人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  九話

 

 

 後ろを振り返る事を嫌う者はいても、一度だけでも過去に戻りたいと思う者は結構な数で存在するのではなかろうか。

 前向きな精神に虚勢を感じるとは言わないまでも、その人生に於いて只の一度も昔に戻りたくはないといった思想には多少なりとも無理があるように思える。

 無論そこに災いの種が見え隠れするようなら立ち戻る必要性すら無い訳だが、たとえ一筋の光明でも見えれば自ずとそこへ向かってしまうのが人間心理だろう。

 互いに息を合わすかのようにして後ろを振り返り、歩みを進め、向かい合う英和と直子はその目を見つめながらも言葉を失っていた。こんなシチュエーションに言葉を求める事がたとえナンセンスであろうとも何か一言でも口にしなくては気が済まないのも人間の性みたいなもので、それこそナンセンスながらも英和は思い付いた事をそのまま言葉に表すのだった。

「何で戻って来たん?」

 直子はまるで先に言われたような歯痒い表情をしながらも少しふざけた事を言う。

「ちょっと店に忘れもんしてな、それさえ見つけたら直ぐ帰るねん」

 英和は考えていた。煙草も吸わない、まして財布や鞄を忘れるような彼女でもない。なら一体何を忘れたというのだろうか。女性との経験が殆ど無かった彼はまたしても鈍感な事を口走ってしまう。

「何を忘れたん? 一緒に探そか」

 直子は笑っていた。その理由は勿論英和の余りの稚拙さに依るものだったが、如何に女性に対し奥手な彼とはいえその繊細で神経質とも言える気質を駆使すれば彼女の真意を見抜く事は然程難しいとも思えなく、逆に己が恥じらいを隠す為に敢えて惚けていた可能性もある。

 それをも見透かしていたような面持ちで直子は答える。

「あんたってやっぱりおもろいわ、何でそんな芝居したん?」

 これには流石の英和も困惑せざるを得なかった。何故と訊かれてもあくまでも自然の所作であり、それを言い出せば所詮は彼女も同じではないのか。しかしその中にも感じられる僅かな感情の差異は明らかに生じていて、花を持たせる訳でもないが直子の方が四分六でも心の闘いに勝っていたような感じは否めない。

 ここまで来ればもはや余計な言葉などは必要なかった。日が沈み始めたその光景は無意識の裡に二人を黄昏れさせ、その足は自ずと歩調を合わせ真っすぐな道程を辿る。

 気が付けば二人の身体は或る場所へと運ばれていた。そこは暗闇に包まれた少し怪しい雰囲気を醸し出していたが、腰を下ろした時に得られた柔らかい感触には些かなりとも安心を覚える。それにしてもここは一体何処なのだろうか。だが英和の猜疑心は忽ちにして恍惚感へと変化するのだった。

 直子の豊潤な唇は何時の間にか自分の唇と重なり合っている。両者の指は複雑に絡み合い、その吐息は同じ波長で互いの心情を確かめ合っているようだ。そして恥じらいながらも自らが積極的に立ち回る彼女の姿からは場に擦れたような様子が窺える。

 初体験ながらも野暮な真似が出来ない英和は彼女に身を任せるようにして、ぎこちないまでも精一杯に躍動して見せる。すると彼女はその動きに先駆けて妖艶なまでの優美な曲線を現しながら華麗に舞い始める。

 恐らくは女性が持って生まれた本能的な習性。それを艶やかな舞いと一言で片付けてしまうのは軽率にも勿体ないような気もするが、対する男の本能とはどんな形を以て呼応すれば良いのだろうか。

 少しでも下手をすれば美が損なわれてしまうと懸念する英和はなかなか思うように身体を動かせない。そのじれったさは直子は無論自分自身さえも苛立たせる。だが経験不足な上に奥手で神経質な彼にはどうする事も出来ない。

 このままでは今度こそ本当に嫌われてしまう。そう危惧する英和は目を瞑り無心になって彼女の身体を貪り始める。その手は直子のしなやかな身体の至る所に触れ、その心は本質を突くかの如く知らず知らずに核心へと向かう。

 驚天動地、天地雷鳴とでも言おうか。今正に英和の心と身体は何処か崇高な場所に辿り着き、何か計り知れないものを味わったような感覚を覚える。それはとても言葉では言い尽くせない快楽の境地にして忘我の境地。互いの無我の精神と身体が一体となりその身に覚えた新たなる感覚ではなかろうか。

 そうなれば駆け引きほど愚かな行為もなく、確かめ合うまでにも至らないその現状は真実だけを欲していた。でも真実ほど幻想に近いものも無く、解脱でもしない限りはその意思から一切の妥協を排したとしてもそこに辿り着く事は不可能に近いだろう。

 その刹那聴こえた正に雷鳴のような轟音は烈しくも優しい静寂な川のせせらぎのような繊細な心音で、二人の身体に甘美な刺激を与えるのだった。それに気付いた英和は思う存分直子に攻め掛かる。直子も負けじと迎え撃つ。

 そこから生まれた光は神々しいまでの輝きを放っていた。二人の志、心意気、心根が織りなす凄まじいまでの精妙巧緻なその煌きは天から授かったものではなく、自然の裡に育くまれたものだった。

 その光を全身に浴びる二人はここで初めて我に返る。その意識の中にあるものは単なる情愛や情義などではなく、馬鹿正直な感情だけが作り上げた真っ直ぐな情念。それ以外は何も要らなかったし求めようともしなかった。

