人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十八話

 

 

 まだ日も昇らない外の仄暗い景色はその寒さと共に英和の純粋な焦燥を煽って来る。夢から覚めたばかりの彼には未だに現実との区別がはっきりつかないのか、まるで夢の続きを演じさせられているような思いで康明から訊いていた病院に急行する雰囲気が感じられる。

 折よく降って来た粉雪は夢で見たそれとは全く違う憂愁感だけを漂わせ、黒い地面と立ち並ぶ家々は当たり前の実社会を淡々と顕現させていた。

 何の情緒も表さないこの雪を鬱陶しく感じた英和は無心に勤めながらひた走り、病院に辿り着く。近所でそこそこ有名なこの総合病院は規模は小さいながらも親切な対応に定評があり、時間外で更に面識のない英和に対してもその只ならぬ様子を察して、

「大庭さんの見舞いですか?」

 などと声掛けをしてくれるのだった。教えて貰った部屋に駆け付けると親方のベッドの前で項垂れている康明がいた。

 彼は何も言わずに英和の顔を見つめる。英和も何も口にしないまま康明の肩にそっと手を当て、親方の安否を気遣っていた。

 前の件からも本来なら康明に対して何か文句を言いたい英和ではあったが、夢想の裡に翻った決心はたとえ見せかけだけの深慮を有する彼をしても立ち戻る所を知らず、亦己が経験からもとてもじゃないが今の康明に厳しい言葉を投げ掛けるような真似は出来なかった。

 それは父親に対する息子の心情を慮るというよりは、康明に対して一つでも悲しい経験をさせてやりたいといった己惚れた優しさから来るもので、そんな自分を恥じながらも康明から感じられる切ない想いは多少なりとも私情を充たしてくれる。

 二人の焦燥は共鳴し、親方の心へと点火される。親方は一時的にも人工呼吸器を外しこう告げる。

「悪いな、現場は二人だけで出来るやろ、頼みます」

 この期に及んで子方である二人に一言だけとはいえ敬語などを使う親方の優しさ、その真摯な姿勢には応えようがなかった。

「分かりました、心配しないでゆっくり休んで下さい」

 英和が放った言葉は康明を感動させた。零れぬ涙は彼の心中に大切に蔵(しま)われ、出さぬ言葉は親方の僅かな憂慮を解消させる。

 また呼吸器をはめ直し目を瞑る親方を見守る二人は沈黙の裡に心を一つにしていた。

 この時英和には過去という憂いが胸に込み上げて来るのが確かめられた。それは自分がまだ小学生低学年の頃、父親と死別した余りにも哀しい、悔恨が残る痛ましくも悄然たる思い出だった。

 過ぎた事にあれこれ言った所で何も始まらない。でもそれを自らが体験した場合に受け得る沈痛な思いには凄まじいまでの隔世の感があり、世の無常を悲観するつもりはなかろうとも明らかに芽生えた激情を抑える術は無いに等しいと思われる。

 そこにある喜怒哀楽のうちの怒と哀は他の喜や楽を以てしても緩和される脆弱な感情ではなく、それを願うものでもない。その悲痛な感情が保られる時間にも個人差はあろうともいち早い復旧を目指さんとする無情の精神には賛同しかねる。

 部屋に入って来た先生は言う。

「命には全く別状はありませんが、だいぶ心臓が弱ってるみたいですから仕事をするのは無理でしょうね、取り合えず入院して貰って様子を見ましょう」   

 親方の心臓病は今に始まった事でもなかった。常にペースメーカーを付けながら仕事に従事していた事は二人にとっても頭の下がる思いで、そのうえ愚痴一つ零さず明るく振る舞う紳士的な為人には無言の裡に感じる矜持が生き様となって表れていた。

 それを知るからこそ英和はこの親方を実の父として接して来たのだった。親方も多くは語らなかったが、英和の事を息子と思ってくれていたのではなかろうか。

 今にして思えば昔警察に捕まった時もそうだった。親方は叱るどころか何も言わずに二人の目をじっと見つめていた。無論それは大目に見るといった温(ぬる)い優しさではなく、これからの人生に於いて罪を贖って行けと言わんばかりの厳しさを訴える鋭い眼光であった。

 もしそれを露骨に言葉に表していたとすればそれこそ英和のような繊細な人間は逆に反抗の意思を確立させていたかもしれない。それも無論ただ思春期の若者が表しがちな稚拙な反抗ではなく、言うまでもない事を言われた事に対する他者を侮るような健気にも愚かな抗いに過ぎなかった。

