人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  二十七話 

 

 

 仕事を辞めてからというもの、英和は毎日を暇潰しのような感覚で過ごしていた。それはともすると人生自体が暇潰しに過ぎないといった余りにも虚しい、惰性的で悲観的な考え方をも生じさせる。

 それもその筈。仕事もせずギャンブルに明け暮れ、何の目的意識も持たない自堕落な日々を送る事は人間の精神を腐敗させるに十分で、意思も神経も何も通っていない、謂わば生ける屍同然なのである。

 たとえギャンブルで儲けた所でそんなものはあくまでも偶然性に依って齎された一時的な幸運に過ぎず、仮に一攫千金を成し得たとしても真に心が充たされる事もなければ倖せを手に掴んだ事にも成らないだろう。

 その辺の道理、理屈を理解しているからこそ苦しまなければならない英和でもあった。一概には言えないまでもギャンブルなどに身を窶す者の多くは金さえ手に出来ればそれだけで満足し、一抹の不安に焦点を置き真剣に将来を憂慮する者など僅かだとも思える。

 そういう者こそ羨ましいと思う英和ながらも決してそう成りたいとも思わない。ならばどう成りたいのか。それも分からない。生来怠け者でなければそこまで金が欲しい訳でもない。でも人間社会を嫌う気持ちだけは人一倍強い。自分でも手に負えないこの厄介な性格は如何ともし難い。

 全ては自己責任で自業自得なのだが、敢えて責任転嫁するならば全体主義に依る弊害のような気もしないではない。

 幼少の頃から学生時代、果ては社会人に至るまで。日本人というものは常に団体の中で飼育され、個性などは限られた僅かな者にしか認められない。協調性だけを重んじ、輪からはみ出す者を良しとはしない。結果その見せかけだけの輪の中に甘んじ、人の眼を気にし、右へ習え、長い物に巻かれろと言わんばかりに下らない空気を読む惰弱、脆弱な精神を有する者ばかりを作り上げてしまった。

 こういう硬い理論を展開する際に、戦後のやり方が悪かった、進むべき道を誤ったなどというもはや一般論にも思える発言をよく耳にする。

 確かにそこにも一理はあるだろう。だが本当にそれだけなのか。戦時中は言うに及ばず、戦前までも日本は大日本帝国憲法の下、教育勅語が表す愛国心は国民に強制的に植え付けられていたのである。

 つまりは大袈裟に言えば昔の日本にも個性は認められず、自由も無かった事になる。更に昔に遡って考察すると幕末の動乱期、明治維新などは素晴らしい日本の将来、夜明けを夢見る志士達が身命を賭して戦っていた筈。その将来が今なのかと思えば首を傾げたくなるし、その心は憂愁感で充たされてしまう。

 でも歴史が好きな英和は当然天皇制には大賛成で愛国心も十分備えていた。無論それは強制されての事ではなく、あくまでも本心だった。

 彼の歴史観というものは長いに越した事はないといった少々偏向的で観念的なものであったが、そこにも悪事や困難は長くは続かない、良いものでなければ長続きはしないといった思想に基づく一応の根拠はあった。

 だからこそ日本の天皇の血筋のように一度たりとも途絶えた事のない悠久の歴史、正に万世一系が表す長く美しい歴史が純粋に好きだったのである。

 それにしても日本人の我関せず、静観、傍観、対岸の火事を決め込み、上辺だけの人付き合いに興じる習性というものは戦後でもなければ戦前でもない、何時の時代から始まった事なのだろうか。元来そういう人種、民族性だったのだろうか。こればかりは流石に分からない。でも決してそうではない事を信じたい英和だった。

 梅雨が晴れかけたとはいえまだ湿気が残るじめじめとした気候を不快に感じながら、そんな堅苦しい見地に立って自分や康明の事、世相について考え続ける英和。

 徐に窓を開けると空には綺麗な虹がかかっていた。久しぶりに見られたこの虹はその気鬱さを多少なりとも緩和してくれる。孔雀が天翔けるような色鮮やかな虹の姿は自然の神秘とも言うべく可憐にも神々しいまでの輝きを放ち、実物とはいえ幻想性のある昂揚感を与えてくれる。

 大袈裟に解釈するのが好きだった英和は天からのサプライズだと、良い兆しだと受け取り、意気揚々とした面持ちで家を出る。すると都合よく康明から電話が掛かって来た。ちょうど出先であった為、二人は会う事にした。

 

 英和は虹を見上げならが通い慣れた道を歩いていた。平日の昼間に堂々と地元を歩くのも恥ずかしかったが、下手に意識し過ぎると逆に挙動不審に思われるであろう懸念が却って彼を毅然とした態度に導く。

 人通りの少ない道とはいえこの綺麗な虹を見上げている者といえば子供ぐらいなものだった。大人達はまるで感心がないといった風でただ気忙しく、それこそ対岸の火事を決め込むような素振りで、悪い表現だがロボットのように歩き続けている。

 他人に干渉する事を嫌う英和であっても、こうした情緒の欠片もないような現代人を見る時だけは露骨に悲哀な気持ちを表すのだった。

 そうこうしている内に約束の喫茶店に到着した。この店も何度も訪れていた店で、店主も常連客も顔見知りが多い。何故こんな店にしたのか自分でも理解出来なかった。だが愛想良く声を掛けてくれる店主の表情には他意は感じられない。

