人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十話

 

 

 或る日英和は何時も通っていた銭湯でばったり義久と出会う。彼の底を見せぬ相変わらずの無表情な顔つきには未だに釈然としないものがあったが、どうせパチンコで負けたであろうと予測する英和は貸した金が返って来る事に期待はしなかった。

 風呂場に入った時点で何か人の視線を感じる。他人に干渉する事を嫌う英和は毅然とした態度を崩さなかったが、知り合いの常連客の一人が声を掛けて来た。

「おい、お前そのケツどないしたんや? 真っ白やんけ!」

 笑いながら訊いて来るその者に一瞬動じた英和だったが、よくよく自分の身体を見てみると確かに腰から下、股にかけての部分だけが真っ白になっている事に気付く。それは部活動で穿いていた水泳パンツに依ってその部分だけが日焼せずにいた為、他の部分と比べて際立って白く見えるといった滑稽なものだった。

 無論他の部分が日焼けしていただけで地肌が特別白いという訳ではなかったが、改めて鏡に映る身体の色の違いを見ると男ながらにも羞恥心がわいて来る。

 彼は照れ笑いをしながらも一応の説明して、逃げ込むように湯舟に浸かるのだった。

 先に入っていた義久も周りに影響されるように少し笑っていた。そして英和が口にするであろう借財の件に対し、訊かされる前に自分の方から言及するのだった。

「この前ありがとうな、上がってから返すわ」

 彼の言葉は多少なりとも英和を愕かせた。まさか儲かったのか、それともただ律儀に返済してくれるというのか。しかし珍しいとも言える義久の言動であっても、カッコをつける訳でもないが3千円ぐらいの貸金に執着する英和でもなかった。

 彼が真に問い質したかったのは言うまでもないあの件以来義久が態度を急変させた事だった。英和は少し神妙な面持ちで訊き始める。

「金もそうやけどお前、何であれから俺らの事無視しとったんや?」

 流石の義久もその間の抜けた顔に似合わない真剣な眼差しを以て答えようとする。

「あれは親に言われとったんや、たとえ二人にどつかれても警察ではほんまの事謳えってな、俺かって始めは黙っとったんやで、でも結局は口割ってもたんや、ほんまにごめんな、すまん!」

 この時英和は思った。確かに義久の言にも一理はあ。自分の事を棚に上げて言うのも烏滸がましいが、義久如きが警察に迫られて何時までも黙り通せる訳がない。そういう側面から考えると不憫にも思えて来るし、所詮は誘った自分にも非はある。

 しかし問題は要らぬ助言を与えた彼の親御さんの事で、全てを白状するという潔さ、そして被害者への償いが一番重要である事は当たり前ながらも、初めから仲間を裏切るような行為を促すという思考にははっきり言って承服しかねる。

 もし自分なら最後まで仲間の事だけは庇うといった信条も所詮は主観に過ぎず、客観的に見れば決して正しいとも言い切れない訳だが、義久の親御さんは余りにも物事を割り切って考えているような気もする。

 それに加え一度は態度を急変させ、恰も訣別でもしたかのような雰囲気を漂わせていた義久が今になって折れて来た、それも金を無心するという形で。

 この事を真正面から受け取ると義久へ対する恨みは凄まじいまでの力で込み上げ、顔を合わせた時点で殴り飛ばしてやりたいといのが正直な気持ちかもしれない。でも両者の間に軋轢にも及ばない些細な行き違いを起こしてしまった要因はあくまでも自分に端を発していて、贖罪を果たす義務や倫理とは別に、過失とも思えてしまう今回の件での落ち度は常に完全性を保ちたい英和の潔癖な精神を深く傷付ける。

 こう感じてしまう事にこそに己惚れがあろうとも人が持って生まれた性質を変える事はまだ若い彼等にとっても容易ではなく、人生に対する拘りが人一倍強い英和のような神経質で割り切る事を知らない狷介な者には尚更堪える。

 風呂から上がり脱衣所で着替えてから義久は金を返してくれた。

「はい、ありがとうな」

 手渡された5000円という金額を訝る英和は反論する。

「何やこれ? 多いやんけ、こんないらんわいや」

 と言って貸した3000円だけを受け取り残りの2000円を返そうとすると、先程風呂場で声を掛けて来た知り合いがまた声を掛けて来たので英和は結局5000円をそのまま懐に納めて平静を装い始める。

「そっか、水泳頑張っとんか、ええやんけ、若いうちは何かに打ち込まんとな」

「はい、頑張りますわ」

 一応返事はしたもののそれは言うなれば社交辞令みたいなもので、青春を謳歌させたいなどといった想いはあくまでもギャンブル依存を緩和させたいだけに過ぎなかった自分の意図を改めて知る英和だった。

 それを証拠に彼は店を出てからも2000円を義久に返そうとはしなかったのだった。それは取りも直さずこの二人に共通するギャンブル好きな意志的な性格が齎した惰弱な精神に依る所が大きく、付き合いの長さだけで無意識裡に育まれていた両者の上辺だけの仲が災いした結果に相違ない。

 その上でも未だに逡巡と戯れる英和は繊細な気質の人物というよりは、やはり単なる優柔不断で見せかけだけの優しい男であったのかもしれない。

 

 時は過ぎ正に夏本番。燦然と照り輝く強い陽射しの下で意気揚々と生活する人々には、まるで羽を得た蝶や鳥のように今にも羽搏かんとする勇ましさが漂っている。

 身体から滲み出る汗は厳しい暑さを嫌うというよりは寧ろ自然現象に対する正直な気持ちの表れで、光る素肌の煌きはなにものにも代え難い純粋な艶を保っている。

 古今東西、老若男女を問わず、亦この夏という気節に抱く想いも千差万別なれど、何故か特別な感情が芽生えて来る者も多いのではなかろうか。その最たるは季節の変わり目で、夏が過ぎてしまうと自ずと寂寥感に包まれる心情にも普遍性を感じる。