 そんな性格だからこそ親方も康明も英和を敬遠していた節はあった。でもその蟠りが不幸にも親方の病に依って解消されたのである。そういう意味ではやはり経験しない事には成長しないというのが人間社会の常なのだろうか。それをも憂いてしまう英和の精神構造は既に歪んでいるのだろうか。

 決して上から見るつもりもなく他者を馬鹿にするつもりもない彼の頑なな心根は何を求め、何処に向かうというのか。

 窓外に見られる粉雪は複雑に入り混じった心情を解きほぐすように優しく降り続いていたのだった。

 

 一応認めていた英和の書き置きは母の足を急がせる。病院に行ったあと親方の奥方と話をする母の表情は神妙だった。 

「親方には何時もお世話になっています、回復してくれたらいいのですけど」

 奥方はそんな母の心配性を軽く宥めえる。

「私より心配しとうな、あんたも苦労性やでな、大丈夫やからあんまり心配せんとって、こっちまで辛くなって来るわ」

「すいません、有難う御座います」

 息子と似て非なる母のこの苦労性も英和にとって煩わしい限りだった。何かにつけて直ぐ謝る。平身低頭と思えばそれまでなのだが、何処か他者に媚びているような気がしてならなかった。

 例えば新聞の営業マンに対してもそうだった。しつこい売り込みに対して母は何時も頭を下げながらこう言っていた。

「すいません、うちは結構ですから」

 何故一々謝る必要があるのか英和には全く理解出来なかった。自分ならその営業マンにカマシを入れて追い返すだろう。たとえ喧嘩になってとしても。

 それが文句を言うどころか逆にすいませんとかいう言葉を表す母の神経には憤りまでもが込み上げて来る。だがそれが母の良い所だと感じていた英和は敢えてその事を口にはしなかった。

 今回もそうだ。何故親方の奥方に対し謝る必要があるのか。社交辞令とはいえ今このに英和が居れば理解に苦しむに違いない。そんな母の性格を知っていた親方と奥方も僅かな訝りは感じていただろう。

 でもそれを踏まえた上でもあくまでも優しく接してくれる態度には敬服する。自分よりも年が上だった奥方に甘えるような母の気持ちは理解出来る。

「ところでうちの子、ちょっと神経質みたいやけどどう思います?」

 奥方は少し間を置いてから答えてくれた。

「確かにあの子にはそんな所があるわな、うちの康明とは似ても似つかん性格かもしれんけど、でも大丈夫やで、何も暗い事もないし理屈抜きに二人は合とうみたいやし」

「そうですか、それやったらいいんですけど」

「ま、どっちも偉いわ、親孝行しようと頑張ってくれとうねんから、可愛いもんやで」

 この親にしてこの子とでも言おうか。康明も旧知の仲であるに関わらず英和の前では何一つ卑屈な様子を見せた事がなかった。それに引き換え何時も物思いに耽る英和は小難しい人間と思われていただろう。

 そのうえで付き合ってくれていた康明にはそれこそ頭が下がる。それでも人は人、自分は自分と割り切っていた英和の性格には他者を思いやる優しさよりも自尊心が先走っていた感はあった。問題はそれを如何にして良い方向へと向かわせるかといった心のベクトルであって、もし道を誤れば取返しのつかない事態に陥る可能性もある。

 十代の頃ならいざ知らず、二十代半ばにもなった彼にはその事が重荷になりつつあった。でも逃げる訳には行かない、自分を欺く事は出来ない。その一貫性だけは今の状況をして更に高まって行くのだった。

 話を終え帰途に就く母の姿は何処となく淋しく感じられる。奥方の言は単に慰めに過ぎなかったのだろうか。それともまだ言い足りない事でもあったのか。

 何をしても何を訊いても充たされぬ人の心とは本当に厄介なものだ。完全性はないまでも人が発する言葉や意図する思いにはそれなりの力が感じられる。それをどう受け止める事にこそ人間としての度量が試されているだろうか。ならば言葉などは無用ではないのかといった浅慮が湧き上がるのも自然の理ではあるまいか。

 母はそんな逡巡を息子に自己投影するかのように哀れみ、悲観していた。どうしてこの年になってまで迷い続けてなければいけないのか、何時になれば真の倖せがやって来るのかと。

 外には何時の間にか積もった雪が透明感のある風流な白を漂わせていた。数年ぶりに現れた都会の雪景色は英和と母、康明の家族、この五人の気持ちを溶かすようにして冷たくも清美に佇んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

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