 やっとこさ目を開けた英和の視線は直子の目だけを見つめていた。その奥に聳える己が表情など確かめる気にもなれない。

 それにしても何一つ言葉も交わさいまでにこれだけの舞台を演じ切った二人の努力と熱情の結晶とも呼べる所業には、マイクロの単位とも言えるごく僅かな確率の中で生じた奇跡に近いものを感じる。

 二人は同時に口を開こうとした。

「あ、」

「何?」

「いや、」

「はっきり言うてよ」

 今更照れる英和も滑稽だったが、有りのままの気持ちを表現しようとする心の赴きは素直ながらも若干卑猥さを帯びていた。

「感動したな」

「私もよ、でも何に感動したの?」

「そんな事まで言わすなよ」

「確かにね」

 直子の家は結構広く、窓外に映る景色は今の二人の気持ちを代弁するかのように春の麗らかな装いをさりげなく体現していた。

 長居する事を怖れた英和は彼女の親御さんに気付かれぬよう足音を殺すようにして去って行く。その様子に笑みを零す直子もまた、春の到来に歓喜していたのだった。

 

 人の意志とは多かれ少なかれ薄弱さを含んでいるものなのだろうか。せっかく直子と契りを果たし人生で初めて異性と交際し始めたにも関わらず、英和のギャンブル志向だけは未だに収まる所を知らず、その範囲はパチンコだけではなく競馬や競艇にも広がっていたのだった。

 遊び程度でするというのが母との約束であった。それをいとも簡単に破ってしまった彼の所業は許せるものではない。悔恨の念に浸りながらもまだギャンブルを続けようとする頑なな意志を多方向に活かす事が出来ないものか。

 何故ここまでギャンブルなどに打ち興じるのかは自分自身でも理解出来ない。でも金さえあれば自ずと身体が向かってしまう時点で、その心は既に病に冒されていた可能性もあるだろう。

 英和はバイト先の人から或る噂話を訊いていた。

「林田君、滝川君て同級生なんやろ? あの子うち身内の店でバイトしとうらしいんやけど、給料前借りばっかりしてパチンコに嵌っとうみたいやで、あんたも気を付けよ、あんな子とは付き合わん方がええと思うで」

 何故同級生と分かったのだろうか。どうせ義久が軽々に言ってしまったのだろうが彼の口の軽さには憤りが隠せない。その所為で自分までもが無い腹を探られてしまう。

 だが自分もギャンブル好きという点では所詮は同じ穴の狢で人の事は言えない。でも義久とだけは同類に見られたくなかった英和は一時ギャンブルを止めて青春を謳歌させるべく、学業に交友に恋愛にバイト、そして二年生にもなってから水泳部に入部するのだった。

 そう決心したのは小学生の頃から習っていた水泳をしたいという単純な発想だけに起因するもので、多少なりとも自信があった彼は迷う事なく入届けを出す。

 顧問の先生や練習生からは訝られたものの、入ってしまえばこっちのもの。真剣にも爽快な様子で泳ぐ彼の姿は周りに違和感を与えるものではなく、その技量も皆の足を引っ張るようなものでも無かった。

 英和が得意としていた種目はフリーの短距離で、そのスピードは100mを1分少々で泳ぎ切るといったそこそこのタイムであった。

 休憩中に先生が言う。

「お前、なかなかの腕やけど、何で今頃になって入部して来たんや? 1年生から入っとけば、もっと上達しとったのに勿体ないな~」

 英和は少し照れながら謙遜するのだった。

「いや、有り難う御座います、確かにその通りなんですけど、衝動に駆られただけなんです、だから大会などには出れなくてもいいんです」

「ま~これからやけど、でも体力、持久力は大した事ないみたいやな、その辺から鍛えて行かんとな」

「そうですね、宜しくお願いします」

 ギャンブルはする、煙草は吸うで体力が増す道理がない。図星を突かれた英和は思わず動揺し、それを見透かしていた練習生達もニヤニヤと笑っていた。

 練習を終えてから家に帰る途中で俄かに込み上がて来る感情に気付く英和。それは頑張って笑っていた奴等を見返したいという想いと、カッコの良い逆三角形の体型を作り直子に見せてあげたいといった健気な願いであった。

 帰途の道中毎日のように目にするパチンコ店の前で彼は或る人物に遭遇する。今絶体に会いたくなかった義久はこれまでの余所余所しさを一変するかの如く、馴れ馴れしい感じで声を掛けて来るのだった。

 当然英和は無視を決め込んでいたのだが、執拗に迫る義久には何か只事ではない様子が窺える。致し方なくその場に立ち尽くす英和に対し義久はこう言うのだった。

「おう英、久しぶりやんけ、ちょっと助けてくれへんか?」

 英和は相手にせず立ち去ろうとした。すると義久はその手を掴んで懇願する。

「頼むわ! ちょっと困っとうねん、3千円だけでええから貸しとってくれへんか? な、一生の頼みやって!」

 英和はその一瞬義久を殴ってやりたい気持ちに襲われたが、それとは裏腹に何故か放っておけないといったお人好しな感情が芽生えて来るのを感じる。

 彼はあろう事か財布から3千円を取り出し義久に手渡すのだった。義久は案の定とも言える形だけの礼をしてから素早く店に戻って行く。

 英和は何故金を渡したのだろうか。単に義久を憐れんだだけなのか。それとも旧知の仲である彼が自分と同じギャンブルに嵌ってしまった事に対する浅はかな人情なのか。

 自分でも理解出来ない心の変容は事実となって彼の精神を葛藤させる。これこそが意志の薄弱なのだろうか。

 店のガラス戸には、答えを見出せないままに歩き出す英和の水泳で疲れ切った表情が更に衰弱して映るのだった。