人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十話

 

 

 無気力無関心な為人でありながら正月が大好きであった英和にとって、昨今の日本の正月感の稀薄さは憂うるに足る空虚な淋しさを投げ掛けているように感じられた。

 自分が幼い頃は駒回しに凧あげ、歌留多に百人一首に羽根つき、餅つき、そして年末年始恒例の大型時代劇やかくし芸等々、如何にも正月と言わんばかりの風物詩が目白押しで一年を通しても一番気が逸る時でもあった。

 それが今ではしめ縄すら余り見かけない。しめ縄を付けている車などは皆無といって良いだろう。勿論初日の出を拝む人達や初詣、雑煮、おせちなどは今でも遺ってはいるものの何処か物足りなさを感じてしまう。こんな風に昔を懐かしんでいる時点で彼も所詮は時代錯誤でネガティブ思考な人間なのだろうか。

 今年の正月もそんな淋しい舞台を演じると足早に去ってしまった。贅沢な話だが大晦日と元日だけにしか正月の真髄を見出せない英和は、例年の事ながら残る正月休みも呆然自失といった様子で大して何もしないままに時を過ごす。

 十日戎や成人式、厄神祭などにも全く関心がなかった英和は寒さに耐えながらも普段通りに仕事をし、ただ淡々と静寂の裡に日々を送っていた。

 そして何時の間にか迎えた二月。節分にもやはり興味はない。でも街路に謙虚に佇む梅にだけは何故か惹かれるものがあり、足を止め一時それを眺めやっていた。

 か細い幹と枝、そこで可憐な白紅に染まる梅の花は一見すると桜や桃と何ら変わりない美しさを称えているが、桜や桃よりもこの梅を好む彼の根柢にはどんな心理が働いているのだろうか。

 1枚が人差し指の爪ほどの花びらが繊細に重なり輪を成した5枚からなる梅の花は、その小さくも優美な姿を寒空の下に気丈に現し、見る者の目を優しく保養してくれる。

 上品、高潔、忍耐、忠実という花言葉はその家紋のような美しい形姿から明瞭に感じられるものの、あくまでも慎ましく咲き続けようとする清楚な佇まいには淑女のような純然たる恥じらいが漂っている。

 手を加えれば折れてしまいそうな細い枝も、偉大なる自然美のオーラが一切の警戒心を持たないままに邪念を振り払ってしまう。

 梅に鶯、松に鶴。素晴らしい四季が織りなす花鳥風月は決して永続性を好まず、一瞬一瞬の見る者の感受性に依って齎されるもののように思える。だとすればその感受性を磨いてくれるのも自然であり、謂わば心の鏡の役割を担ってくれている自然に対し濁った目で向かい合っても得られるものは少ないだろう。

 となれば尚更今英和が持ち合わせている感受性などは取るに足りない児戯に等しいもので、梅が好きという心情も正直ではあっても、単に自然美、自然の力に準じたいだけの詩人を気取るような虚栄心に依って象られている気もしないではない。

 意志的な性格がそうさせる可能性は否定出来ないまでも、感覚的に芽生えた思想というものは既に彼自身に深く内在されており、それをも滅してしまう事は生きている限りは不可能なのではなかろうか。

 自らにそれを問いかけんとする彼は少し離れた位置から改めてこの光景を眺めてみた。そこで呟いた言葉は、

「綺麗」

 この一言だけであった。たったこの一言を口にする為だけに今までじっと眺めていたのかと思うと恥ずかしくもなって来るが、羞恥心をも覆すほどの自然美は今俄かに成長を夢見んとして前向きになったであろう彼の気勢に加勢するかような優雅な風を拭き起こす。揺らめく枝葉は鷹揚にも屈強な精神でたじろぐ事なく天を仰いでいる。

 目を閉じ風を全身で感じていた英和は今一度梅に一瞥してから立ち去る。舞う寒風は彼の後ろから追い風となってその背中を攻め立てるのだった。

 

 地元の商店街を歩いていると前方に見慣れた男が一人颯爽と自転車をこいでいる姿が見える。義久は相変わらずの能面のような顔つきながらも少し焦燥に駆られたような様子で近付いて来る。

 落ち着きがあるようでない、ないようであるみたいな彼の雰囲気は依然としてその真意を見せようとはしなかったが、それを挙動不審と言い切ってしまうのも早計に思われる。英和は素知らぬ顔で通り過ぎようとしたが、やはり声を掛けられたのだった。

「英、久しぶりやんけ!」

「......おう、お前かいや」

 相手にしたくなかった英和は愛想の無い態度を取った。それでも動じない義久の様子は羨ましい限りで神経が通っているのかすら分からないぐらいであったが、そうは成りたくないと思う英和でもあった。