 まだ康明は来ていなかったみたいで取り合えず何時も通りの窓際の席に着く。そしてオーレを頼み煙草に火を付け窓外の景色をカッコをつけて眺めていた。

 なかなか康明が来ないので新聞や雑誌に目を通す。そこに書かれてある事も英和にとっては実に下らない下世話な記事ばかりだった。一般のニュースとコラム、それだけを読んで直ぐ様棚に返す。そしてもう一服煙草を吸い出した時、店の外で突っ立っている康明の姿を発見するのだった。

 何故彼は中に入って来ないのか。意味が分からない。康明は落ち着かない様子で辺りを警戒するように見ている。心配になった英和は外に出て、

「お前何しとんねん? 早よ入って来んかいや」

 と声掛けをした。それでも入って来ようとしない康明。もう一度同じ事を告げた英和に対し、康明は想定外の事を言い表すのだった。

「お前、ようあんな席に坐っとんな、隣見てみ、あのおっさん元ヤクザで結構質悪いおっさんやねん、絡まれるど、もう帰ろうや」

 この前康明の家に遊びに行った時から薄々とは感じていたが、これが真に彼から覚えた初めての違和感だったかもしれない。こんな経験は勿論初めてで、以前なら絶対に言わなかっただろう。その隣に居る者がヤクザだとしてどうだと言うのだ。自分達が十代、そして昔なら絡んで来た可能性も否定は出来ないだろう。でも今の時代にましていい年になった自分達にわざわざ絡んで来るとでも言うのか。それは考えられない。

 雑誌を取りに行く時、確かにその人の小指が短かった事は目に付いた。でも少々ガラの悪いこの街ではそんな人は何度も見て来ているし知り合いもいる。それなのに何故康明はそんな事を必要以上に警戒し畏怖するのだろうか。

 康明はそう言って呆気なく帰ってしまった。残された英和は元々お茶を飲むのが遅かった為、今一度席に戻り、ゆっくりとお茶を飲んでから店を出る。

 蟠りが消せない彼はそのあと康明の家を訪れた。彼は待ってましたと言わんばかりの表情で英和を出迎えてくれる。その愛想の良さを何故さっき見せてくれなかったのだと思いながらお邪魔をする英和。

 何時もいる母御が居なかった事は幸いだった。部屋へ通された英和は改めてさっきの事を問い質す。

「どういう事やねん?」

 康明は面倒くさそうに答え始めた。

「......、まだ言うとんかいや、もう終わった話なんやって」

 確かに終わった事ではあるが、ついさっきの話であってそれに触れる事がそんなに悪いとは到底思えない。英和はありのままに言葉を続ける。

「あのおっさんが何かして来るんかいや? そうなったらなったで何とでもやり様あるやろ、何をビビっとんねん、情けないの~」

「別にビビっとう訳ちゃうねん、昔から言うやろ、君子危うきに近寄らずって、俺はそれを実行しやだけなんやー言うねん」

 それを訊いた英和はまたも呆気に取られてしまった。返す言葉もなかったが、一応の事だけは口にする。

「お前な、ほんまに君子危うきに近寄らずという言葉の意味知っとんか?」

「読んで字の如くやろ、徳のある奴は危ない所には近づけへんねん」

 溜め息をついてから答え始める英和。

「やっぱりな、お前の知識なんかどうせその程度やでな、ええか、その言葉の真の意味は有徳者は行動を慎むとはいえ、あくまでも意図せずに危ない所に近付けへんという意味やねん、お前は意図して警戒しまくっとうだけやんがいや、履違えたらあかんでな」

 康明は依然として面倒くさそうな表情を泛べながら訊いていた。

「そんな難しい事は分からんわいや、俺にどうせえ言うねん!?」

「何を開き直っとんねん? 俺がただお前のその変容ぶりが気になっとうだけやねん、どうしたんや? 何かあったんか? あったんやったら何でも言うたらんかいや、長い付き合いやんけ」

 康明はそれ以上何も口にしなかった。その表情は俄かに真剣な面持ちへと変化し、ひ弱ながらも精一杯の屈強なバリアを象っていた。そのバリアの中に入る事さえ憚られる英和は無言の裡に康明の目を見つめ、その胸底深くに隠された真意を読み解くべく尽力する。

 でもその答えは全く出て来ない。バリアは康明の精神や性質、習慣的な意思や新たに加わった今の心情等と相重なり、渾然一体となった禍々しいオーラへと瞬時に成長してしまった。

 これ以上は何をしても無駄だと判断した英和は優しい笑みを浮かべながら、

「ところでおばちゃんどないした?」

 とだけ質問をする。

「今入院しとうねん、何年も入退院繰り返しとうからな」

 康明はバリアを張ったままそれだけを答えた。

 早々に帰途に就いた英和はまた項垂れた様子で康明の心を順序だてて整理しながら歩き続ける。

 結局彼とは虹の事につても話が出来なかった。もし言っていたとしても今の康明なら何も感じていなかったに違いない。そう判断した英和はまた空を見上げる。

 でも虹はもう消えていたのだった。

 

 

 

 

 

 

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