、心の何処かで義久さえ黙っていてくれたなら、そして自分が彼を誘いさえしなければ何事も起きなかったのだという他責思考と自責の念が交錯していた。
だが何れはこの日が来ると覚悟していた自分がいたのも事実で、悔いても及ばぬこの現状は当たり前ながらも無情な現実という試練を自らが作り上げたようなものだと悟る英和でもあった。
裁判所を後にする彼と康明は多くは語らなかった。互いの胸に秘めた想いは口に出さずとも伝わる事で、両者の顔はただ哀しさだけを訴えていた。
家に帰った二人は地元の港で改めて話をする。夕暮れ時にここを訪れる事は英和にとっても日課のようなもので、赤い夕陽は黄昏れを好む彼の唯一の味方であったようにも思えるぐらいだった。
幾艘かの古びた漁船とタグボートが係留されているこの淋しい港には昔はいざ知らず夜にもなれば人影など殆どいなく、その寂寞とした暗い雰囲気は一見怪しく感じない事ないが、幼い頃から自分の庭のようにして遊んでいた彼等にはそんな憂慮などは取るに足りない事であった。
煙草に火を付けてから喋り出すのも二人の習慣みたいなもので、吐く煙は白い吐息と相乗して結構な量で宙に舞う。
先に言葉を発したのは康明だった。
「お前、あいつの顔見たか? 何も考えてないんやろな、マジで羨ましいわ」
英和は今一度煙草を吸ってから答える。
「俺と一緒やな、あいつの考えとう事だけは分からんわ、ま、誘ったんは俺やし、改めて謝るわ、すまんかったな」
康明は何も言わずに遠くを見つめていた。今更怒る彼でもなかっただろうが、その複雑な表情を訝る英和は話を移す。
「そやけどお前凄いな、最期まで祐司の事謳わんかってんでな、あいつも見直してくれたんちゃうか?」
「じゃがましわい、めっちゃ苦労してんぞ」
「そうやろな~」
すると10mぐらい離れた場所に先程から停まっていた一台の車から何か人声がしたような気がした。それを確かめた二人は徐に目を合わせる。
「何しとんやあいつら? 鬱陶しいな、カーセックスでもしとんか?」
そう呟く康明に対し英和はこう答えた。
「将棋しとんやー言うねん」
康明は少しだけ笑っていた。
「ま、一応はシングルヒットかな」
「実際にしとう可能性もあるしな」
「無いわ」
その後も少し話をして帰る二人は何か物足りなさを感じていた。本来ならもっと言うべき事があった筈なのにそれが思い付かない、いや思い付いていても言い出せないだけだったのかもしれない。でもカッコをつける訳でもないがそれを全て口にしない所にも男の世界があり、いく饒舌な康明であってもそれを憚る気持ちは十分理解出来る。
夕陽はそんな二人の気持ちを優しく包み込み、まだ見えぬ進路へ向けて歩んで行く様を見守るように、遙かに聳える水平線にその姿をゆっくりと沈めて行くのだった。
春休みに入った英和は新聞配達のバイトに勤しむ他に思いも依らぬ幸運に巡り逢うのだった。街を歩いていると何処かで見た顔の人が声を掛けて来るのに気付く。でも彼の記憶力を以ても直ぐには思い出せない。無視し立ち去る事が出来なかった彼は自分から馬鹿正直に訊くのだった。
「え~と、すいません、何方でしたかね?」
「何、その他人行儀な言い方? わざとなの?」
彼女は軽く微笑みながらも少し怪訝そうな表情を泛べていた。失礼とは思いつつもどうしても思い出せない英和はもう一度訊き返す。すると彼女は溜め息をついた後、呆れたような面持ちで答えるのだった。
「直子よ、向井直子」
その名を告げられた英和は思わず狼狽し、彼女の顔を凝視しながらも目線だけは合わせようとしなかった。
言われれば確かにその通りだ。そのあどけない表情、長い髪、少し長身な体形、それでいて優しい笑顔に聡明な雰囲気、そしてなによりも鋭い横長な目つき。
どれを取っても昔一緒に遊んでいた直子に相違ない。やっとこさ気付いたでろう英和に直子はこう語り掛ける。
「立ち話も何だからお茶でも飲みながら話さない?」
英和は少し照れながら承諾するのだった。彼等の地元であるこの下町のは喫茶店などは銭湯と同じく選ぶほどの数があり、今二人が居る場所の直ぐ傍にも数軒の店があるぐらいだった。
二人は息を同じくするようにして一番近い場所にあった店に入る。そして何故か窓際である一番端の席に着く。腰を下ろした二人は理屈抜きに笑みを零していた。
