人生は花鳥風月

森羅万象様々なジャンルを名もなき男が日々の心の軌跡として綴る

汐の情景  三十話

 

 

 時刻は既に午後11時を過ぎていた。街外れにぽつんと佇むこの店の賑やかな灯りは、外から見れば都会のオアシスのような感じに映るかもしれない。

 英和がこれまで飲んでいた酒の量は余り好きではなかったビールを康明に付き合ってグラス2杯、あとは自分の好きな焼酎ばかりを5杯ほどと、そこそこのものであった。

 でも彼はそこまで酔ってはいなかった。言うなればほろ酔い程度のものか。それは酒に強かったのではなく、寧ろ弱い方だからこそ思う存分酩酊出来なかっただけのような気もする。彼は元々賑やかな酒の席が余り好きではなく、そういう場所に自分が不似合いな人物である事を自覚していた。それでいながら酒屋などを訪れていた理由は言わずもがな酒自体は好きであった事と、少し意味合いは違って来るが、パチンコ店や都会の喧騒と同じく、群衆の中の孤独感に酔いしれたいという彼らしい発想から来るものだった。

 それに引き換え、直子は結構いい感じに出来上がっていた。顔は仄かなピンク色に染まり、可憐ながらも少し潤んだ酔眼はいまいち焦点が定まらない様子で、席に着くなり英和に凭れ掛かって来るのだった。

 彼女の身体から艶めかしい、懐かしい感触が伝わって来る。照れながらも平静を装いつつ酒を飲む英和はこう語り掛ける。

「えらい久しぶりやな、会社の飲み会やったん?」

 そんな話はどうでも良いといった雰囲気で朧げに話す直子。

バツイチの会よ、酒でも飲まんとやってられへんやろ」

 直子が結婚していた事は人づてに聞いていたが、離婚の話は想定外だった。彼女が結婚したと訊いた時は正に万感の思いで、慶賀、安心、妬み、悲哀、様々な想いが胸に込み上げて来たものだ。

 だがまだ独り身である英和であっても別れるぐらいなら初めから結婚などしない方がまし、寧ろ離婚する為に結婚しているのかといった少々傲慢で慈悲心に欠ける持論も有していたのだった。

 それこそ現代社会を客観的に見る憂い心の表れなのかもしれない。でも直子のような大袈裟に言えば淑女とも言える、亦交際していた過去のある女性に対しては如何にお節介でナンセンスであろうとも等閑視は出来ない英和。

「何や、俺もせっかく安心しとったのに、勿体ないなぁ~......。」

 直子は全く表情を変えずに酒を飲んでいた。

「何言うとん、ほんまは喜んどんちゃうん? 私は晴れて独り身になったんやで、これからは......」

「これからは、何?」

 少し間を置いて答える直子。

「何でもないわ、もうこんな話どうでもええやん」

「そやな、こんなおもろい話ばっかりしとう場合ちゃうわな」

「何処がおもろいねん」

 ようやく落とし所を見つけた二人は話を切り替え、昔話などをして談笑し始める。気を利かせてくれた店主は酔い覚ましにと大根のおひたしを作ってくれた。

 食べている時の直子の表情はやはり憂愁感を含んでいた。その上でも明るい話や気の利いた事を言えない英和は自分を恥じていた。しかし無理をしてまで繕った言葉に何の意味があるだろうか、それこ虚しさしか残らないのではなかろうか。彼女もさっきの酒宴で大いに弾けていたに違いない。もう結構な時間だし、落ち着く頃合いだろう。

 そう判断した英和は水を一杯貰い、飲み始める。すると直子は険しい表情で言う。

「あんた、何水なんか飲んどん? もう帰んの? まだ早いやん、今日は久しぶりなんやしもっと飲もうよ、今日は朝まで飲み明かそう!」

 急にハイになった直子に愕く英和。その昂奮の仕方は明らかにぎこちなかった。恐らく本心ではない筈。ここにこそ英和の出方が試されていたのだろうか。躊躇しながらも水を飲み、煙草をふかす彼は直子の所作に康明の姿を重ね合わせて思うのだった。