 義久は僅かな表情の変化だけを以て言葉を続ける。

「ちょっと金貸しとってくれへんか? 頼むわ!」

 また始まったと思った。もはやこれが口癖なのだろうか。そうならば酷い悪習だ。それもこの前あれだけの口論になったというのにまだこんな事を言い出すとは呆れてものも言えない。理解に苦しむ英和も流石に今回は貸そうとはしなかった。これ以上甘やかしてしまえばまた要らぬ災いを呼び起こす事になるだろう。

「お前ええ加減えんとあかんでな、本気で言うとんか?」 

 義久は間髪容れずに答える。

「誰がモンキーやねん!」

 英和には戦慄が走った。康明となら笑っていたであろうこんな古いギャグもこの現状にあっては寒気がするぐらいだった。それは当然義久の無神経な態度に対する憤りで、断る事こそが彼の為でもあると信じて疑わなかった。

「そうか、しゃーないな、じゃあまたな」

 ところが義久は全く卑屈になる事なくまた颯爽と自転車を走らせ姿を消すのだった。彼は本当に何も考えていないのだろうか。それとも他にあてでもあるのだろうか。

 怪訝そうな面持ちで立ち尽くす英和は今起きたたった数分の出来事に戸惑いを隠せなかった。皮肉ではなく本当に羨ましい。彼は悩んだり落ち込んだりした経験があるのだろうか。何故そこまで楽観的な、自己中心的な生き方が出来るのだろうか。これも先天的なものなのだろうか。もしそうなら親の顔が見てみたい。でも彼の親御さんとは何度も会っていてその為人も大方は知っている。確かに似ているようではあるが、ここまで酷くもない筈。

 取り合えず街中で喧嘩沙汰にならなかっただけマシと思った英和は思案もそこそこにして店へと向かう。

 まだ夕方のバーには客も少なく、店主は一人物静かにグラスを磨いていた。英和は一番端の席に坐ってウィスキーの水割りを頼んだ。恐らくは天然であろうその大きな氷の削り割られた断面は、まるで烈しい波に依って打ち砕かれた岩肌のような険しくも繊細な表情を現し、重厚感のある輝きをグラスの外にまで放っている。

 注ぎ込まれたウィスキーの原液と清らかな水は氷の角を優しく溶かすようにして円滑に浸透して行く。それを慣れた手つきで二三回かき混ぜる店主は、氷と酒、水の心を汲み取るかのような優しくも鋭い眼差しをこちらに気取られぬように向けていた。

「はい」

 少し低い声でカウンターテーブルの上に出された水割りにはウィスキー独特の渋い芳醇な香りが立ち込めていた。一口つけた時に感じるアルコール度の高さと喉を通る時の鮮明な刺激はビールとはまた違った昂揚感を与えてくれ、大人びた雰囲気を醸し出す店内の様子と相乗した味わいの良さは血管を媒介して生命の安らぎを感じさせてくれる。

 元々ひとり酒が好きであった英和はそんな環境を贅沢に感じながら自分の世界へと埋没して行く。そこに夢想の裡に現れる御伽噺のような恋物語には何時も或る綺麗な女性がいて、こちらを遠目で見つめている光景があった。何故彼女はこっちに来ないのだろう。亦自分も彼女の方に行かないのだろうか。

 まだ会って話もしていないのに芽生えてしまった恋路はどういう経路を辿り何処へ向かうというのか。それを確かめる為の恋であり、人生でもある筈。それなのにこの二人は何時まで経っても足を運ぼうとはしない。怖いのだろうか。結末を見たくないだけか、それとも嫌いなだけか。

 こんな状態で以心伝心に通じ合う両者の心情は正に御伽噺ならではで、切なくも儚い情景にある嬉しさや淋しさは幼子が感じ得る単純な感情に相違なく、裏を読まない純粋な気持ちは先々を憂慮する事を知らなかった。

 遙か彼方に一本の樹が立っていた。よし、そこを目指して進んで行けば自然と彼女に会えるのではないか。そうひらめいた英和はただひたすらその樹に向かって駆けて行く。だがいくら走っても一向に近付いて来ない樹は、逆に遠のいて行くようにさえ感じられる。流石は夢の世界だ。見ているから遠ざかってしまうのだ。ならばと思い目を瞑って進む英和。

 少々疲れたのか休憩していると後ろから誰かが声を掛けて来た。

「何愕いとん?」

 直子は英和の肩をそっとっ叩いて隣に腰掛ける。まだ酔ってもいないうちからこんな夢の世界に誘われてしまった英和はその目を擦って酒を飲み、直子の顔を見つめる。

「あの樹に行こうとしとったんやろ? なかなか辿り着けんかったけど」 

 直子は微笑を浮かべながら酒を注文し、徐に口を開き始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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