人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十六話

 

 

 何も考えなくていい。何も思わなくていい。何も感じなくていい。そんな心理状況になれる場所とはどんな所だろうか。

 出来るだけ広く、殺風景で、綺麗でもなければ醜くもない大した印象を受けない場所とは。例えば見渡す限り緑が広がる一面の野原。樹々や草花さえもない荒野。何処までも続く砂漠。凪に見る静寂閑雅な海。幻想的な湖。一応は何処からでも見える青空。

 無論それらにも人を無心にさせる完全な力などはない。でも多少なりともそんな気持ちに成りたい者の手助けにはなるだろう。

 内外ともにシンプル好きであった英和には何時もそんな場所を求めて彷徨っていたような節があった。それこそが潔癖な証かもしれない。ただ人間には時としてその内なる精神が外見にも影響を及ぼし、更には他者にまでそれを求めてしまうといった歪んだ欲情に駆られる事があるように思える。 

 傲り、己惚れ以外のなにものでもないこの欲ほど厄介なものもなく、自分では理解していてもついそんな衝動を覚えてしまう。それも親密な仲ならば尚更で、それが疎遠状態を導いてしまう事は自明の事実で自業自得とも言える。

 最近会っていなかった義久に対しては自分の事を棚に上げて、

「パチンコもええ加減にせんとあかんでな~」

 と言ってしまった。あくまでもさりげなく言っただけなので、この一言だけで疎遠になったとは思えない。或いは英和が一方的にそう思い込んでいるだけかもしれない。

 とはいえそれ以来義久の態度が何処となく余所余所しくなっていたのも確かで、英和は自ずと内省的になっていたのだった。

 この日彼は仕事を終えてから久しぶりに康明と飲みに行っていた。康明は酒には強いが余り飲まない方で、旧知の仲であるにも関わらず二人が腰を据えて酒を飲む事は珍しいほどだった。

 英和と違って社交的であった康明が余りそういう場所に行かない事も少々不思議に思えるが、人に感心のない英和の性格は猜疑心までもは発生させない。

 快く飲んでいる雰囲気は見るからに仕事を終えた後の一杯という互いのろうを労う印象を漂わせ、そこで話される内容も緩慢な他愛もない雑談という感じだった。

「最近おもろい事あるか? 俺はあんまりないけどな~」

 英和のしけた話し方は今に始まった事でもなく、康明も微笑を称えながら答える。

「ないな~、あるとしたらええ女と付き合い出した事ぐらいかな~」

「そやろな~」

「何や、知っとったんか?」

「知らんけどな」

「何やそれ、ええ加減な事言うな」

「いや、お前の顔見とったらだいたい分かるわ、ほんまに正直なやっちゃで」

 酒を酌み交わす二人会話といえばこの程度のものか。康明も根明とはいえ決してテンションが高い訳でもなく、そんな所で英和とも折り合いがついていたのだろうか。

 地元のいきつけのこの店には知り合いの常連客も多く、中には恰も家族のような感じで接して来る者もいた。二人もそれを嫌いはしなかったが、年上の人というのは説教じみた話をする事が往々にあり、敬遠したがる気持ちは分からなくもない。

 これにも世代の差違があるのだろうか。英和達にはそこまで気を悪くさせるものにも感じられなかったが、その言い方にも依るのかもしれない。

 よく喋る年配の女性は二人にこう言って来るのだった。

「あんたらもうええ年やろ? 何時まで独りでおるつもりやねん、結婚せーへんのか? 相手おるんかいや? え~」 

 こんな事を言われた経験も何度かあったが、この女性の決して嫌味や皮肉でもない、朗らかな表情で謳う優しいお節介は取るに足りない言い草であり、笑いながら相手をしていた二人にも全く卑屈になる様子もなかった。

「ま、そのうちね」

「ふっ、早い方がええと思うけどな」 

 懐に余裕があったのかその女性は二人に酒を奢ってくれ、それからも談笑を続ける。

 しかし、彼女の言葉に感化されたのか英和は少し神妙な眼差しで康明に語り掛ける。

「ところでお前、親っさんはほんまにええ親方やでな、俺も世話になりっぱなしで感謝に堪えへんわ、お前も親孝行せんとあかんでな、親っさん結構年やろ?」

 この言葉が癇に障ったのか康明は珍しく語気を強めて返してくるのだった。

「いらん事言わんでええねん、俺は親父が死んでも大して応えへんわ、お前みたいな義理人情の世界に生きとう人間ちゃうしな」 

 彼の言葉も英和を激高させる。

「何が義理人情の世界どいやわれダボよ! 大袈裟やねん、お前も下町育ちやねんから俺と一緒やろいが! 調子乗っとったらただで済ませへんどゴラ」

「何で他人のお前がそんな真剣に怒るねん、冗談も通じひんのかいや......」 

「冗談で言うてええ事と悪い事の区別もつかんのかいや」

 康明は黙って微笑を浮かべていた。そんな態度に業を煮やした英和は更に続ける。

「お前、親に対してそんな事言うてええんかいや、お前には似合わへん言葉やでな、今頃になってグレ出したんかい、おー!?」

 康明はまだ笑みを浮かべながら他人事のような感じで飲んでいる。英和としてはてっきり烈しい口論が始まるとばかり思っていた。それが肩透かしにでも遇ったような、違和感を抱くこの状況は一体何なのだろうか。

 だが思い起こしてみれば康明が烈しい論戦を繰り広げる事などは今まで一度たりともなかった。そこまでして争いを嫌う理由は理解出来ない。古い精神主義と言われようともおとこ同士ならいっそ腹をぶち割って激論に興じても良いのではあるまいか。

