人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  十九話

 

 

 数日後の或る朝、英和は仕事現場へ向かう道中に車を運転していた康明の様子を訝らずにはいられなかった。

 口笛を吹きながら運転する彼のテンションは必要以上に高く感じられる。車中に流れる音楽のボリュームも何時もより大きい。違和感を覚えた英和は素直に問う。

「何や、えらい上機嫌やんけ、何かええ事でもあったんかいや?」

「ま~な」

 康明はそれだけを答え軽快な捌きで車を走らせる。他人を干渉するのが嫌いな英和であってもこの耳を劈くような烈しい音楽を朝から聴かされるのは少々堪える。以前なら直ぐにでも文をつけていたであろう彼にも、親方が倒れてからは何処となく慎重な様子が窺える。

 結局は何も言わなかったし言えなかった。でもそれは康明に対する哀れみに依って育まれた寛容さとは思いたくない、謂わば幼子が無理をしてまで己が非を認めようとはしない健気にも純粋で頑なな一時的な心情に類似していたのかもしれない。

 現場に着いた二人は親方の分まで頑張ろうという意気込みを胸に仕事に邁進する。既に家の外壁塗装は終えており、残るはテラスにある大工が造ったウッドテーブルの塗装だけであった。

 杉の無垢材が現す幾重にも重なった模様のような木目には、切られても尚息吹きを上げようとする大自然の心意気が漂っている。たとえ耐久性を増す為の塗装とはいえ美しい姿に手を加える事をナンセンスと判断してしまう英和の稚拙な感性は、親方が訊くとどう思うだろうか。

 仕事であってもなかなか手が進まない英和の様子に苛立ちを覚えた康明は、あろう事かそのテーブルに色の付いた塗料を塗ろうとするのだった。

「おい、何しとんどいや! これはオイルステン塗るだけやぞ!」

「施主さんも俺らに任せる言うとったやろ、何でもええねん」

 言う事を訊かない康明の手を強引に止めた英和の表情は真剣だった。その気迫に圧された康明はやむを得ず手を止める。彼は何故こんな暴挙に出たのだろうか。一体何があったのか。親方の容体を慮るが故の衝動からなのか。でも昨日までは至って平然と仕事を熟していた。それが今日になって何故。

 テーブルは二台あった。二人はそれぞれが一つのテーブルを担当し塗装を施して行く。まだ油断がおけないと思う英和は常に康明の行動を監視しながら仕事をしていた。

 一度塗ってから乾くまでの間に休憩する二人。英和が車へ向かうとそこには無秩序に並べられた塗料の容器が蓋を開けた状態で置かれてあった。彼は全ての容器の蓋をしてから康明の下に戻り、改めて叱りつける。

「お前マジで何しとんどいや? 何やあれ? 使えへんもんばっかりようけ出して何がしたいねん? 遊びに来とんか? どないしたんや?」

 康明は怪訝そうな面持ちのまま貧乏ゆすりをしながら黙って訊いていた。だがよく見るとその顔つきは泣いているようで笑っている、怒っているようで喜んでいるような形容し難い、訳の分からない感情を象っていた。

 気でも触れたのか。虚ろな目つきはまるで何も見えていないような、英和の姿を映し出すだけの鏡の役割しか果たしていない感じがする。その鏡でさえも曇ってはっきりとは見えない。

 輝きを失った鏡ほど虚しいものもなく、彼の目には英和の姿も濁り澱んで見える事だろう。こんな状態では仕事どころかまともな話すら出来ない。そう思った英和は情愛の籠った一撃を康明に喰らわすのだった。

 大した力を入れていないにも関わらず康明は地面にひれ伏し、殴られた頬に手を当てながら顔を上げる。殴った英和の心は傷付いていた。康明もそうに違いない。でも彼の口元は不敵な笑みを泛べていた。

「お前、何でそんなに真剣やねん? もっと気楽に生きたらんかいや」

 意味が分からなかった。この状況で何を言い出すのだ。てっきりやり返して来ると期待していた英和の思惑はいとも簡単に座礁してしまった。確かに長年の付き合いの中でも康明と実際の喧嘩をした事などは一度もなかった。平和主義者であった彼は喧嘩自体した経験もないだろう。

 そんな彼に手を上げてしまった英和の傷心し切った剥き出しの心に康明の無抵抗ほど恐ろしく鋭い刃の切れ味を感じる時はなく、行も退くもならない状況の中で苦しみ藻掻く英和という男が乗る舟は難破して岸に打ち上げられ、そのうえ誰の目に留まる事もなく労しくも無残な姿で切なく佇んでいた。

 康明の心の変容は親方の事よりももっと奥深い所で根差しているのではなかろうか。それを一瞬にして見抜くのは不可能に近いだろうし訊いた所で答える筈もない。だからといってこのまま放置しておくのも心苦しい。

 康明の手を取り優しく微笑む英和はここでまた戦慄する。何だこの異様な匂いは。これはシンナーか。ラッカーシンナーが多数積まれてaる車中では全く気付かなかったが、今康明から放たれるこの匂いは明らかにシンナーの匂いである。塗装工というものは常にシンナー臭いと言われもはや英和も慣れてはいたものの、彼から発せられる強烈な匂いはその範疇を遙かに超えていた。

「お前、今更ラリっとんかいや? 何でや?」

 康明は間髪容れずに答える。

「お前かって何時か現場でラリっとったやろ? 人の事言えるんかいや」 

「あれはたまたま仕事中に吸い過ぎただけやんけ、一緒にすなよ」

 英和もこれ以上は何も言う気になれなかった。テーブルの塗装の乾燥具合を確かめに行く彼の後ろ姿を見つめる康明の顔から笑みは消えていたのだった。

 

