人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十二話

 

 

     二章

 

 

 送る月日に関守なし。気がつけば春、気がつけば夏、秋、冬と、人という生命には情緒的にも少し呑気な感傷にふける習慣があるように思える。

 それは当然年齢にも直接影響して来る訳で、数えで25歳になる春を迎えた英和は花見の時期が終わった頃合いを見計らって、少し離れた場所から散り行く桜の姿を呆然とした表情で独り眺めていた。

 敢えて距離を取っていた理由の一つは荘厳な山々と同じく余り間近過ぎるとその美しさが損なわれるのではないかといった相変わらずの繊細な気質に依るもので、一つは一人で花見でもしているのかと思われる憐みを嫌う気恥しさから来るものだった。

 優しい風にさえ攫われそうな一片の桜の葉は、その可憐にも艶やかなピンク色の身体を振り子のような形を描きながら舞い落ちて行く。桜ほどに軽い葉ならばいっそもっと烈しい風に依って天高く舞い上がって視界から消え去って欲しいものだ。でも落ちて行く儚い光景にこそ自然の耽美ともいえる無意識的な芸術があり、もし手を加えてまで希みを実現させたとしてもその心は充たされないだろう。

 そして散って行く過程に於いて樹枝に出来た疎らな空間と、既に緑を現わしているその全体像にはもはや桜としての優美な威厳などは消散したような漂いもあるが、際限なく続いて行く植物の神秘性は決して人に憂慮を投げ掛けるものではなく、種類毎の差異はあろうとも長い寿命と、季節になれば必ず立派に咲き誇って見せてくれるその心意気には人間社会にはない悠久ともいえる不変性が感じられる。

 だがそれを踏まえた上でも何か理屈抜きに桜という木花が余り好きにはなれない英和のような人物は何を深く考察しているのだろか。無論自然そのものはあくまでも肯定的に捉えていて好き嫌いといった正直にも浅はかな二元論だけで論じるつもりなどはさらさらない。ならばやはり短絡的、断片的思考が充ち溢れていると思われる現代社会に対する憤りからなのか。それとも常に何かを疑わなければ気が済まないといった身勝手な拘りなのか。将又素直に感情表現が出来ないだけの脆弱な精神が齎す屈折した心理状況に依るものなのか。

 他者から見れば単なる小難しいだけの狭量な男と解釈される可能性などは、人自体に頓着のない彼には取るに足らない事で是非にも及ばない話だった。

 問題はそんな自分の中にある錯綜した想いと闘いながら共に生きて行く、引き連れて行く事を敢えて選び、亦そうする事でしか生き甲斐を見出せないといった多少の蟠りが残る覚悟を悠揚とした態度の中に持ち続けようとしていた彼の真意に尽きるだろう。

 さわやかな風と強い陽射しを浴びながら飛翔する鳥の姿は清々しく映る。この鳥のようにただ悠然と空を飛び回りたい。そんな気持ちとは裏腹に顔がさす事を謙虚に感じた英和は徐に公園のベンチから立ち上がり、少し申し訳なさそうな面持ちで桜に別れを告げてから歩き始めるのだった。

 高校新卒で入社した設備会社は酒の付き合いが嫌だという軽率な理由だけで直ぐに辞めてしまった。次に入った大手工場は人間関係が煩わしいというこれまた同じような理由で辞めてしまい、その次の印刷会社も辛気臭いという我儘な理由で辞めたのだった。

 高校を卒業してからここ数年で幾つの会社を辞めただろうか。アルバイトも含めれば数え切れないかもしれないし数えるのも嫌になって来る。だが一切の後悔をしなかった彼は己惚れともいえる世間に対する悲観的思考を自分の盾にするようにして、平然と生活していたのだった。

 それこそ若気の至りに準じたまるで根拠のない、強がりを含んだ抗いであったかもしれない。とはいえそういう思想自体には何ら嘘偽りはなく、あくまでも本能の表れとも言うべくこれまでの所業はたとえ他者から批難されようとも自らを卑屈にさせるだけの力までは擁していなかった。