 そう感じる英和は益々昂奮してしまうのだが、それを抑える術は見当たらない。顔を移すと先程の女性が店主らと談笑し続けている。この女性は敢えて反面教師の役割でも担ってくれていたというのか。

 康明は黙ったまま金だけを置いて店を出て行ってしまった。英和も敢えて引き留めようとはしなかった。

 言い過ぎたのだろうか。いやそこまでの話でもない筈だ。店に居る客達の笑顔は以前見た月と同じく、自分達を嘲笑っているように虚しく映るのだった。

 

 翌日からの職場でも二人は殆ど口を利かないままにただ仕事だけをしているといった味気ない時間が過ぎて行く。

 温厚な親方も何も言って来ない。三人しか居ないこの状況にあっては親方の慧眼を以てすれば二人の間に迸る無言の軋轢を察知する事などは実に容易いであろう。

 それなのに何も言わない親方は敢えて口を差し挟まなかったのか、何とも思っていなかったのか、それともそれこそが要らぬ世話だと確信していたのか。

 その全てを踏まえた上でもやり切れない英和は是が非でも自分の方から康明に言葉をかけまいと決心していた。頑なにも浅はかで幼子のような一途な精神構造を持ち続けていた彼のような人間は不器用極まりないという偏見で片付けられがちだが、直情的であるとはいえその中にある誠実な心根には誰も目を向けてはくれないのだろうか。

 そんなものを欲しがるでもなく、亦自らを省みるつもりもない英和はこの日も仕事を終えて真っ先にギャンブルに身を窶すのであった。

 そこにさせ行けば何かが掴める、何かが達成出来るといった幻覚に惑わされながら。

 そして辿り着いたパチンコ店ではまたしても義久の姿が目に入って来るのだった。彼は何故こうも自分の前に現れるのか。偶然なのか、わざとか。

 それでも今の英和の心理としては義久に対する親近感が癒しにもなり、取るに足りない康明との仲違いが齎す僅かな寂寥感を葬り去ってくれる一筋の光にさえ感じられる。

 他力本願を望む彼でもあるまいが、それこそが精神の脆弱性を示唆するのか。周りは仕事帰りの大勢の客の声で騒めいている。それをも憚る事なく義久の下へと急ぐ英和。その足取りは整然とした慎みの中にも、私情をも欺く憐れな虚栄心を漂わせていた。

 義久の席に辿り着いた英和は彼の肩に手を添えながら声を掛ける。

「おう、今日も出とうやんけ! 流石やな~」

 義久は笑いながら明るい可憐な目つきでこう答えた。

「おう、仕事終わったんか? そろそろ登場するんちゃうかなと思っとってん、またようけ出してくれや、期待しとうで」

 その言葉を額面通りに受け取ってしまった英和は、躊躇う事なく台の目ぼしを付けて行く。店を一回りしても空いてる席が少なかった。ならばまた義久の近くでするか。でもそれでは味が無いように思われる。

 すると義久の三つ隣で連チャンしていた客が踏ん切りをつけたのか止めて行く姿が見えた。データカウンタを確かめると大当たり回数25回で運ばれるドル箱の数は十数杯という英和の予想ではまだ出る、いきなり止めるのは勿体ないといった自称ギャンブラーとしての勘が働く。

 皆が敬遠する中で彼は真っ先駆けてその台に坐った。義久までもがこちらを見つめている。そんな中でする遊戯は緊張を投げ掛けて来るが、全く怯む事なく打ち始める英和はあろう事かオスイチ(坐っていきなり大当たりを射止める)を遂げるのだった。

 隣の客は思わず拍手を贈ってくれた。当然義久も愕いている。だが気になるのは止めたばかりのこの台に坐っていた前任者の様子で、それを横目で眺める英和の表情はまるでヤクザにでも怯える、貫禄のある先輩に怯える、猫に怯える鼠のような憐れにも滑稽な弱弱しい眼差しを称えつつも、それとは裏腹な歓喜に充ちた身震いを隠せずにはいられなかった。

 その見知らぬ前任者は帰り際に英和の肩を優しく叩いてくれた。杞憂に過ぎなかった彼の憂慮は真っ白な空の如く純粋な喜びに打ちひしがれる。

 さもあろう。この機種は以前打った時にも必ずといって良い程に連チャンを齎してくれた。それは忘れたくても忘れられないジンクスのような情感を与えていて大連チャンを夢見る、いや確信でもしたかのような彼の勇壮な眼差しには一点の陰りさえも見受けられない。

 案の定と言うには不遜な想いが功を奏したのか、その台は大当たりを繰り返し、みるみるうちに積み重ねて行かれるドル箱の山は大袈裟な話、この世の極楽を投影する。

 数時間のうちに彼は十数杯という前任者と同じぐらいの出玉を獲得するのだった。そして店を後にする頃義久が妬ましそうな目つきをして近づいて来る。

「英、よう出たな~、ええな~、俺はあの後調子乗り過ぎて結局ボロ負けやわ」 

 少々気が大きくなっていた英和はどうせあぶく銭と思い、亦義久とも久しぶりに酒を酌み交わしたいという意図を以て誘いをかける。

「ま、今日は奢るわ、な、行こうや!」 

「おう」 

 素直に頷く義久のおぼこい表情も相変わらずだった。

 英和は舞い上がっていたのだろうか。夜の街はそんな二人をどう操るのだろうか。軽快な足取りで歩み始める両者の心情は憐れむにも及ばない、爽快にも幾許かの焦燥感を放っていたのであった。

 

 

 

 

 

 

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