 仕事を終えた康明は親方の見舞いにも行かず彩花と会っていた。口紅で覆われた彼女の唇はこの寒さの中でも少し重たげな芳醇な甘さを表現し、その可憐にも自然な厳つさが内在された男勝りな風格は付き合っている康明でさえも畏怖させる。

 彼の唇には皹が入りかさかさとした鬱陶しい感触が表情を強張らせ、吐く息の白さがそれを助長するかのように二人の間に峻烈な感覚的情動を孕ませる。

 何時もながらにドライブをしながら車の中で語り合う二人の様子は、恋仲というよりは男同士の友人の関係にしか映らない。気弱になっていた康明はこんな状態を訝り、彩花のような女性には本来英和のような男の方が合っているのではないかという悲観的な考察に誘惑されるのだった。

 隣で堂々と煙草を吸う彩花の少々尊大な態度は康明の憂慮を吹っ飛ばすような寛大な威厳を放ち、見るまでもなく感じられる彼女のオーラは康明をしても窄む事を知らなかった。

 その衰弱した精神から合理的見地に立たざるを得なくなっていた康明であろうとも、真に彩花の事を愛していたかまでは自分でも分からない。それは彩花にも言える事で二人の関係にある僅かな光は今にも消えてしまいそうなほど非力にも見える。

 康明は舞子浜で車を停め、何度も坐った事のあるベンチに腰掛ける。ここに来るのが初めてであった彩花は景色を遠くに眺めながら、らしくもない実に女らしい声音で呟く。

「こんな綺麗な場所あってんな、地元の海とはえらい違いやでな、でも何で今までここに連れて来んかったん? まさかモトカノとの思い出の地とか言うんちゃうやろな?」 

 康明はその方がよっぽどマシだと独り心の中で呟いた。勿論現実は違う。英和も康明も異性と交際するのは彼女達が初めてで、その情けないと思ってしまう気持ちは言うに及ばず、この現状にある蟠りこそが胸を絞めつける最大の要因であった。

 明石大橋の主塔やケーブルに明滅する鮮やかな色調は自ずと見る者に心地よい刺激を与え、切なくも儚い、優美な眺めは恋心を擽る。

 緩やかに差し伸べられた彩花の手は康明の手と重なり、冷たい冬の中にあっては露骨な体温の上昇を齎す。今更照れ合う両者の表情は滑稽極まりなかったが、遙かに聳える月の姿はシリアスな雰囲気を惜しむ事なく二人に授ける。

 思わず抱きしめ合う二人に立ち込める情愛は意思の伝達という余計な工程を通り抜け、周りを憚らない清純な無羞恥はその性格を変えてしまうほどの強靭な意志を以てけたたましい海風を靡かせる。

「ハックション!」 

 こんな時にまでくしゃみをする情緒感のない康明は敢えて笑いを誘おうとでもしたのだろうか。そんな筈はない。しかし冷える事を懸念する彩花は優しい面持ちで車に戻ろうとする。付き従う康明はここで言い残した想いを告げられずに悔いていた。

 そして車に入った二人は改めて愛撫を交わす。だがここに来て彩花は初めて感じた康明の臭気に愕くのだった。

「ちょっと待って、あんたその匂い何なん? まさかチャンソリ(シンナー)ちゃうの?」

 康明は返事に窮した。あれだけ英和に言われていたのに何故今日に限って彩花に会ったんだ。俺は本当にどうかしているのか。凄まじい悔恨はその額に汗を滲み出させる。「ほんまにチャンソリなんか? 私は何回も吸った事あるから分かるんやけど、これはラッカーの匂いやな、でもトルエンしてないだけまだマシかもな」

 康明の父親は塗装だけではなく建築作業を広範囲で熟していた為、家には水道管の接着剤に使われる水のりと言われる溶剤が置いてあった。これに含まれるメチルエチルケトンという有機化合物にはトルエン並みの芳香性があり、その中毒性、依存性は周知の事実ながらも人を覚醒させる効用が甚だしく大きく、専門業者や顔見知りでないと売ってくれない店もあるぐらいだった。

「そっかぁ~、そんなもん今更吸とったんか、でも私も久しぶりに吸いたくなって来たな、ちょっと分けてくれへん?」

 この一言が康明を激情させ、自省の念を駆り立てる。何故俺はこんな女と今まで付き合っていたのだ。どう考えても不釣り合いだ。住んでいる世界が違う。温度差があり過ぎる。軽率な言葉を浴びせる彼の表情は親に反抗する幼児のような怯え顔だった。

「彩花、お前俺みたいなヘタレと何で付き合っとん? もっとお前に似合う男知っとうで、紹介しよか?」

 それを訊いた彩花は烈火の如く怒り狂い康明の頬を引っ叩く。女性の攻撃とはいえそれは余りにも抒情的で強烈な一撃だった。

 今日一日だけで二人の者から顔を殴られた康明は自我を忘れただ心の中で泣き叫んでいた。その悲痛な魂の叫びは貫禄のある彩花を前にしても留まる所を知らない。英和とは違って論理的思考を嫌う彼はあくまでも今の感情の中にある正直な答えを欲していた。それは或る種の理性を超えた人間が持って生まれた感覚的意識に由来するのかもしれない。だがそれを引き出す事さえ困難な状況は障壁という名の試練しか表さない。

 それをも超えて行く力が今の彼にあるのだろうか。車の窓を開けると強い寒風が事務的な態度で吹き荒んでいる。それでも臆する事なくドアを開け外に疾駆する康明は受洗を求めて彷徨っていた。

 そんな姿を憐れんだ彩花は優しい表情で康明に寄り添うようにして、一緒になって走り狂うのだった。

 

 

 

 

 

 

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