 緑が実に映える美しい樹々はその大きな身体で光合成を繰り返し、街の喧騒を和ませるようにして柔らかい空気を作り出し、人の心を癒やすと共にその感覚を明瞭にしてくれる。自然の理にして自然の摂理というものは一切の妥協を許さず常に反芻しながら、衆生の精神を代謝し浄化を促す役割を担ってくれているが、それに報いらんとする人々の意志は何を以て奉公すれば良いのだろうか。

 入部してまだ数ヶ月しか経たないにも関わらず、英和は大会に出場出来る運びとなった。そうなったのは彼の日頃の行いが良かったのか、その練習に対する姿勢が認められたのか、単にタイムが出ただけなのかまでは分からない。

 でも望んでいなかったとはいえ大会というものは練習の成果を示す事が出来る格好の場であり、是非はともかく心を震わす晴れの舞台でもある。

 顧問の先生は何故か英和の事を気にかけてくれ、タイムを更新出来たなら飯を奢ってやるとまで約束してくれていたのだった。それと同時に言われていた事は煙草だけは辞めろというそれこそ当たり前の話だったのだが、彼が煙草を吸っていた事を先生は既に知っていたのか憶測だけなのかまでは分からない。

 だが賭け事が好きな英和はたかが飯とはいえ自力で勝ち取れるギャンブルのような感じで受け取り、どうあってもタイムを出そうと躍起になっていた。

 大勢の者が参加する水泳大会で彼の出番はやはり100mフリーという種目一つだけだった。他の部員達が次々に出場し、そのタイムもそこそこのものだった。帰って来た部員に英和は労いの言葉を告げる。

「お疲れさん、流石やな~、インターハイは間違いないな」

 彼がこんなベンチャラを言えるようになったのは入部してからで、それまでは誰に対してもたとえ冗談でも言わなかった。それは不器用で言葉が足りなかったというよりはただ単に言うまでもない事を一々口にするのが嫌なだけであった。

 それが何故ここに来てそんな事を言うようになったのかは、必死に泳いでいる時に無心の裡にも脳裏を過る直子の姿に感化された為であった。彼女に対する情愛は英和のような些か気難しい人物の精神にも試練という名の余裕を与えてくれたような気がする。

 思慕の念とでも言おうか。大袈裟は話かもしれないが或る目標を自らに課す事に依って更なる情愛が生み出される事は往々にあるとも思える。そして自信があるからこそ見出される余裕。無論そこには幾多の試練が待ち構えている訳だが、英和は気力だけで打ち込んでいたような感もあった。

 いよいよその出番がやって来る。50mという長水路のプールには体力的な意味でも緊張が隠せない。そのうえ大勢の観客の視線は、気にならないまでも姿があるというだけで有形の圧力というものを投げ掛けて来る。

 英和のコースは全7コースあるうちの5コースで自ずと弱い部類に選別されていた。そんな事に動じる彼ではなかろうとも、他の選手達の入念に鍛え上げられたスイマーと言わんばかりの見事な逆三角形の体型には多少なりとも畏怖し、憧憬を覚える英和でもあった。

 爆竹のようなピストルの音でスタートが切られる。一同はイルカのような曲線を描きながら颯爽とプールに飛び込み、烈しい水飛沫を散らせながら疾風の如く泳ぎ始める。

 観客席からは煩いほどのセイセイという歓声が聞こえる。だがその声は泳いでいる本人には正に援護射撃をするような頼もしい見方であり、気持ちは昂る一方だった。

 50mのプールでは水圧も数倍に感じられ思うようにスピードが乗って来ない。このままでは最下位になってしまう。そう感じた英和は持てる力を振り絞り一心不乱になってただ泳いでいた。

 するとターン寸前で或る幻像を見る。それは直子なのか康明なのか義久なのか、或いは親兄弟なのか。はっきりとしない幻像は果敢に声援を贈ってくれる。

「もっと頑張ったらんかいやおい、お前の力はそんなもんかいや、根性見せたらんかいや、ほら行けゴラァァァーーー!」

 時代錯誤の精神主義とも言えるこんな言葉を直子が発する訳はない。そして康明も義久も。ならばやはり親なのか。でも母はいくら男勝りな気丈な女性であるとはいえこんな口汚い物言いはしない。とすれば消去法で死別した父親なのか。

 英和は敢えて答えを見出そうとはせず、天の声でも聴いたつもりで無心になってひたすら泳いだ。もはや結果などはどうでもいい。ただ完走するだけだ。

 気が付けばゴールしていた彼が見た電光掲示板には3位、1分ジャストという結果が表示されていた。これは幻覚なのか、もし事実であれば明らかにおかしい。初めの50mでは最下位を争うぐらいだったのに、それが何故3位にまで喰い込む事が出来たのか。

 席に戻る英和には騒々しいまでの拍手喝采が待っていた。彼の功を称賛する者達は口々に言葉を告げる。

「おいお前凄いやんけ、後半どうしたんや? 覚醒でもしたんか?」

「流石は英和君、やる時はやるんやな」 

「見直したわ」

 それらの言葉は全て英和の心を直接的に揺さぶって来る。今まで味わった事のない昂揚感と陶酔感。それに浸る彼は未だに幻覚に翻弄されているような感じを拭い去る事が出来なかったが、それ以上に働き掛けて来る感覚的な喜びは何だろう。まるで自分に共鳴するように凄まじいまでの気焔。

 烈しくも優しい純粋無垢な心の情景を、英和はその奥底に眠る自らの魂という心の財布に蔵い込むのであった。