 直子に鬱病の気配は感じられなくとも、二人は或る種の病的な躁状態に陥っているのではないか。それは酒の影響に依る単なる昂揚感に過ぎないかもしれない。そんな光景は何度となく見て来た。でも今の直子にはそれとは明らかに違った彼女らしからぬ雰囲気が漂っている。それが何であるかは分からずとも。

 病気の気配がしないのに病的に感じてしまう。この相矛盾する二つの事象には医学だけでは説明をつけ難い、非合理的ながらも人間生命に由来する原理的な性質が内在されているような気がする。

 それは道理を弁えずに駄々をこねる幼子のようなもので、意思と感情の関係性に他ならない。つまりはそのバランス感覚が崩れ去り、一時的にも理性を失ったそれらが突発的に独り歩きしてしまうといった衝動を伴った意識現象のように思える。

 要約すると意思と感情はそれぞれが違う性質とはいえ、元は同じものという原理的思考に依る法則性が成り立つ。

 直子は更に昂奮して言う。

「もうええ、次行こ! な!」 

「何処にや? まだ飲み足りひんのか?」

「皆まで言わせんなって! あんたも行きたいんやろ? 正直なとこだけがあんたの取柄やったやんか、ちゃうの? 今更カッコつけるなって」 

 人間が硬い英和はこういうノリが嫌いだった。確かに直子が言うようにこれから二人っきりで時を過ごしたいというのが本音ではあった。でもそれこそ自分の正直な意思がそれを拒む。今でも直子を愛するが故の純粋な意思だった。

「今日は帰るわ、また今度落ち着いて会おうや、な」 

 直子は溜め息をついてから答える。

「今度はないよ、あんたもほんまに相変わらずやな、そんな子供みたいな気持ちでは何時まで経っても結婚出来ひんし世の中渡って行かれへんで、康明君にも嫌われる筈や、真っすぐ過ぎて怖いぐらいやわ」

 直子はそう言って店を出て行った。英和は何も言い返せなかったし、言い返そうとも思わなかった。

 既に酔いが覚めていた彼は、何時ものように項垂れた様子で家路に就くのだった。

 

 夏の終わりというものは何とも言えない切なさを漂わせている。ここ数年、いやその人生に於いて毎年のように夏らしい事を殆どして来なかった英和にとってもその切なさは少々の悔恨を含み、彼の特技とも言える虚無的で無機質な優しい追憶を儚さの中に誘発させる。

 ならば高校生時代のように水泳でもして夏を謳歌すれば良いとも思えるのだが、長年ギャンブルに嵌っていたとはいえ若々しい事を何もして来なかった所以は怠惰や自己欺瞞の下に成り立つ、要らぬ客観性を含んだ、主体性のない恣意的な世界観の解釈に浸って来た事に尽きるだろう。

 ただ爽快に空を飛び回る鳥のように成りたい。優雅に水中を泳ぐ魚達。すくすく育つ樹々や草花。獲物を狙い生殺与奪に明け暮れる野生の動物。朝になれば昇り、夕方には沈む太陽に、夜に現れる月。果てはそれを実証する地球や星々の自転や交転。

 これらは意識的に動き続けているのだろうか。もしそうだとすればどのような意志が働いているのか、無意識だとすればそもそも何故動いているのか。それこそが神秘的な原理性なのか。