 その紆余曲折にも及ばない敢えて選んだ遠回りという道程の中で彼が改めて感じた事は、やはり人間社会というものは滑稽極まりないといった哀れみと憂いだった。

 まだ大した経験もしていない彼のような凡人がこんな思想を持ち続けている事の方がよっぽど滑稽で甚だ稚拙にも思えるが、それは決して上からものを見る訳でもなければ他者を馬鹿にするような短絡的思考に依るものではなく、彼なりの浅はかながらも確固とした憧れが起因する理想郷を夢見る心情から芽生えた思想であり、その僅かでも達成出来ない世の中ならば死んでしまった方がマシなのではといった極論に依って担保される不動の精神でもあった。

 そんな相変わらずの頑なな性格の英和に文を付けて来る康明もまた何処へ行っても務まらずに、結局は親御さんが営んでいた塗装屋を手伝っていたのだった。

「おい英よ、お前は何時も何考えとうねん? 明日も朝早いねんからええ加減酒止めて早よ寝ーよ、じゃーな」

 英和は康明と共に彼の親御さんの世話になって塗装職人をしていた。はっきり言って塗装になど全く関心が無かった英和がそうした理由は気楽さに惹かれた事と、自分もどうせ何処に行っても務まらないという惰性からであった。

 まるで自分の行動を見透かしていたかのような康明との電話を切ったあと、英和は致し方なく酒を飲む手を止め倒れ込むように床に就く。身体は疲れていないし酔いもたかが知れている。それなにの何故か気持ちは重い。気鬱さだけはいくら酒を飲んでも晴れる事はなく、たとえ晴れたとしても一時的な誤魔化しに過ぎず、特に一人酒などは返って自我に固執してしまうといった副作用すら発揮してしまう。

 それでも多少なりとも気持ちを和らげてくれるという点では少なからず麻薬的な効能も含めて一応は処方箋の役割を果たしているのも事実で、然程酒が好きではなかった英和ではあれどその飽和状態になった己が心の情景に浸る事を嫌いはしなかった。

 

 晴天が続く事は外で仕事をする者にとって経済的な不満は無いに等しい。捗る工程は正にその邁進する職人達の技術と心意気に依って示されている。

 小さな現場で施主さんから直接仕事を請けていた康明の親御さんも何ら愚痴を零さず黙々と作業を熟す。この親方は建築関係の仕事では珍しいぐらいの大人しい紳士的な為人をしており、英和は勿論息子の康明にさえ決して怒鳴るような真似はしなかった。

 鷹揚にして聡明、繊細ながらも大らかなその性格は人に好かれこそすれ嫌われる要素は何処にも見当たらない。母子家庭で育った英和はそんな親方を康明以上に好いていた。仕事上で分からない事があった場合にはいくら忙しくても親身になって教えてくれるし、休憩中には笑い話などをして皆を和ませてくれる。

 そのうえ悩み事にも付き合ってくれるといった言わば至れり尽くせりな環境は、惰性に甘んじたとはいえ英和に一切の下心を持たせない。

 もしこれでまだ不満を口にするようならば英和こそが人非人であり、人の勝手という履違えた権利を踏まえた上でも許し難い行為であると言っても過言ではないだろう。

 所狭しと建てられたシートが張り巡らされた足場の中での作業は移動する点に於いては少し厳しいものがあったが、そこでじっとしている時などは自分の世界に浸れる細やかな優越感を齎してくれる。

 一言に塗装といっても養生テープやシートを張る段取り作業からブラスト(塗装剥離)やパターン付け、調色、そしてスプレーガンで行う吹き付けに、ローラーや刷毛での塗装等、その工程は結構複雑で多岐に渡る作業を習得するには結構な年期を要する。

 そられを丁寧に優しく手解きしながら教えてくれた親方に感謝しながら作業に励む英和と康明はもう既にそこそこの職人に成長していて、言われるまでもなく素早く立ち回る二人の姿は傍から見ていても爽快に映る。