英和はアイスオーレを、直子は紅茶を頼んだ。この時も英和は康明と同じで話す事はいくらでもある筈なのにいざ改まって向かい合うと言葉が出て来ない。それは無論女性に対して奥手であった彼の性格を示唆するものでもあったが、店員がお茶を運んで来るまでの僅かな時間にさえも気が置けないといった繊細過ぎる思慮から生じる警戒心があった事も言うまでもなかった。
そんな彼の為人を何故か知り得ていた彼女はその表情を眺めながらまた笑みを零す。今度は釣られて笑う英和でも無かった。運ばれて来たお茶を一口飲んだ二人はようやく話し始める。舐められてはいけないと思った英和は無理をしてまで自分から口を開く。
「久しぶり過ぎるな、あれから何年経ったんやろな、改めて気付かんかった事謝るわ」
直子はその笑みを絶やす事なく愛想の良い物言いをする。
「まぁ、十数年が経った訳やし、忘れてもおかしくはないけどね、でもちょっと寂しかったかな」
「ほんまにゴメン!」
「もうええって」
落ち着いた二人はもう一口飲んでからいよいよ話に花を咲かせるのだった。
「そやけど直子とは昔よう遊んだでな~、あれ覚えとうか、保育所で昼寝し終えた時に男女関係なくパンツ脱いで見せ合っとった事? 今では考えられへんでな」
直子は恥ずかしがる事なく答える。
「覚えとうよ、あれはお決まりやったやん、あんたは恥ずかしがっとったけどな」
「そうやったかな~」
「そうやって! それとあんたは何時も先生に怒られとったでな、悪ガキではないねんけど大人し過ぎて怒られとったんかな?」
「よう覚えとんな~、確かにその通りかもしれへんな、別に大人しい訳でもないねんけどな~」
「分かっとうって!」
「何を分かっとん?」
この瞬間直子は笑みを止めて英和の顔をまざまざと見つめていた。返す言葉に困ったようには思えない彼女の少し切ない表情は何を訴えんとしているのだろうか。それを露骨に問い質す事を憚かれた英和はまるで逃げるようにして話を移す。
「ところで今どうしとん? 学校はどうなん?」
すると彼女は一時黙ったまま窓外の景色を眺めた後、振り返り様にこう答える。
「あんた変わったね、中身は変わってないけど、外見が少しね」
そう言われた英和には一瞬戦慄が走る。俺は俺だ。何一つ変わってなど無い。それこそがまだ若いとはいえ既に彼に備わっていた矜持であり、不変の心根でもあった。それを直子はたった一言で傷つけてしまったのだった。これには如何に女性に奥手で気優しい英和であっても気が収まらない。
憤った英和は席を立とうとした。すると直子がその手を握って制止する。
「何怒ってんの? 何時からそんな短気になったの? 私の知ってる英和君はそんな男じゃなかったわ、何があったの?」
英和は彼女を手を振り解いてまで帰ろうとしたが、その意思に反するように身体が思うように動かない。まるで金縛りにでも遇ったようなこの状態は何を意味しているのだろうか。単なる動揺か、或いは馬鹿正直な気持ちが裏目に出てしまい、理性が効かなくなってしまっただけなのか。
何れにしてもこの呪縛とも思える事態から脱しなくては話にもならない。そこで彼は直子の目に映る自分の姿に気付き、その自分に語り掛ける。
「俺は変わってしまったのか?」
「どうやろな~」
「どっちやねん?」
「変わったようにも見えるし、変わってないようにも見えるな~、難しい話やな~」
「はっきり言うたらんかいや!?」
「それは誰にも分からんのとちゃうかぁ~」
自問自答を繰り返す英和の様子を訝った直子は手をチラつかせて確かめようとする。
「どうしたんや? どっかに行って来たんか?」
ここで初めて我に返った英和はまた照れ笑いで誤魔化しながら、何故か詫びを入れるのだった。
「ごめん、つい放心状態になってもたな、嫌いになったやろ?」
直子はそんな英和の表情を見つめながら言うのだった。
「いや、別に嫌いにはなってないけど、大丈夫?」
「あぁ、大丈夫やって」
「じゃあええねんけど......」
一応連絡先を交換した二人は店を出てから別れる。5歩ぐらい進んだ時に二人は同じように後ろを振り向く。烈しい西日は両者の細かい表情の変化を遮っていたが、その無言の裡に立ち込める想いは二人の身体を無意識の裡に引き寄せる。
引き返す二人の足取りは実に重く緩慢で、その一歩一歩が数倍もの遅さながらも着実に進み行く心の足音を木霊していたのだった。