 他者の事は解らずとも、一々考えて行動してしまう人間という生命の性を悲観視する癖のあった英和のような者はやはり安楽に生きて行く事は出来ないだろう。

 そんな折、彼の下に喫茶店のマスターから連絡が入って来た。今直ぐ店に来てくれないかとの事だった。

 英和は慌てる事なく悠然とした様子で店に向かう。道中に煩く聞こえて来る蝉の鳴き声を全身で受け止めながら。

 店に着くと何時もの調子でマスターと常連客が朗らかに語らっていた。この前補修した壁とドアは自分でもなかなかのものと思える出来栄えに見える。

「こっちこっち!」

 と声を上げるマスターに誘われてカウンター席に赴く英和。マスターの真正面には一人の年配の男性が落ち着いた様子でコーヒーを飲んでいる姿が目に映る。 

「どうしたんですかマスター?」

 訊いた英和の顔をじっくりと見つめる年配の男性。そして彼はこう語り始めるのだった。

「君か、この壁造ったんは?」

「はぁ、そうですけど」

 少し訝りながらも謙虚に答える英和。するとその男性は軽く頷いて言葉を続ける。

「なかなかの男みたいやな、いや実はな、わしの家もリフォームして欲しいんや、どうや、頼まれてくれへんか? わしはマスターみたいなケチちゃうから、思う存分好きなようにやってくれたらええで」

 英和は含み笑いを堪える事が出来なかった。これでまた大工として活躍出来るのか、また人生を謳歌出来るのか。その嬉しさは言葉では表現出来ないほどの、感覚を超越した理屈抜きの恍惚感を齎す。

 心の何処かではそうなって欲しいと願っていただけにその喜びは一入だった。それを露骨に表現する事を恥ずかしがる英和は改めて毅然とした態度を装いながら礼を言う。

「有り難う御座います、是非やらせて下さい、お願いします」

 英和の心境を見透かしていたのか、男性も含み笑いをしながら答える。

「そうか、やってくれるか、じゃあ頼むわ」

 工事の詳細と連絡先を訊いた英和はその男性の隣に坐り、気を遣いながらもお茶を飲み、その場をやり過ごすのだった。

「英君、良かったな、田中さんは金持ちやし人脈も広いから、先行きは明るいで、頑張ってな」

「ほんまに有り難う御座います、全てはマスターのお陰ですわ、これで自分も生まれ変われますわ」

「ちょっと大袈裟な子やな、はっはっ」

 優しい笑顔を見せる田中さんだった。

 意気揚々と家に帰る英和はその事を早速母に告げる。母も当然喜んでくれて、豪勢な夕食を振る舞う約束までするのだった。それも大袈裟だと感じた英和であろうとも、親孝行が出来ると確信する気持ちは紛う事なき満足感であり、思わず涙腺が弛むのを感じる。でもその涙は懐深く蔵っておいた。これも敢えて精神的豊かさを、油断を嫌う彼ならではの思惑だった。

 だがこの現状にあっては憂慮する事など何一つないような気もする。仕事を熟す自信は勿論、この期に及んでまでギャンブルに逃げる筈もない。その他取るに足りない悩みなどは身体を動かしてさえいれば自ずと消え去って行くだろう。

 まだ時間は早かったが祝いを兼ねて部屋で酒を飲む英和だった。この前の苦い思いで飲んだ酒の味を払拭させてくれるような甘美な香りが全身を包んでくれる。この優越感はなにものにも代え難い。未だ沈まぬ日にまで軽く礼をして拝む。こんな気持ちになったのは何時以来だろうか。覚えている限りでは幼少の頃ぐらいだろうか。

 早々と二杯目の酒をグラスに注ごうとした時、電話の着信音が烈しく鳴り響く。康明からだった。

「おう、どうしたんや、実は今日ちょっとええ事があってな......」

 康明は全く耳を貸す事なく、英和の言葉を掻き消すように低いトーンで喋り始める。

「おかんが死んでもたわ......」

 英和は電話を床に落としてしまった。今康明は何を言ったんだ、鬱病の影響で悪い冗談でも言ってしまったのではないのか。いや流石にそれはありえないし、言う方も受け取る側も不謹慎過ぎる。

 それでも一応訊き直す英和。

「ほんまかいや!? 何でや? おばちゃん元気やったやんけ!」

「ほんまに決まっとうやろ!」

 そう言ってまた一方的に電話を切る康明。

「プー、プー、プー」

 電話から聴こえる音は淋しさと虚しさだけを物語っていた。

 

 

 

 

 

 

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