 英和は足場のシートに囲まれたシンナーの匂いが充満する空間の中で、作業をしながら無意識裡に快い幻覚を見るのだった。

 吹き付けられる無数の塗料が壁に打たれた後も自由闊達に飛び回っている。それはまる夜空を駆ける流星のような綺麗な姿で、目で追うには無理があるほどの光の速さで走り去ってはまた舞い戻って来るという円を描くような反復作業を続けている。

 英和は手を使ってそれを掴もうとした。当然掴み取る事など出来ようはずもない星屑達は逆に猛烈な勢いで彼に迫りかかって来る。壁までの距離は僅か数十cmの筈がこの宇宙空間とも呼べる幻覚の中にあっては気の遠くなるような距離にも感じられ、迫り来る星は巨大な隕石の形にまで急成長しその身体に覆い被さって来る。

 攻撃を躱さなければ自分が殺されてしまうと悟った彼は精一杯抗いながらも死ぬ覚悟を決めていた。やがて隕石が眼前にまで差し迫って来た。それを両手で受け止めながら目を瞑って無心になる。しかし隕石は一向に手を緩めようとはしない。こうなればやはり死ぬしか道は残っていないのか、短い人生ではあったが、それなりに楽しめた。自分のような非力な人間が今更足掻いた所で何を出来るというのか。

 それは諦めというよりは敗者の潔さであり浄らかな川水の如き純粋な心の流れ。これに異を唱えるとすればただただ反抗の意思を以て立ち向かうしか術は無い。

 それも一興これも一興で硬派な精神を尊重する英和のような男なら抗う事にこそ真実を見出しそうなものだが、そうしなかったのは今見ている幻覚を現実のものにしたいという飛躍した考えの方が勝っていたのかもしれない。

 だからといって死に急ぐ軽忽を安易に認めたくもない彼は今一度耳を澄ませて啓示を受けるべく全ての邪念を捨て去った。それでも天の声などは依然として聴こえて来ない。やはり腹を括るしなないのか。

 遙かなる古(いにしえ)の賢人達から無言の裡に伝わる叡智と感覚的な意識。その本質とする所は言うまでもない人間が誰から教わる事なく持って生まれた喜怒哀楽、この四つの感情に他ならない。無論生きて行く上でそれが差異を生じる事もあろう。でも是非はともかく純心を穢さんとする邪な心は決して自然に生まれたものではなく、意図するからにこそ生じ得る本音に対する裏切りの刃であり自らを欺こうとする虚栄心ともいえる守りの型ではなかろうか。そんな偽りの刃に鋭い切れ味があるとは到底思えなく、贋作であると信じたい。

 こんな事を考えている時点で英和が無心に成り切れていない事は自明の事実だった。結局は死ぬしかないのか。巨大な隕石は彼の目前にまで迫り今にも落下して来そうな勢いだ。

「うううぅぅぅー!」

 思わず発した呻き声は家の壁に反射され、それに共鳴されるかのように宙を舞っていた隕石を形成していた筈の無数の流星群が独自の塊となって隕石に攻撃を仕掛ける。

「ドドドーーーン!」

 流星群は忽ちにして隕石を粉々に破壊してしまった。無残に彷徨う隕石の欠片は虚しさだけを漂わせながら溶けるようにして姿を消して行く。

 幻覚とはいえこの隕石こそが英和に執着して離れなかった悪の元凶ともいえる邪な心だったのではあるまいか。取り合えず安堵する英和だった。

 するとその声を訊いたのか康明が駆け寄って来る。

「お前何しとんねん? 今何か言わんかったか?」

 一瞬たじろいだ英和も殊の外冷静な面持ちで答える。

「いや、別に、普通に仕事しとうだけやけど、強いて言うたら塗料と戦っとったんや、それが俺らの生業やろ? ちゃうか、そやろ?」

「ふっ、ちょっとはとは腕上げたな」

 康明の言は更なる安堵を齎してくれた。それにしても今見ていた幻覚は一体何を意味していたのだろうか。本当に英和に内在する蟠りだけだったのだろうか。

 仕事を終えた彼等は何時ものように至って自然な朗らかな表情で互いのろうを労いながら帰途に就くのであった。

 

 

 

 

 

 

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